第4話 籠が埋まらない理由
新しい副ギルド長が去ったあと、エレノアは机の端の三つ目の福竜に、もう一度目をやった。
廊下から聞こえていたルルの声が遠ざかり、執務室には再び、紙をめくる音とペンの走る音が戻ってくる。
「感じのいい方だったわね」
「置物の話を聞いてくれたからか?」
向かいの机で、リオネルが書類から顔も上げずに言った。
「それだけで人を判断したりしないわ」
「判断材料には入ってるんだな」
エレノアは返答せず、記録帳を引き寄せた。
珍しい造形に興味を示すのは、悪いことではない。少なくとも、見た途端に「何だ、その太ったトカゲは」と言った同期より、よほど礼儀正しい。
リオネルが椅子を引いた。
「昨日の現場記録、確認するぞ」
「ええ」
彼が持ってきた地図を広げられるよう、机の上を空ける。福竜も少し奥へ移した。記録帳は、朝のうちに書き出した確認事項のページで開いておいた。
「救助した二人には、別々に話を聞いた。負傷者を見つけたのはここだ。沢の東側、道が広くなっているところ」
「ガレスさんと確認した場所ね」
「ああ。二人が着いたときには、本人が座り込んでいた。そこまで運んだわけじゃない」
エレノアは現地の記録を隣に置いた。
事故が起きたと申告された斜面から、その場所へ向かうには沢を渡る必要がある。昨日は周囲を確認し、渡り場を通って救助地点まで歩いたが、深い傷を負った脚で同じ経路を辿れたのかは判断できなかった。
「本人は、どの道を通ったと?」
「逃げた、としか聞けていない。最初は痛みも強かったからな」
「その前に誰かの手を借りた可能性もあるわね」
「そこも確認する。診療所から、午後なら短時間の聞き取りは可能だと返事が来た」
リオネルは地図の一点を指で叩いた。
「それと、最初に示した襲撃地点が曖昧だ。この斜面だと言っていたが、地図を読めているのか怪しい」
「現地で見たものから確かめたほうがよさそうね」
「同席できるか?」
「もちろん」
エレノアは頷き、鞄に入れる資料を選び始めた。
*
昼の鐘が鳴る少し前、ルルが資料の束を抱えてやって来た。
「お待たせ。去年の分も出たわよ」
「ありがとう。助かるわ」
「ええ、存分に感謝して。――それで?」
資料を置いたルルが、机越しに顔を寄せてくる。
エレノアは受け取ろうと伸ばした手を止めた。
「それで、何?」
「副ギルド長よ。どうだった?」
「思っていたより、静かな方ね」
「それだけ?」
「初対面でしょう。まだ詳しくは分からないわ」
ルルは、期待した返事をもらえなかった子どものような顔をした。
「あんなに素敵な方だったのに」
「ええ。整った顔立ちだったわね」
「あなた、置物の話をしていたときのほうが、よっぽど熱心だったわよ」
「副ギルド長が聞いてくださったのよ」
「そうだけど! まさか初対面で、あの福竜の話になるとは思わなかったわ」
ルルは机の隅へ視線を向けた。三つ目の福竜は、今日も堂々と腹を突き出している。
「でも、ちゃんと聞いてくださっていたでしょう」
「聞いてくださったわ」
「そういえば、あなた、あのとき小さくため息をついたでしょう」
「そりゃあ、つくわよ。あの話、始まったら長いんですもの」
「……でも、褒めてくださったのよ」
ルルは呆れたように笑い、話を続けた。
「私が案内しているときもそうだったの。途中で受付を手伝うことになったんだけど、嫌な顔一つなさらなくて。戻ったら、忙しいときの仕事の回し方を聞かれたわ」
華やかな容姿を語っていたときより、ルルの声が少し落ち着いた。
「質問も、答えに困るような聞き方じゃないのよ。こちらの説明が足りないところを、自然に聞いてくださる感じ」
「それなら、案内もしやすかったでしょうね」
「ええ。しかも、カイルとお友達だったの」
「カイルさんと?」
「学園時代からですって。二人とも、急に口調が変わるんだもの。びっくりしたわ」
それは少し見てみたかった。
エレノアがそう思ったところで、ルルの腹が小さく鳴った。
二人は黙って顔を見合わせた。
「……続きは食べながらにしましょう」
「賛成」
*
近くのパン屋で昼食を買い、二人は店先の長椅子に腰を下ろした。
ルルは肉と玉葱を挟んだパンに、早速かじりつく。エレノアも膝の上で紙包みを開いた。同じパンが二つに、丸いチーズパン。それから、林檎の焼き菓子が一つ。ルルはその包みを見ても、何も言わなかった。いつもの量だと知っている。
焼き菓子を包みの端へ寄せ、チーズパンを手に取ると、ルルが顔を向けた。
「そっちが先なの?」
「温かいうちに食べたくて」
「なるほどね。一つちぎってもらっていい?」
エレノアは頷き、半分に割って渡した。自分の分を口へ運ぶと、まだ柔らかいチーズが細く伸びる。
「午後は診療所だったわね」
「ええ。その前に記録を――」
「飲み込んでからでいいわよ。誰も取らないから」
エレノアは口元を押さえ、少し待ってから答えた。
「今、半分取ったでしょう」
「もらったのよ」
通りでは荷車の車輪が鳴り、向かいの店からは焼いた香辛料の匂いが流れてくる。
ルルはもらったパンを食べ終えると、膝に落ちた屑を払った。
「採取記録だけど、余白に印をつけてあるから見てね。同じ注文を出し直したものがあるの。再募集を全部別の依頼として数えると、実際より多く見えるわ」
「分かった。依頼の量も比べないといけないわね」
「そう。まとめて注文が入った月もあるし。達成できなかった件数だけでは、採れなくなったとは言えないと思う」
エレノアは頷いた。
マルタの話が気になってから、減少を裏づける記録を探そうとしていた。だが、数字を見る前から答えを決めてしまっては意味がない。
「相談自体は増えているの?」
「青葉草が見つからないって? そうね、前より聞く気はする。でも、私が覚えているだけかもしれないわ」
「どんな相談?」
「半日歩いたのに依頼の量に届かないとか、いつもの場所では見つからなくて遠回りしたとか。報酬を上げてほしいって話もあるわね」
「マルタさんも言っていたわ」
「あの人は前からよ」
「毎回だそうね」
「毎回」
二人は笑った。
エレノアが二つ目の肉入りパンを割ると、炒めた玉葱がこぼれかけた。紙包みで受け止め、端から丁寧に食べ進める。
ルルは自分のパンを持ち直し、少し考えるように目を伏せた。
「でも、前と同じ文句だからって、聞き流していいわけじゃないものね。本当に手間が増えているなら、今までの条件では厳しいでしょう」
「依頼人にも事情はあるしね」
「ええ。だから、すぐに報酬を上げますとも言えない。ただ、もう少し探してください、だけで済ませるのも嫌なのよ」
エレノアは頷いた。
自分の気づいた違和感が、調べる価値のあるものかもしれない。そのことを嬉しく思う気持ちがあった。
けれど、ルルの向こうには、籠が埋まらずに困っている人がいる。
「まずは、どこで何が変わっているか調べるわ」
「お願い。でも、お昼を抜いて調べたりしないでね」
「今、食べているでしょう」
「明日以降の話よ」
ルルがパンの最後の一口を食べる頃には、エレノアは林檎の焼き菓子に取りかかっていた。
香ばしい生地の中に、甘く煮た林檎が詰まっている。落ちた欠片まで指で拾って食べ、空になった包みを小さく畳んだ。
「……あなた、本当によく食べるわよね」
「そう? 普段どおりよ」
「その普段が、多いのよ」
エレノアは少し首を傾げたが、否定はしなかった。
「診療所に行く前に、口元を見せて」
「何かついてる?」
「右。そこじゃなくて、もう少し上」
ルルに指摘された場所を拭い、エレノアは立ち上がった。腹ごしらえも済んだ。午後の仕事に戻るには、ちょうどよい頃合いだった。
*
診療所の部屋には、薬と煮沸した布の匂いが漂っていた。
負傷した青年は、寝台に背を預けていた。脇には松葉杖が立てかけられている。
エレノアは名乗ってから、椅子を寝台のそばへ寄せた。
「今日は、歩いた道を確認させてください。地図で分かりにくければ、覚えている景色を教えていただければ大丈夫です」
青年は緊張した面持ちで頷いた。
襲われたあと、どう逃げたのか。
聞き取れた話は、最初の報告よりずっと細かかった。沢沿いに下り、浅いところを歩いて渡ったこと。渡った先で、木の根元に身を寄せて休んだこと。人の声を聞いて呼びかけ、気づいてもらえず、もう少しだけ歩いたこと。
リオネルが記録を取り、エレノアは地図と照らし合わせた。
これなら、昨日考えた渡り場を通る必要はない。
「襲われる前は、どちらから歩いてきましたか?」
エレノアが尋ねると、青年の指が地図の上で止まった。
「道を、こっちから」
「分かれ道はありましたか?」
「はい。倒れた木があって。その先で、下に草が見えたので」
エレノアはリオネルと視線を交わした。
倒木には心当たりがある。ただ、それだけでは場所を決められない。
「倒れた木は、根が道のほうへ出ていましたか?」
「そうです。根の下を通りました」
今度は、かなり絞れた。
昨日、ガレスと確認した斜面よりも上流側。採取区域の境界に近い場所だ。
「その先に、区域の標識はありましたか?」
リオネルの問いに、青年が口を閉ざした。
エレノアはペンを持つ手を止めた。
少し待つと、青年が小さく頷いた。
「ありました」
「何と書いてあったか、覚えているか?」
「この先は……指定区域外だって」
部屋の外で、誰かが桶を置く音がした。
青年は毛布の端を握りしめていた。
「でも、すぐそこだったんです。草が見えて。採ったら戻ろうと思って」
エレノアの胸に、一瞬、安堵が広がった。
自分が調べた区域の外だった。
その可能性に飛びつきかけたことに気づき、唇を結ぶ。
彼が境界を越えたとしても、それだけで灰牙狼の出現まで説明できるわけではない。何より、今の話は現地と照合する必要がある。
「最初に示した斜面とは、別の場所だったかもしれませんね」
エレノアが言うと、青年は俯いた。
「地図で、よく分からなくて」
「区域を出たことは、最初の聞き取りでは話していなかったな」
リオネルの声は静かだった。
青年はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「言えませんでした。怒られると思って」
「そうか」
リオネルは短く返し、記録に書き加えた。
「今からでも、覚えていることを話してくれ。処分については、この場では決めない」
青年の肩から、わずかに力が抜けた。
「その草は、青葉草だったんですか?」
エレノアは尋ねた。
「違いました。近くで見たら、葉の形が……」
「それで戻ろうとした?」
「はい。そのとき、上のほうにいたんです。灰色の、牙の長いのが」
「姿を見たのは一頭ですか?」
「一頭です。ほかにいたかは、分かりません」
エレノアは言葉をそのまま書き留めた。
「草を探して区域の外へ出たのは、その日が初めてですか?」
「はい。いつものところで、全然見つからなくて」
青年は毛布の皺を見つめたまま続けた。
「依頼の量まで、あと少しだったんです。もう一回出直すより、今日のうちに終わらせたくて」
エレノアは頷いた。
その焦りは理解できる。だからといって、区域を外れてよいことにはならない。
ただ、注意を受けて終わりにしたところで、明日も草が採れなければ、同じ場所で迷う人は出るかもしれなかった。
*
診療所を出ると、傾き始めた日が通りの壁を照らしていた。
「現地で標識と経路を確認する」
リオネルが言った。
「ええ。倒木の場所が合っていれば、最初の申告地点から上流側にずれるわね」
「ガレスさんにも見てもらおう。あの辺りの地形は詳しいはずだ」
エレノアは歩きながら、頭の中で地図を広げた。
採取区域の外。その一点が確かめられれば、事故の扱いは変わる。
けれど、気になることがあった。
「灰牙狼の普段の生息域からは、まだ離れているわ」
リオネルが彼女を見た。
「区域の外でも、あの辺りに出るのは普通じゃない」
「昨日の調査では、繰り返し出入りしているような痕跡は見つからなかった。いつから来ていたのかも分からないけど」
「襲撃地点が確かなら、そこを起点に調べ直す必要があるな」
エレノアは頷いた。
青年が区域を外れた責任と、灰牙狼が普段いない場所へ現れた理由。それぞれ調べなければならない。
「……少し、安心したわ」
言ってから、エレノアは前を向いたまま続けた。
「区域外かもしれないと聞いたとき。自分の調査のせいではなかったって」
リオネルはすぐには答えなかった。
「まだ、確認は済んでないぞ」
「分かってる」
「なら、戻ってガレスさんに話そう」
慰めも、非難もなかった。
エレノアには、そのほうがありがたかった。
*
ギルドへ戻る頃には、玄関から差す日が長く伸びていた。
調査部門の扉を開けると、ちょうどガレスが外套を脱いでいるところだった。裾には乾いた土がつき、机には使い込まれた革の鞄が置かれている。
「お帰りなさい。ガレスさんも、今戻られたんですか?」
「ああ。そっちの聞き取りはどうだった」
「場所を絞れそうです。少しお時間、よろしいですか?」
「待て。先に水を飲ませろ」
ガレスは水差しから杯に注ぎ、半分ほど飲んでから息をついた。朝から別件の現地調査に出ていた彼の額には、まだ薄く汗が浮いている。
「そういや、新しい副ギルド長は?」
「午前中にご挨拶にいらっしゃいました」
「俺が留守にしてた間か。あとで顔を出さないとな」
杯を置き、ガレスは二人が持ち帰った地図へ目を向けた。
「それで、場所が絞れたって?」
エレノアは机に地図を広げた。
青年が話した倒木の形と、そこまでの経路。標識を越えて斜面を下りたことを伝えると、ガレスは椅子を引き寄せた。
「根の下を通る倒木か。昨日見たやつだな」
「その先の斜面で、草を見つけたそうです」
「なら、申告された場所より北だ。そこまで草を探しに行ったか」
ガレスは境界線の外へ指を動かした。
「標識の位置と、そこから見える範囲を確認しよう。本人の説明どおりか、実際に歩いてみる必要がある」
「灰牙狼についても、調べる範囲を変えたほうがよさそうですね」
「ああ。普段いるのは、もっと奥だ」
ガレスは椅子にもたれた。
「餌を追ってきたのか、群れを離れたのか。奥で何かあったのかもしれんが、今は分からん。少なくとも、新人が道を外れた話だけで済ませるわけにはいかないな」
エレノアは机から新しい用紙を取った。
今日の聞き取りをまとめ、現地で確認する事項を書き出す。リオネルは診療所での記録を整理し、ガレスは次の調査で通る経路を地図上に示した。
昨日より、行くべき場所がはっきりしていた。
「利用者への案内も確認しましょう。追加の注意喚起が必要か、部門長に判断していただきたいです」
「そうだな。草のほうは?」
「並行して調べます。ただ、依頼の記録だけでは足りません」
エレノアはルルから受け取った資料へ目を向けた。
「採れた量だけでなく、探した場所と時間も聞きたいです。マルタさんが、前はもっと手前でも見つかったと仰っていましたから」
「それなら、ほかの採取者にも聞いておけ。同じ場所へ通ってる連中と、別の場所を使う連中の両方にな」
「はい。ルルに相談してみます」
記録の端に、聞き取りの項目を書き加える。
籠の中身が少ない。その理由は、草そのものが減ったからなのかもしれない。採る人が増えたのかもしれないし、別の事情かもしれない。
だが、少なくとも今日話を聞いた青年は、採れなかったために普段と違う場所へ足を向けていた。
ガレスが立ち上がった。
「報告は俺も一緒に行く。地図を持ってこい」
「はい」
エレノアは資料を揃え、最後に昨日の現場記録を重ねた。
区域外だったと分かれば、自分の肩の荷は少し軽くなるだろう。それでも、森が以前のままだと確かめられたわけではない。
机の隅では、福竜が短い脚で腹を支えていた。
エレノアはその前に積んでいた紙を脇へ寄せ、地図を手に立ち上がる。
「行きましょう」
今度は、確かめる場所が決まっていた。
お読みいただきありがとうございます。
次話「帰ってきた兄と夕食を」――旅から戻った兄アルヴィンと、ルルとの夕食。調査の合間の、ささやかな日常です。
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