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氷の女神は魔法が使えない ―忘れられた神の物語―  作者: mom
静まり返る森

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第5話 帰ってきた兄と夕食を

部門長は報告を聞き終えると、地図の上に置かれた二枚の記録を見比べた。


「襲撃地点が変わる可能性がある、ということだね」


「はい。本人が話した倒木と標識の位置から、こちらの斜面と考えています。ただ、現地での照合はまだです」


エレノアが示すと、部門長は境界線のすぐ外側に目を落とした。


「区域外だったとしても、近いな」


「ええ」


ガレスの答えに、部門長が頷く。


「昨日確認した範囲では、姿は見ていないんだね」


「はい。ただ、区域内に入っていないとは言い切れません」


エレノアは昨日歩いた経路を示した。部門長はしばらく地図を眺め、机の端から紙を一枚引き寄せた。


「再調査を進めよう。それまでは、沢沿いから北側の利用を控えるよう案内する。範囲はこれでいいかな」


書き込まれた線を、ガレスが確かめる。


「こちらの道も含めてください。斜面から行き来できます」


「分かった。依頼管理側には私から連絡する。ほかに、伝えておくべきことは?」


「青葉草の採取についても、お願いします」


エレノアは聞き取りの記録を開いた。


「今回の負傷者は、草が見つからず探す範囲を広げたと話していました。採取量そのものが減っているかは確認中ですが、利用を制限すれば、依頼を達成しづらくなる方はいると思います」


「期限の相談が来るかもしれないね。それも伝えておこう」


部門長は手元に書き加え、再調査の段取りへ話を移した。


翌日は早朝に出る。ガレスとエレノアが現地の照合と痕跡の確認を行い、リオネルは支部に残って証言と既存記録を整理する。護衛の手配は、部門長から冒険者運用側へ依頼することになった。


「今回は、襲撃地点の確認が先だ」


部門長が地図を指した。


「痕跡が奥へ続いていても、そのまま追わないこと。調査範囲を広げる必要があれば、戻って体制を組み直そう」


「分かっています」


ガレスが頷き、エレノアも返事をした。


「副ギルド長には、私から概要を共有しておく。まずは明日の結果を見よう」


部門長の言葉に、三人は頷いた。


原因を説明する材料は、まだ足りていない。だが、明日どこへ行き、何を確かめるかは決まった。


エレノアは記録を揃え、地図を畳んだ。


*


執務室へ戻ると、ガレスは自分の机に資料を置き、上着の襟を軽く直した。


「俺はちょっと、副ギルド長に挨拶してくる。戻ったら明日の持ち物を合わせよう」


「はい」


エレノアは机に向かい、現地へ持っていく記録を抜き出した。


当初の申告地点と、今日の聞き取りから絞った場所。その両方を地図へ書き込み、昨日通った道とは線を分ける。リオネルが隣から記録を差し出してきた。


「倒木の説明は、こっちにも写してある」


「ありがとう」


「標識の状態も見てきてくれ。本人が読んだと言っている文言と合っているか」


「ええ。道からどう見えるかも確認するわ」


必要な資料を揃えているうちに、ガレスが戻ってきた。


「ご挨拶、済んだんですか?」


「ああ。若いが、話しやすい人だったな。現場に出ていて遅くなったと言ったら、そちらが先でしょう、とさ」


ガレスは椅子に腰を下ろした。


「今度、調査の話も聞かせてほしいそうだ。今日は向こうも忙しそうだったから、挨拶だけにしといた」


「着任初日ですものね」


「机はもう、書類で埋まり始めてたぞ」


エレノアは自分の机を見た。ルルから受け取った採取記録が、まだまとまった厚みを保っている。


「……よくあることですね」


「お前と一緒にするな。あっちは今日来たばかりだ」


ガレスは笑い、準備を終えた資料へ手を伸ばした。


*


明日の持ち物を確かめ終えた頃には、執務室の窓は夕闇を映していた。


エレノアは鞄を肩にかけ、机を振り返る。福竜の隣には、青葉草の採取記録が残っていた。


手を伸ばしかけて、止める。


明日は早い。今夜すべてに目を通したところで、聞き取りまで終わるわけではなかった。


「帰るのか」


リオネルが尋ねた。


「ええ。先に失礼するわ」


「明日の記録は、場所ごとに分けてくれ。後で照合する」


「あなたが読みやすいように?」


「俺以外も読みやすくなる」


「そういうことにしておくわ。お疲れさま」


執務室を出ると、一階のホールから聞き覚えのある笑い声が届いた。


階段の途中で、エレノアは足を緩めた。


受付の脇に、旅慣れた体格の男が立っている。足元には大きな荷袋があり、使い込まれた剣帯が腰に収まっていた。職員へ何かを話しながら笑っていた男が、ふとこちらを見上げる。


「ノア」


その呼び方に、仕事の間は張っていた背筋が少し緩んだ。


「アル兄。戻ってたの?」


「さっきな」


兄のアルヴィンは、袋を拾い上げた。


近づくと、外套の肩に乾いた埃が残っているのが分かる。妹のものより少し落ち着いた色合いの短髪も、旅の埃でくすんでいた。顎には少し無精髭が伸びていたが、目が合うと、蜂蜜色の混じる瞳が細められ、疲れた様子より帰ってきた安堵のほうが強く浮かんだ。


「もう帰りか?」


「ええ。報告は終わったの?」


「ああ。仲間は先に宿へ引き上げた。俺も帰るところ」


「そう。じゃあ、気をつけて」


「待て。ずいぶんあっさりしてるな」


「引き留めてほしかった?」


「飯くらい誘おうと思ってたんだが」


エレノアは兄を見上げた。


「食べに行くの?」


「まだならな」


「まだよ」


「だろうと思った。――ルルは?」


受付の奥へ目を向けたところで、ちょうどルルが上着を腕にかけて出てきた。


「私が何?」


「飯に行かないかって話」


「あら、いいところに来たわね、アルヴィン」


「ここ、俺の仕事場でもあるんだが」


「知ってるわよ。帰還報告を受けたんだから」


ルルは笑い、受付へ一言挨拶をしてから二人のそばへ来た。


「お腹空いた。何を食べる?」


「肉」


エレノアが答えると、兄と幼なじみの声が重なった。


「だろうな」


「でしょうね」


*


通りを二本渡った先の食堂は、夕食時の客で賑わっていた。


厨房からは鍋を揺する音が響き、給仕が焼きたての肉を運んでいる。入口に立っただけで、腹が空く匂いだった。


奥の卓に案内されると、アルヴィンは荷袋を壁際へ寄せ、上着を脱いだ。


「煮込みと、焼いたやつを大皿で。パンも頼むか」


「私は野菜もほしいわ」


ルルが品書きを指さす。


エレノアは厨房から運ばれていく皿を目で追った。皮をこんがり焼いた鶏肉に、香草をまぶした芋が添えられている。


「あれも」


「今、頼んだやつだ」


「じゃあ、それを多めに」


アルヴィンは給仕へ注文を伝え、パンを追加した。


「それで、旅はどうだったの?」


ルルが尋ねると、兄は椅子にもたれた。


「仕事は予定どおり。帰りに一泊増えたが」


「何かあった?」


「橋の補修だ。荷馬車が渡れなくてな。近くの宿に泊まった」


エレノアは水を飲み、兄を見た。


「それなら、帰りが延びるって連絡をくれればよかったのに」


「一泊だぞ」


「便があるなら、ついででいいのよ」


「分かった。次はそうする」


素直に頷かれると、それ以上言うことがなくなる。


ルルが横から尋ねた。


「宿はよかった?」


「寝台はな」


「食事は?」


アルヴィンは少し黙った。


「芋だった」


「芋?」


「夕飯に芋の煮込み。朝飯は焼いた芋。出発が遅れたから昼も食ったんだが、芋の汁物だった」


「よくあることでしょう。たくさん採れる土地なら」


エレノアが言うと、兄は首を振った。


「それだけなら、俺も文句は言わない。夕飯を待ってる間に、宿のおかみさんが聞いてきたんだ。『芋はお好きですか』って」


「好きだって答えたの?」


「ああ」


「なら仕方ないわね」


ルルが真面目な顔で頷いた。


「喜んでもらおうと思ったのよ、きっと」


「俺も、そう思うことにした」


エレノアは笑いをこらえきれず、杯を置いた。


給仕が料理を運んできたのは、そのときだった。


湯気の立つ煮込みと、香ばしい鶏肉。炒めた野菜には刻んだ木の実が散らされ、籠には厚く切ったパンが盛られている。


アルヴィンは鶏肉の皿から芋をよけ、自分の取り皿へ肉を移した。


「芋、食べないの?」


「今日は譲る」


エレノアは遠慮なく引き取った。


鶏の脂を吸った芋は、端がかりっと焼けている。香草の香りと塩気がちょうどよく、兄には悪いが、避ける理由は見つからなかった。


「美味しいのに」


「三食続けてから言え」


「同じ料理ではなかったんでしょう?」


「お前を連れていけばよかったよ」


ルルが肩を震わせて笑った。


煮込みの肉は匙でほぐれるほど柔らかかった。玉葱と豆の入った汁にパンを浸すと、香辛料の風味が染み込んでいる。


エレノアが籠へ手を伸ばすと、アルヴィンは話を続けながら、それを妹の近くへ寄せた。


「ルルの家は、変わりないか?」


「変わらないわよ。父が帰ってきた日に、下の子たちが全員、肩車をねだって大変だったくらい」


「順番待ちか」


「最初はね。途中から二人いっぺんに乗せろって」


「それは、腰をやるな」


「母も同じこと言ってたわ」


二人の会話を聞きながら、エレノアは煮込みを取り分けた。


兄が留守の間にも、こちらではいろいろなことがある。反対に、兄の旅のすべてを自分が知っているわけでもない。


久しぶりに顔を合わせると、その隙間を少しずつ埋めるように話が続く。特別な出来事でなくても、聞いていれば面白かった。


「ノアは? 今日は何をしてた」


「聞き取りと、報告と、記録の整理」


「よく働くな」


「仕事だもの」


「最近、森にも行ってるわよ」


ルルが言うと、アルヴィンは妹の靴へ視線を落とした。


「それでか」


「何よ」


「いや。よく磨いてあると思って」


エレノアは卓の下へ足を引いた。


昨夜、泥を落とすのにずいぶん苦労した。その成果に気づいたのなら褒めてほしいが、兄の顔はどう見ても笑うのを我慢していた。


「明日も行くの。どうせまた汚れるけど」


「なら、乾かすときは火に寄せすぎるなよ。革が傷む」


「知ってるわ」


「俺が昔、一足駄目にしたからな」


「覚えてる。お母さんに叱られてた」


アルヴィンは苦い顔をした。


「覚えてなくていいことばかり、よく覚えてるな」


「焦げた靴で帰ってきたら、忘れないでしょう」


ルルまで笑い出し、兄は諦めたようにパンをちぎった。


その手の甲に、小さな擦り傷があった。


エレノアの視線に気づくと、アルヴィンは手を返して見せた。


「大したことない。荷を下ろすときに擦っただけだ」


「ちゃんと洗った?」


「洗った」


「ならいいけど」


それ以上は聞かなかった。


兄も、明日の調査について細かく尋ねようとはしない。エレノアの仕事を知っていても、現場のことまで分かるわけではないからだ。


代わりに、皿に残った鶏肉を見て言った。


「まだ食べるか?」


「食べる」


「聞くまでもなかったな」


「アル兄も食べればいいでしょう」


「食ってるよ」


最後の一切れを分け、骨の周りの肉まで外す。ルルが野菜を取り分け、空になった大皿が一枚、卓の端へ寄せられた。


皿の底までパンで拭う頃には、エレノアの腹もようやく落ち着いていた。


*


食堂を出ると、夜の風が頬に心地よかった。


昼間の熱が残る通りを、三人で歩く。店先の灯りが石畳を照らし、どこかの窓から食器を片づける音が聞こえていた。


「明日は早いんでしょう?」


ルルに聞かれ、エレノアは頷いた。


「夜明けには出たいの」


「じゃあ、帰ったらすぐ寝なさいよ。資料を開かないで」


「持って帰っていないわ」


ルルが少し驚いた顔をした。


「偉いじゃない」


「子どもじゃないんだから」


「昔から、ちょっとだけって言って本を開くと長いのよ、あなた」


アルヴィンが頷いた。


「寝たと思ったら、布団の中で読んでたな」


「二人で昔の話をしないで」


「靴の話をしたのは誰だ」


言い返せず、エレノアは口を閉じた。


分かれ道でルルと別れると、アルヴィンは荷袋の肩紐を掛け直した。


「俺はこっちだ。ノアも、気をつけて帰れよ」


「アル兄も。今日はごちそうさま」


「次は働いてる妹に奢ってもらうか」


「先に言っておくけど、今日と同じ量を頼まないでね」


「自分がどれだけ食ったか、分かってるか?」


「分かってるわよ」


兄の笑い声を背に、エレノアは帰り道へ足を向けた。


鞄は朝より少し軽い。持ち帰る必要のない資料は、机に置いてきた。


家に着いたら、明日の服を出して、靴と鞄をもう一度確かめる。それから湯を使って、早めに寝よう。


角を曲がる前に振り返ると、兄もまだ通りの向こうにいた。


片手を上げると、向こうも上げ返してくる。


エレノアは小さく笑い、今度こそ家へ向かった。

お読みいただきありがとうございます。

次話「標識の向こう側」――護衛を付けての再調査。倒木と標識の先で、エレノアたちが見つけたものは。

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※6話は10月28日、19時ごろアップ予定です

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