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氷の女神は魔法が使えない ―忘れられた神の物語―  作者: mom
静まり返る森

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第7話 戻るための判断

エレノアは一歩下がりながら、鞄の留め具を閉じた。


背後には沢へ下る斜面がある。左へ足をずらし、平らな地面を確保してから、腰の短剣を抜いた。外套の裾は留めてある。足にも、柄にも絡まない。


剣の男が正面を塞ぎ、弓の女が右へ動いた。エレノアはその射線を横切らない位置で止まる。


「後ろを見る」


ガレスが低く告げた。彼も短剣に手をかけ、来た道へ目を配っている。


灰牙狼の耳が動いた。


低く伏せた頭は、剣の男へ向いている。口の端がめくれ、長い犬歯の根元まで見えた。唾液が糸を引き、落ち葉へ落ちる。


男が剣先をわずかに下げると、狼は一歩、横へ動いた。


エレノアも足を運び、男との間隔を保った。右手の短剣は低く構えたまま、狼の肩と前脚を見る。


木々の間では、弓を使える場所が限られる。女は矢をつがえていたが、まだ弦を引き切ってはいなかった。


狼が低木の縁へ回った。


男が進路を塞ぐ。その足が地面につく直前、灰色の体が跳ねた。


剣が横へ走った。


刃に裂かれた毛が散り、狼の肩から血が飛んだ。だが浅い。着地した狼は、そのまま男の左脇へ抜けようとした。


エレノアとの間にあった低木が、激しく揺れた。


牙の並んだ口が開く。


エレノアは左足を引き、幹のそばへ体をずらした。鼻先が外套をかすめる。噛みついた牙が空を切り、狼の脚が地面を掻いた。


「光るぞ!」


剣の男が声をかけた。


エレノアは視線を落とした。彼の左手で白い光が弾け、足元の影が濃く伸びる。


狼が顔を背けた。


今回の護衛に、攻撃魔法で獣を仕留められる者はいない。それでも、一瞬の隙は作れる。


エレノアは狼の口元を避けて踏み込み、肩口へ短剣を走らせた。毛皮が裂け、刃を引く手に肉の抵抗がかかった。切り抜くように腕を引き、すぐに身を退く。


血が落ち葉へ飛び散った。


狼が傷ついた脚を踏み直す。その脇腹へ、矢が突き立った。


獣の喉から、押し潰されたような声が漏れた。体が傾ぎ、前脚が土を掻く。剣の男は横へ回り込み、首元へ刃を突き入れた。


血が剣を伝い、男の手袋へ流れた。


狼は一度大きく身を跳ねさせた。牙が何もない空間を噛み、剥き出しの歯が打ち合う。男が柄を支え直すと、やがて脚の動きが弱まり、腹が地面へ沈んだ。


誰もすぐには武器を収めなかった。


弓の女は次の矢をつがえ、木々の奥を見ている。ガレスも背後へ視線を向けたままだ。


エレノアは短剣を握り直した。柄が少し汗ばんでいる。


「ほかには見えません」


女が告げた。


ガレスは頷き、木々の間へ耳を澄ませた。葉擦れと、遠い水音が聞こえる。続いて近づいてくる足音はなかった。


剣の男が狼の息が止まったことを確かめ、ようやく顔を上げた。


「怪我は?」


「ありません」


エレノアは答え、男の左腕へ目を向けた。


袖が裂けている。男はその視線に気づき、布をめくった。皮膚には浅い擦り傷が一本走っていたが、血はほとんど出ていない。


「こっちも、このくらいです」


ガレスが傷を確かめてから、エレノアへ向き直った。


「お前は?」


「噛まれていません。服も大丈夫です」


外套の脇を確かめて見せると、ガレスは頷いた。


エレノアは狼の位置と、古い印のある木を見比べた。


血の落ちた土は、境界のこちら側にある。


「周囲へ知らせましょう。ここなら、採取者が来ます」


「ああ。今日は調査を切り上げる」


ガレスは弓の女へ目を向けた。


「上に光を上げられるか?」


「少し戻れば、枝の切れている場所があります」


「そこで頼む。まとまって動こう」


エレノアは短剣の血を拭った。


狼のそばには、濃い獣臭と血の匂いが漂っていた。長い犬歯の間に、赤い唾液が残っている。


青年の脚の傷を思い出した。


採取籠を背負い、足場を選びながら、この速さから逃げなければならなかったのだ。傷を負ったあと沢を渡ったという証言も、今は違う重さを持っていた。


短剣を鞘へ戻し、記録帳を取り出す。


古い調査印のある木。狼が最初にいた低木。沢から上がってきた方向。


護衛の二人が警戒する間に位置を記し、死骸の場所も描き添えた。


記録帳をしまうと、ガレスが頷いた。


「行くぞ」


*


少し戻った場所で、枝の重なりが途切れていた。


弓の女が頭上を確かめ、片手を上げる。


その掌に光が集まった。


女が腕を伸ばすと、光は木々の間を抜け、一気に空へ昇った。高いところで弾け、細かな光をこぼしながら留まる。


付近の危険を知らせる非常魔法だった。


見えた者が退避するかどうかは、それぞれの判断になる。何が起きたのかも、あの光だけでは分からない。


エレノアは地図を開いた。


「帰りは、中央の採取場所から来る道を通りましょう。沢沿いを避けて戻れます。途中で声をかけたいです」


ガレスが経路を確かめた。


「そうしよう。ただし、返事がなくても奥へ捜しには行かない。分かれずに戻るぞ」


「はい」


剣の男が先へ立ち、弓の女も空から目を戻した。


光はまだ、枝の切れ間に見えていた。


*


人の声が聞こえたのは、合流点へ着く少し前だった。


籠を背負った若い男女が、脇道から出てくる。こちらを見るなり、女が足を速めた。


「今の光、あなたたちですか?」


「そうです。この先で灰牙狼が出ました」


ガレスの言葉に、男が眉を寄せた。


「沢のほうですか。そっちには行くなって、受付で聞きましたけど」


「沢から上がった先だ。指定区域の中で出た」


二人の顔が、彼の示す方角へ向いた。


「一頭は倒しました。ただ、ほかにいないとは確認できていません。今日は戻ることをお勧めします」


エレノアが伝えると、男は籠の中を見下ろした。


「まだ、依頼の分が足りなくて」


女がその袖を引いた。


「でも、灰牙狼でしょう」


「分かってるよ」


苛立った声だった。男は女の手を振り払うこともなく、籠の肩紐を握っている。


エレノアは二人の返事を待った。


「期限の相談は、受付でしていただけます。現地の調査官から帰還を勧められたことは、私からも伝えます」


「延ばしてもらえるんですか」


「依頼の内容を確認しないと、お約束はできません。ただ、今回の事情は報告します」


男は唇を結び、もう一度籠を見た。


「……戻ります」


ガレスが頷き、一緒に歩き始める。


エレノアは女へ尋ねた。


「いらした場所に、ほかの方は?」


「私たちが出るときには、いませんでした。もう少し前には、一人見ましたけど」


「場所と、服装を教えていただけますか」


茶色の上着に、細長い籠。女が示したのは、少し西へ外れた採取場所だった。


エレノアが書き留める間に、ガレスが合流点で声を張った。


「ギルドの調査だ! 近くにいる者は返事をしてくれ!」


木々の間へ声が響いた。


しばらく待ったが、返事はなかった。


エレノアは時刻と場所を記し、記録帳を閉じた。


*


木々が途切れると、頬に当たる風が強くなった。


森から続く道は、ここから街道へつながっている。踏み固められた土には、靴跡と籠を置いた跡が重なっていた。


採取者がよく使う道だが、森へ入る道はほかにもある。


ガレスは道の両側を見渡してから、エレノアへ向き直った。


「俺が戻る。追加でどこを調べるか、人をどう入れるかまで話してくる。ほかの道への注意喚起も頼まないとな」


エレノアは頷いた。


「今日の記録をまとめます」


「ああ。それと、ここを任せられるか」


「はい。この道を使う方には、私から説明します。戻ってくる方にも、中の様子を聞いておきます」


ガレスは護衛の二人へ目を向けた。


「引き続き、こっちを頼みたい」


「分かりました」


剣の男が答え、弓の女も頷いた。


エレノアは記録帳から紙を切り離した。


指定採取区域内で灰牙狼一頭と遭遇。討伐済み。ほかの個体の有無は未確認。


遭遇地点と、付近へ通じる道。死骸の位置。帰路で声をかけた場所と、採取者から聞いた目撃情報。


ガレスは書き上がった紙へ目を通した。


「これでいい。お前たちも、日が傾く前には引き上げろ。交代が今日中に着くとは限らん」


「分かりました。帰りも、この道を使います」


「森の中へは戻るなよ」


「戻りません」


返事をすると、彼はようやく紙を畳んだ。


一緒に来た採取者の男女が、街道へ向かう。


「俺たちも戻ります。急ぐなら、先に行ってください」


「分かった。気をつけてな」


女はエレノアへ頭を下げた。


「教えてくださって、ありがとうございました」


「お気をつけて」


二人に続いて、ガレスも歩き出した。


数歩進んでから振り返る。


「エレノア。水も飲めよ」


彼女は手にしていた記録帳へ目を落とした。


ここへ着いてから、次に聞くことばかり考えていた。


「ガレスさんも」


「分かってる」


彼は手を上げ、今度こそ王都へ向かって足を速めた。


*


エレノアは道端へ鞄を置き、水筒を取り出した。


水を飲むと、喉が思っていたより乾いていたことに気づいた。蓋を閉める手の甲に、小さく血がついている。


布で拭うと、乾きかけた跡が茶色く伸びた。


「さっきは、助かりました」


剣の男が言った。


エレノアが顔を上げると、彼は短剣の柄へ目を向けていた。


「横へ抜けられたときです」


「こちらこそ。あの光がなければ、切りつける余裕はありませんでした」


「目を閉じてくれたのも、一瞬でしたけどね」


男は苦笑し、森側へ立った。


エレノアも布をしまった。


自分の短剣だけで、あの狼を相手にしたかったとは思わない。だが、彼らの後ろで何もできずにいたわけでもなかった。


足場も、動く機会も、自分で選べた。


そう思ったところで、男が裂けた袖を気にしているのが見えた。彼女は手を止め、自分の上着に残った血の染みへ視線を戻した。


働きを認められて、嬉しかった。


こんな場面でも、そこは変わらないらしい。


「人が来ます」


弓の女の声に、エレノアは顔を上げた。


街道側から二人の男が歩いてくる。肩には籠を背負い、何か話しながら森へ向かっていた。


エレノアは立ち上がり、道へ出た。


「ギルドの調査官です。この先の危険について、お伝えしたいことがあります」


二人が足を止める。


一人は彼女の徽章を見て、もう一人は森側に立つ剣の男へ目を向けた。


「何かあったんですか」


「指定採取区域内で、灰牙狼を確認しました」


口にすると、胸の奥がわずかに強張った。


青年が区域外へ出たと知ったとき、自分の調査に落ち度がなかったかもしれないと安堵した。


その気持ちを、今さらなかったことにはできない。


エレノアは地図を開いた。境界線の内側に、今日書き加えた印がある。


「こちらです。一頭は倒しましたが、付近の確認は済んでいません」


「そこ、前に採った場所だな」


男の一人が呟いた。


彼女も知っている場所だった。ひと月前には、自分の足で歩いている。


エレノアは印のそばへ指を置き、二人へ地図を向け直した。


「今日は、こちらへ入るのを控えていただけますか」


風にめくれそうになった紙を、もう片方の手で押さえた。

お読みいただきありがとうございます。

次話「地図の外にあるもの」――会議の席で、調査の範囲は北へ広がります。地図に収まらない森の話が、少しずつ集まってきて……。

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