第15話 似ている形
記録庫の朝は、紙と埃の匂いがした。
ミレーヌはもう机に向かっていた。写しは昨日のうちに広げてあったらしく、二枚が並んでいる。一枚目は風で滲んだもの。二枚目は、線のはっきりしたもの。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
「おはよう。こちらこそ、よろしくね」
ミレーヌは灯りを寄せた。
照合は、まず写しの整理から始まった。
ミレーヌが薄い紙を何枚も出し、写しの上に重ねる。浮かんだ線のうち、確かなものだけを、薄紙のほうへ写し取っていく。滲んだ部分、途切れた部分は、無理に補わない。分からないところは、分からないまま空けておく。
「記録ってね、空白を怖がると嘘になるの。空いているところは、空いているって書く。それが正直な記録よ」
言いながら、彼女の手は止まらない。輪のような形のところで、動きがゆっくりになった。
「この子ね」
「図かもしれない、と言っていた部分ですか」
「ええ。昨夜から、ずっと引っかかっていたの。……ねえ、アシュベリーさん。私、どこかで、これに似た形を見た気がするの」
「見た、というのは」
「この記録庫の、どこかで」
ミレーヌは立ち上がり、棚の前に立った。指が背表紙の上を滑っていく。何十年も前の巡回記録の綴りが並ぶ一角で、その指が止まった。
「確かではないの。でも、確かめる価値はあると思う」
取り出してきたのは、埃をかぶった厚い綴りだった。沢の北の走り書きがあった巡回記録より、さらに古い時代のものだという。ページは黄ばみ、ところどころに当時の巡回員たちの落書きのようなものが残っている。道の見取り図。天気の覚え書き。小さな花の絵まであった。
「余白に描くのは、昔の人も同じだったのね」
ミレーヌが、少し嬉しそうに言った。
二人はページをめくり続けた。目的の形は、すぐには見つからない。見取り図はたくさんあるが、どれも道と沢と標識の位置を示す、実務的な図だった。
それでも、諦めて別の綴りに移ろうとしたときだった。
「……待って」
ページの隅。日付と巡回路の記録の横に、小さく描かれた形があった。
輪と、そこから伸びる数本の線。写しの図に、よく似た組み合わせ。
エレノアは息を止めた。
「これ、ですよね」
「ええ。――ねえ、どう思う」
二人は写しと綴りを並べ、灯りの下で見比べた。
そっくり、ではない。写しのほうは石の摩耗で線が欠けているし、綴りのほうは人の手でさっと描かれたものだから、線の数も長さも、細部は違っている。
それでも、骨格は同じだった。輪を中心に、線が放射状に伸びる組み合わせ。偶然に生まれる形にしては、要素の並びが揃いすぎている。
「同一、とは書けないわね」
ミレーヌが言った。
「ええ。類似、までです」
「でもね」
彼女は綴りの形を、指でそっとなぞった。
「昔の巡回員さんが、これをどこかで見て、余白に描き残した。だとしたら――この形は、昔から人の目に触れてきたもの、ということになるわ」
「石に刻まれていたもの、かもしれない」
「かもしれない、ね」
彼女は念を押すように言った。
「断定はできない。でも、もし旅の記録を石に刻む風習があったのなら、これはその一部かもしれない。道しるべか、目印か。――想像はここまで。あとは証拠を集めましょう」
エレノアは記録帳を開いた。
巡回記録(年代は綴りの表記に従う)の余白に、写しの図と類似する形を確認。線の細部は一致せず、同一とは断定できない。描かれた経緯は不明。
一字ずつ、確かめるように書く。似ている、という言葉の重さを、彼女は知っていた。似ていると同一のあいだには、大きな距離がある。その距離を飛ばさないのが、調査官の仕事だった。
照合は昼を過ぎても続いた。
似た形が他の綴りにもないか、二人で当たった。だが、二つ目は見つからなかった。少なくとも今日の範囲では、形は一つだけだった。
「下半分が取れれば、見比べられるのにね」
ミレーヌが、写しの下のほう――土に埋もれて取れなかった部分に目をやって言った。
「掘るかどうかは、報告してから決めることになっています」
「分かっているわ。石は逃げないもの。――焦っているのは、私のほうね」
彼女はそう言って、写しを丁寧に巻き直した。
昼下がり、記録庫の戸が開いた。
入ってきたのはガレスだった。脇には、古い地図の束を抱えている。
「返却に来た。先月借りた、沢筋の旧道の地図だ」
「あら、ガレス」
ミレーヌが顔を上げた。
「記録庫に自分から来るなんて。明日は雨かしら」
「……からかうな、ミレーヌ。昔は、しょっちゅう来ていただろう」
「ええ、昔はね。若かった頃は、二人とも」
ガレスは苦笑して、地図を棚に戻した。戻す場所に、迷いはなかった。長くここに通った者の手つきだった。
「それで、何を騒いでいる」
「騒いではいません。見つけたんです」
エレノアは、写しと綴りを並べて見せた。輪と線の形。似ているが、同一とは言えないこと。昔の巡回員の余白に描かれていたこと。
ガレスはしばらく、二つの形を見比べていた。
「……ふん」
「ふん、だけですか」
「現場の人間はな、言葉にできないものを、まず絵に描く。気になる形を見たら、手が勝手に写すもんだ。昔の巡回員も、同じだったんだろう」
「あなたも描いたの?」
「山ほどな。――大半は、ただの木の根と岩の影だったが」
ミレーヌが小さく笑った。
「それでも描き残すのよね。言葉にできないものほど」
「ああ。だから、こいつの描き残しも、本物くさい。何かを見たんだ。その何かは、分からんが」
彼はそれ以上、踏み込まなかった。現場で何十年もやってきた者の、線の引き方だった。
「お互い、余白だらけの身だな」
棚の綴りの列を見て、ガレスが言った。
「若いもんの記録は、本文が詰まっている。俺たちの年代のは、余白に落書きが多い」
「あら、私は今でも描くわよ。花の絵くらい」
「知っている。――だから、いいんだろうな」
何がいいのか、彼は言わなかった。ミレーヌも、問い詰めなかった。
エレノアは二人のやり取りを聞きながら、少しだけ微笑んだ。古参同士の会話には、新参者が口を挟む余地のない、穏やかな完結があった。
ガレスは写しをもう一度見て、帰っていった。
「でもね、アシュベリーさん。一つ、確かなことがあるわ」
「何ですか」
「問いが、増えたのよ。――昨日までは『この形は何か』だったでしょう。今日からは『なぜ昔の巡回員が、これを描き残したのか』が増えた。問いが増えるのは、悪いことじゃないの。近づいている証拠よ」
記録庫を出ると、廊下は夕方の光に満ちていた。
自席へ戻る途中、リオネルとすれ違った。彼は照合表の束を抱えていた。
「そちらは、どうだった」
「進んだよ。対応が取れたものが、また少し増えた」
「付け替えの有無は」
「まだ言えない。ただ、残りの不一致も少しずつ絞れてきた。あとは現地で確かめるしかないのも同じだ」
彼は照合表を少しだけ掲げた。
「そっちは」
「似ている形が、見つかった」
「……ほう」
「古い巡回記録の余白に、写しの図と似た形が描かれていた。同一とは言えないけど、無関係とも言い切れない」
「記録の仕事らしい進み方だな。一歩が小さい」
「ええ。でも、確かな一歩です」
リオネルは小さく頷いて、自分の席へ戻っていった。
エレノアは自席で記録帳を開き、今日の分を書き加えた。
写しと古い記録の照合。一件、類似する形を確認。同一の断定には至らず。
リオネルの照合、継続中。不一致の絞り込みが進んだ。
書き終えて、彼女はしばらくペンを止めた。
読めない文字。図かもしれない形。そして、昔の誰かが余白に描き残した、小さな輪と線。
答えは、まだどこにもない。だが、点と点のあいだに、薄く線が引かれ始めている気がした。
彼女は記録帳を閉じた。
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次話「歓迎会の幹事」――着任から延び延びになっていた歓迎会を、ルルがついに開きます。受付から見た、少しだけ縮まる距離の話。
次話は11月2日19時にアップ予定です。
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