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氷の女神は魔法が使えない ―忘れられた神の物語―  作者: mom
静まり返る森

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第6話 標識の向こう側

夜明け前のギルドは、昼間よりも広く感じられた。


依頼掲示板の前に人だかりはなく、受付の灯りも半分ほどしかついていない。奥から聞こえるのは、早番の職員が書類を揃える音と、湯を沸かす小さな物音だけだった。


エレノアは階段脇で足を止め、肩からずれた鞄を掛け直した。


今日は内勤用のスカートではなく、灰色のズボンを穿いている。紺の上着も腰丈の現場用で、肘には補強が入っていた。襟と袖に走る細い青緑の縁取りと、胸の徽章はいつもと同じだが、細いリボンは外してきた。


その上に羽織った自前の外套は、裾を内側へ折って留めてある。一昨日の泥から学んだ結果だった。


「今度は裾を守る気か」


振り向くと、ガレスが革の鞄を手に立っていた。同じ現場用の上着でも、彼のものは袖口が柔らかく擦れ、脇のポケットには留め具が一つ増えている。


「洗うのが大変だったんです」


「森のほうは気にしてくれんぞ」


「だから、こちらで対策しています」


ガレスは笑い、玄関のほうへ顎を向けた。


「護衛の二人も来てる。顔を合わせたら出るぞ」


待っていたのは、剣を帯びた男と、弓を背負った女の二人だった。どちらもこの森での仕事には慣れているという。ガレスが挨拶を交わしてから、地図を広げた。


調べるのは、倒木の先の斜面と、そこから沢へ下りる経路。灰牙狼の痕跡があっても、予定の範囲を越えて追跡しない。


「前回より調べる範囲が広い。区域の外じゃ、俺が周りを見ながら調べるにも限度があるからな」


「日が傾く前には森を出る。帰りが遅くなっても歩けるように、灯りは確かめといてくれ」


「はい」


エレノアは鞄の外ポケットに触れた。携帯灯は出がけに点検してある。記録帳、地図、採取袋、昼食も入れた。


四人が玄関を出る頃、東の空がようやく白み始めていた。


*


街道を離れ、森へ入ったのは昼前だった。


途中で腹ごしらえを済ませ、沢沿いの道を上流へ向かう。一昨日より水は引いていたが、岸辺にはまだ濡れた泥が残っていた。


今日はガレスが先頭に立ち、剣の男がその少し前まで出て道を確かめる。弓の女は後ろから周囲を見ていた。


「あれだ」


ガレスが示した先に、倒れた大木が横たわっていた。


根が土を抱え込んだまま道の側へ張り出し、下には人がかがんで通れる隙間がある。エレノアは青年の言葉を書き留めた紙と見比べた。


「根の下を通った、と話していました。この形なら合います」


「先に標識を見よう」


倒木を回り込むと、分かれ道の脇に木の杭が立っていた。板の上部には区域を示す番号が刻まれ、その下に、指定区域がここまでであることと、その先の安全が確認されていないことが書かれている。


文字の一部に泥が跳ねていたが、近づけば読めた。


エレノアは通ってきた道を戻り、今度は採取者が歩いてくる向きで標識へ近づいた。張り出した根が視界に入る。足元に気を取られても、顔を上げれば板は目に入る位置だった。


「読めるか?」


「はい。今の状態では。事故のときも同じだったかは分かりませんが、本人が覚えていた文言とも合っています」


標識の番号と、位置と向きを記し、その先へ目を向けた。


木々の間に、小さな斜面が見える。低い草がまとまって生えており、上から眺めると青葉草に似た色をしていた。


「あそこかもしれません」


ガレスが隣に立ち、地図を確かめた。


「下りてみる。周りを頼む」


護衛の二人が頷いた。


斜面の途中で草を一本確かめると、葉の縁に細かな切れ込みがあった。青葉草の葉は、もっとなめらかだ。


「違いますね」


「遠くからだと、色は似てるな」


エレノアは根元を残して葉を一枚採り、袋へ入れた。これが青年の見た草か、後で確かめてもらう必要がある。


背後から斜面を下りてきた剣の男が、木の根の下を覗き込んだ。


「こっち、何か残ってる。少し照らしてもらえますか」


男が見ていたのは、エレノアの空いている右手だった。


「灯りを出します。少し待ってください」


記録帳を鞄にしまい、外ポケットの留め具を外す。携帯灯を取り出す彼女を見て、男が口を開いた。


「ああ、手元の光で十分なんですが」


「私は魔法を使えませんので」


男の視線が、彼女の顔へ戻った。


「まったく?」


「ええ」


それだけ答え、エレノアは左手の指輪を携帯灯の起動部へ添えた。金属の枠に収まった灯りが、淡く点った。


両親から贈られた、特注の魔道具だった。これを介せば使える道具はある。けれど、彼女自身の指先に光が灯るわけではなかった。


生まれつき、魔素を受け止める器がない。周りの子どもたちが小さな魔法を覚え始めた頃から、できないことは変わっていない。


「知らなくて。すみません」


「いえ。どの辺りですか?」


「この奥です」


根の下は狭く、携帯灯を地面へ置くと、枠の影が見たいところにかかった。持ち上げれば片手が塞がり、もう片方は斜面で体を支えるのに使いたい。


エレノアは足を置き直した。靴底の下で小石が滑る。


男は空いた手に小さな光を灯すと、根の隙間へ差し入れた。


「灯り、持ちましょうか」


「では、ここを照らしていただけますか。私は記録します」


頼むと、光がすぐに動いた。


エレノアは携帯灯を消してしまい、記録帳を取り出した。


道具を持ち替える間に、ほかの人なら見終えている。些細な差だが、一日に何度も積み重なると、些細なままでは済まなくなる。


今も、道具を出すより頼むほうが早かった。分かっていて、まず自分でどうにかしようとした。


男が片膝をつき、光の位置を下げる。


「これで見えますか」


「はい。ありがとうございます」


根の表面に、灰色の毛が数本引っかかっていた。


ガレスを呼ぶと、彼は触れずに覗き込み、周りの土と根の間隔を確かめた。


「何かがここへ潜り込んだな。人間一人なら入れる」


「逃げた途中で身を寄せた可能性はありますね」


「ああ。ただ、この毛の主と同じときかは分からん」


エレノアは位置を描き留め、毛を別の袋へ採った。根の脇には布が擦れたような跡もあったが、雨と土で輪郭ははっきりしなかった。


青年は、襲われたあと木の根元で休んだと話している。ただ、この場所だとはまだ言えない。


「沢までの経路も見ましょう」


記録帳を閉じると、ガレスが彼女の腰の鞄へ目をやった。


「灯りの口金、緩んでないか。さっき出したとき音がしたぞ」


確かめると、枠の継ぎ目が少しずれていた。エレノアは締め直し、今度は鞄の中で動かないように布を挟んだ。


「ありがとうございます」


「帰りに気づいても遅いからな」


ガレスはそれだけ言って、沢へ向き直った。


*


浅くなった流れを渡り、対岸からも斜面を確かめた。


石を選べば靴を水に沈めずに渡れる場所もあったが、足を負傷していれば難しいだろう。青年の言ったとおり、水の中へ足を下ろして進むほうが安定する。


そこから救助地点へ向かう道も、地図の上ではつながった。


エレノアは水際で地図を押さえ、線を書き足した。


「最初の申告地点より、こちらのほうが話に合います。倒木も標識も、見間違えたという草も」


「戻ったら本人に確かめよう。拾ったものも見てもらう」


「はい」


少し離れた場所で、弓の女が低く呼んだ。


「ガレスさん。足跡があります」


沢へ張り出した泥の上に、獣の足跡が続いていた。大きなものが幾つか、その間に水滴の落ちたような小さな窪みが混じっている。


ガレスは護衛の男に周囲を頼み、しゃがみ込んだ。


「水から上がった跡だな」


「灰牙狼ですか?」


「似てる。だが、跡だけで決めるのは早い」


エレノアも隣へ膝をついた。縁は崩れ切っておらず、底に水も溜まっていない。


「新しい跡でしょうか」


「長く雨に打たれた跡じゃないな。ただ、いつ通ったかまでは分からん」


事故のときのものとも、あの青年を襲った狼のものとも、まだ決められない。


沢を渡った獣は、岸辺をしばらく歩いてから、木々の間へ入っていた。


その方角を確かめ、エレノアは地図の線を指でなぞった。


「この先は、採取区域に入ります」


ガレスが頷いた。


「予定の経路に近い。見通せるところまで確かめる。離れるなよ」


剣の男が前へ出た。弓の女が道の後ろへ目を配る。


歩くうち、足跡は落ち葉に紛れて途切れた。ガレスはそこで立ち止まり、木々の向こうを見渡した。


エレノアも記録帳を閉じた。


先ほどまで聞こえていた水音が、ここでは少し遠い。


「あそこ」


弓の女が囁いた。


低木の陰で、灰色の背が動いた。


続いて頭が上がる。細長い口の端から、白い犬歯が覗いた。


「灰牙狼だ」


ガレスの声と同時に、剣の男がエレノアの前へ入った。


狼はこちらを見ていた。すぐには飛びかからず、低く身を構えている。


エレノアは足を止めたまま、右側の木を確かめた。幹にある古い印は、一か月前の安全調査でも確認したものだった。


ここは、指定区域の内側だ。


鞄へ記録帳をしまう指に、少し力が入った。


「後ろへ。ゆっくりだ」


ガレスに従い、エレノアは一歩下がった。

護衛の剣先が、彼女と狼の間で静かに上がった。

お読みいただきありがとうございます。

次話「戻るための判断」――灰牙狼と対峙した調査隊。追うか、戻るか。判断の先にあるものは。

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