第14話 読めない文字
出発の朝、ギルドの玄関先に道具が並んだ。
薄手の紙の束。布に包んだ炭。写しを収める筒。記録帳と地図。編成は前回と同じで、エレノア、ゼイン、ガレス、護衛のロイとタリアが顔を揃えた。
「今日の目的は、写し取りです」
ゼインが全員に確認した。
「無理はしない。取れる分だけ、取って帰る。それで十分です」
一行は馬で街道を進んだ。エレノアは鞍の脇に結んだ包みを確かめた。炭の感触が、布越しに伝わってくる。
――その使い方を教わったのは、前日のことだった。
記録庫で、ミレーヌが棚から紙の束と、布に包んだ炭を取り出した。
「紙は薄手のものを。炭は、角のない柔らかいものをね。石の表面に紙を当てて、炭で軽く撫でる。凹んだところは白く残って、彫りの形が浮かぶ。――大事なのは、石を傷つけないこと。苔も、無理に落とさないで」
彼女は記録庫の隅から、欠けた石の標識を持ってきた。練習用にと、昔のものが置いてあるのだという。
「やってみて」
エレノアは言われたとおりに紙を当て、炭を滑らせた。最初は力が入りすぎて、紙が黒く潰れてしまった。
「撫でるの。押すんじゃないわ」
二度目で、標識の番号らしい数字が浮かんだ。
「上手。――他支部への照会の返事は、まだ来ていないわ。馬便だから、早くても十日はかかる」
彼女は少しだけ、夢みるような目をした。
「でも、待っていても仕方がないでしょう。取れる記録から、先に取るの。昔の文字ってね、読めなくても、形だけで語ることがあるの。楽しみにしているわ」
――炭の包みを仕舞い直すと、森の入口が見えてきた。
森の入口で馬を預け、一行は沢沿いの道を北へ進んだ。昼前には、石の板のある場所へ着くはずだった。
静けさの境目は、前回とほぼ同じ場所にあった。
鳥の声が薄くなり、やがて消える。エレノアは地図に前回引いた線と見比べながら、境目をもう一度記録した。線は、大きくは違わなかった。
二度目の静けさは、最初ほど不気味ではなかった。手順が決まっているからだ。一行は声を落とし、決めた間隔で立ち止まっては、周囲を確認した。タリアが耳を澄まし、首を振る。何も聞こえない、という合図だった。
野営跡の焚き火も、前回と変わらない様子だった。新しい灰も、人の気配もない。ガレスが周囲を一回りして、首を振った。
「そのままにしておきます」
「ああ。今日の本題は、あっちだ」
石の板は、倒木の陰で前回と同じ姿を見せていた。
作業は、まず周囲の記録から始めた。位置、方角、板の傾き。前回と同じであることを確かめてから、エレノアは紙を取り出した。
ここで、最初の問題があった。板は、紙より大きかった。一枚では全体が収まらない。見えている範囲を二つに分け、継ぎ目が分かるよう印を付けて写すことにした。
板の表面に紙を当てる。ロイとタリアが両端を押さえ、エレノアが炭を寝かせて、軽く滑らせる。
黒い粉が紙に乗り、やがて――形が浮かんだ。
「……出てきました」
直線と、曲線。ところどころで途切れながらも、人の手で彫られたと分かる線が、紙の上に現れた。文字の部分らしいものもある。だが、摩耗が激しく、読み取れる形にはならなかった。
一枚目は、途中で風に紙がずれ、半分ほどが滲んでしまった。
「すみません、もう一度」
「いい。記録は、何枚でも取れる」
ゼインが言った。彼は風の向きを見て、立ち位置を変えた。ガレスが風上に回り、二枚目は慎重に進んだ。タリアが紙の端を押さえる力を加減し、ロイが板の反対側から表面の凹凸を声で知らせる。
ゼインは作業には手を出さず、周囲の警戒と、日の傾きを見る役に徹していた。専門のことは、専門の手に任せる。それが彼のやり方だった。
二枚目が終わる頃、紙の上には、一枚目よりはっきりした形があった。
名前も、言葉も読み取れない。それでも、これは確かに、誰かが何かを残そうとして彫ったものだった。適当に刻まれた線ではない。行の揃い方、線の深さの一定さが、それを物語っていた。
三枚目、下半分に取りかかろうとしたとき、問題が分かった。板の下のほうは土に埋もれていて、紙が当たらない。掘り出せば取れる。だが、それは今日の決め事の範囲を超えていた。
「下は、掘らないと取れません」
「掘るかどうかは、持ち帰って決めましょう」
ゼインが言った。エレノアは、下部が未採取であることを記録に明記した。
「あと少しで、残りも取れそうですが」
エレノアが言いかけたとき、ゼインが口を開いた。
「今日は、ここまでにしましょう」
「副ギルド長」
「長居するな、と書かれていました」
彼は穏やかに言った。
「理由は知りません。ですが、昔の誰かの言葉を、無根拠に破るほうが気にかかります。残りは、次に取ればいい」
ガレスも頷いた。
「日も傾いてきた。妥当な判断だ」
写しは筒に収め、丁寧に閉じた。帰路、静かな範囲を抜けると鳥の声が戻った。前回と同じ、その当たり前さに、一行の足取りが少し軽くなった。
街道に出たところで、タリアが小さく息を吐いた。
「二度目でも、慣れませんね。あの静けさ」
「ああ」
ロイが頷いた。
「剣の腕より、耳が疲れる」
誰も笑わなかったが、張りつめていたものが少しだけ解けた。そのまま街道を進み、馬を預けた小屋で熱い茶を飲んだとき、エレノアは自分が思っていたより疲れていることに気づいた。
街道を戻る馬上で、ガレスが言った。
「下のほう、掘れば取れましたね」
「ええ」
ゼインが答えた。
「ですが、掘るのは記録の順序が違います。まず今の姿を残す。動かすのは、そのあとです」
「現場でも、同じです。痕跡は、踏み込む前に見るものだ」
エレノアはそのやり取りを聞きながら、自分の記録帳の書き方を思った。見たものを、見た順に残す。今日の判断は、その延長にあった。
ギルドに戻ったのは、夕方だった。
エレノアは記録庫に寄り、筒をミレーヌに渡した。彼女は机の上に写しを広げ、灯りを寄せた。
「あら」
彼女の目が、紙の上をゆっくりと動いた。
「線の並び……ねえ、アシュベリーさん」
「はい」
「これ、文字の行だけじゃないかもしれないわ」
彼女は指で、線の集まりをなぞった。直線と曲線の組み合わせが、ある場所で輪のような形を作っていた。
「図の部分が、混じっているのかもしれない。――断言はしないけど」
彼女はさらに、行の間隔を指で測った。
「行の幅が、きちんと揃っているでしょう。こういうのはね、公式の銘か、記念の文の作りよ。誰かの落書きではないわ」
彼女は写しの端を、懐かしむように撫でた。
「昔はね、旅の記録を石に刻む風習があったそうよ。誰がどこへ行って、何を見たか。紙は朽ちるけど、石は残るから」
「その板も、そういうものですか」
「さあね。――でも、誰かの旅の途中だったのかもしれないわね」
夢みるような目で、彼女は写しを見つめていた。
エレノアは写しを見つめた。読めない文字と、図かもしれない形。答えはまだ遠い。だが、今日持ち帰ったものは、確かに一歩だった。
「明日、古い記録と照合しましょう。私も楽しみ」
ミレーヌはそう言って、写しを丁寧に巻き直した。
自席に戻り、エレノアは記録帳を開いた。今日の分を書き加える。
写し取り、二枚。うち一枚は風で損なう。下部は土に埋もれ、未採取。
読めない文字。図かもしれない形。
分からないことばかりが並んだ。だが今日の記録は、前回の「石の板があった」という一行より、確かに厚くなっていた。問いが、少しずつ形を持ち始めている。
彼女は記録帳を閉じた。明日の照合が、待ち遠しかった。
翌朝、出勤したエレノアを、リオネルが照合表を持って待ち受けていた。
「設置記録の写し、助かった。一部、現地の番号と対応が取れたよ」
「付け替えは、あった?」
「まだ結論は出ない。対応が取れたのは半分ほどで、残りは現地で確かめるしかない」
彼は照合表を畳んだ。
「そっちの写しは、どうだった」
「読めなかった。――でも、形は取れた」
「上出来じゃないか」
「……珍しい」
「何が」
「あなたが、人を褒めるなんて」
リオネルは少しだけ目を逸らした。
「失礼だな。褒めるときは、褒める」
「滅多にないから、記録しておこう」
「やめてくれ」
彼は足早に自分の席へ戻った。エレノアはその背中を見送って、記録庫へ向かった。今日は、写しと古い記録の照合だ。ミレーヌが待っている。
お読みいただきありがとうございます。
次話「似ている形」――持ち帰った写しと、古い記録の照合が始まります。読めない文字と、図のような形。その先にあるものは。
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