第26話 遠吠え
夜明け前、入口の小屋には、もう明かりが灯っていた。
エレノアは竈の火を確かめ、机の上の見取り図を広げ直した。六つの持ち場、中継点、境目の線。準備の二日間で育った図が、今日から本番の図になる。伝令係の若手職員は、紙と筆を並べ、馬の様子を見に外へ出た。
別部隊が光を上げる時刻は、夜明けと決まっていた。
空が白み始める頃、最初の光が南の入り口のほうに上がった。続いて縁の持ち場からも、一つ、また一つ。北西の持ち場の光は、昨日印を付け直した場所から、今度は迷いなく高い位置で弾けた。
六つ、揃った。異常なし。
エレノアは印と時刻を書き込み、小さく息を吐いた。別部隊は、持ち場で朝を迎えている。本隊は、これから沢を渡る。
外では、出発の支度が進む。四刃の四人に、ゼイン、カイル、ガレス、護衛のロイとタリア。小屋に詰めた面々が、静かに装備を確かめている。
アルヴィンが小屋に入ってきた。エレノアは、本隊の分の見取り図を手渡す。
「境目の線と、持ち場と、中継点まで入れてあります」
「助かる」
アルヴィンは図を畳み、ゼインに向き直った。
「最終確認だ。現場の指揮は俺が取る。引くか引かないかは、副ギルド長」
「お願いします。私は、一戦力として動きます」
それだけだった。決めることは、この二日で決めてきた。
フィンの腕の布は、巻き直されて、もうすっかり馴染んで見えた。
支度が進む間、エレノアは竈で湯を沸かしていた。
何か、言おうと思った。「気をつけて」では軽い。「無事に帰ってきて」では、重すぎる。言葉を探すうちに湯が沸いて、彼女は人数分のカップに注いだ。一番手近な一杯を、ゼインに差し出す。
「出発前に。温かいうちに、どうぞ」
結局、出てきたのはそれだけだった。
カップを渡す指先が、わずかに震えた。本人は気づいていない。
ゼインは、少し驚いた顔をした。それから、両手で受け取った。
「……ありがとうございます」
湯気が、二人の間で細く立つ。ゼインは一口飲み、小さく息を吐いた。執務室では冷め切った茶ばかりの彼には、珍しい一服のはずだ。
アルヴィンが、外から顔を覗かせた。妹と、副ギルド長と、湯気の立つカップを順に見て、少し笑う。
「ノア、兄さんの分は」
「あるよ。……アル兄こそ、無事でいてよ」
「ああ。任せとけ」
やがて本隊は、森のほうへ出た。エレノアは小屋の前に立ち、背中が見えなくなるまで見送った。
(今度は、私が見送る側だ)
彼女は小屋に戻り、机の前に座った。
帰ってくる。みんな、帰ってくる。
出発の確認と、別部隊の異常なしを伝える、支部への第一報を書く。報せを待つ時間が、始まった。
*
沢の水は、朝の光を受けて光っていた。
一行は沢を渡り、北の岸に立った。そこから先は、鳥の声のしない区域。
ゼインは一度だけ、南を振り返った。
後ろは、任せてある。
一歩進むごとに、音が薄れていく。沢のせせらぎが遠くなり、やがて、自分の足音と装備の触れる音だけが残った。腐葉土の匂いだけが濃く、獣の匂いは、どこにもなかった。フィンが確かめた境目は、もう後ろ。
ゼインの目には、森の様子が違って映った。
(南では、木々の間を、流れが絶えず行き交っていた。ここは、途切れている。魔素が薄い? まるで、違う)
近くで、イーリスが小さく眉を寄せた。杖を握り直し、短く息を整える。
「……なんだか、集まりが悪い」
術は、撃つたびに自分の器の魔素を使う。それを、周囲から取り込んで補う。ゼインの目には、彼女が吸い上げる流れが見えた。細く、今にも途切れそうだった。
「無理はしないでください。今日は、長くなります」
先を行くガレスとフィンの背中が見える。足跡は複数が重なり、その中に、ひときわ大きなものが混じっている。戻ってきたフィンが、声を潜めて言った。
「数は、小競り合いのときより多いかもしれません。……まるで、こっちの進む先に、先回りしてるみたいで」
言い終わらないうちに、前方でガレスが片手を上げた。
正面の木立が揺れた。灰牙狼が三頭、距離を保って姿を見せる。吠えもせず、唸りもせず、ただこちらを見ている。灰色の毛並みは、薄い朝の光の中で、岩のように動かなかった。
「来るぞ」
アルヴィンの声と同時に、横の茂みが割れた。茂みの割れる音がしたときには、一頭がもう間合いの中にいた。後方のノーラと、護衛のロイ、タリアへ、まっすぐ向かう。
「後ろは任せろ!」
ロイの剣が、間一髪で牙の前に滑り込む。受けた拍子に、足が腐葉土で半歩滑った。押し負けそうになる体を、タリアの矢が救った。一頭の肩口に矢が立ち、その個体がよろけて下がる。続く二の矢は、幹に弾かれた。焦りが、矢筋に出ていた。群れは怯まず、すぐには来なかった。来たのは、反対側からだった。入る場所も角度も、変えてきている。小競り合いで覚えたことを、今日は最初から持ってきていた。
「ノーラ、下がれ! ロイ、右を詰めろ!」
アルヴィンの指示が飛ぶ。一行は背を寄せ合い、輪を作った。肩と肩が触れる距離で、隣の者の息遣いまで聞こえる。だが、輪の外周のどこかに、必ず薄い場所ができる。群れは、その薄い場所ばかりを試してきた。
滑った拍子に、ロイの腕を爪が掠めていた。輪の内側で、ノーラの手がそこへ触れる。光がすっと入って、血が止まった。ロイが短く礼を言い、また剣を構える。
左前方では、アルヴィンが一頭と正面から向き合っていた。飛びかかる勢いごと受け止め、体重の乗った一太刀で斬り伏せる。地に崩れる音がした。斬り伏せた直後、アルヴィンはもう後方を振り返っていた。それでも、群れの足は止まらない。倒れた場所を、別の個体がすぐに埋めた。
輪の向こうで、フィンの声が上がった。
「そっちは囮です! 本命は右から――」
言い終わる前に、右から影が割って入った。読みは合っている。だが、足が追いつかない場面が増えていた。
隣のカイルに、一頭が剣の届くところまで入って、そこで止まった。狙いは、カイルの剣だった。一振りさせれば、そのぶん横が空く。一頭が飛びかかる素振りを見せ、カイルの剣がそちらへ向いた瞬間、別の一頭が横から間合いを詰め、爪がカイルの袖を裂き、腕に浅く食い込んだ。血が滲む。だが、カイルの足は止まらなかった。
「……っ、やるな」
カイルが舌打ちし、体を捻って躱す。剣の腹で牙を受け、押し返す。刃に伝わる重さが、一振りごとに腕へ溜まっていくのが見えた。
輪の内側で、イーリスの詠唱が響いた。光と熱が一頭を捉え、一頭が地に崩れる。熱で空気が歪み、落ち葉の焦げる匂いが流れた。
二発目。だが、群れは倒れた場所を避けて散り、木立の向こうへ回り込む。杖の先が追い切れず、術は幹を焦がして逸れ、焦げた木の皮が、ぱらぱらと落ちた。
三発目は、小さく、速かった。出力を落として、狙いを足に絞る。閃光が低く走り、一頭の前脚を断った。断たれた個体が転がり、起き上がろうとして、起き上がれない。正面の足は、止まった。
ここまで撃って、初めて詠唱の間隔が開き始めた。三発撃って、彼女の内を巡る流れは、目に見えて細くなっていた。
「イーリスさん。……補給が、追いついていません」
「……分かってます」
イーリスは杖を下ろさなかった。小さく舌打ちして、杖を握り直す。指の関節が、白くなっていた。
群れの足が一瞬緩んだ隙に、ノーラがカイルの腕へ手を伸ばした。掌の光が傷に触れる。だが、光は弱く揺れて、ほとんど入っていかなかった。器のない体には、治癒が効きにくい。カイルは首を振り、剣を構え直した。ノーラの手が、もう一度だけ伸びかけて、止まった。
ゼインの剣が、一頭の牙と噛み合った。刃を伝って、腕に重さが走る。受けたまま押し返せば、体勢が崩れる。半歩引いて、土に爪先を食い込ませ、牙を横へ流す。狼の頭が逸れたところへ、柄で突く。距離が開く。開いた分だけ、息が戻った。
その隣で、カイルが戦っている。
背中は、考えなくていい。カイルがいる。
見ようとしたわけではない。だが戦いの最中、視界の端で、ふいに魔素が寄っていくのが見えた。来る、と声が出た。
「ガレス、左です」
間に合った。前方の左で、ガレスの足元の土が崩れ、飛びかかっていた一頭が体勢を崩す。そこへ、ガレスの剣が入った。逃げも、慌てもしない動きだった。
頭の奥が重くなり、視界の端がわずかに霞む。見えた分だけ、代償も来る。
霞んだ端で、影の動きが遅れて見えた。近い。牙の白さと、獣の息の生臭さが、同時に見えた。もう――
横から、カイルの剣が割り込んだ。押し返された一頭が、土を蹴って下がる。
(見るな、と言われていたな)
カイルの声を思い出し、ゼインは小さく笑いそうになった。笑う余裕は、すぐ群れの次の波に消えた。
次の波で、カイルが一頭を押し返す剣が、半拍だけ遅れた。血の滲んだ腕が、悲鳴を上げ始めている。
「このままでは削られる。沢側へ寄るぞ。背に水場を付けろ」
アルヴィンが叫んだ。だが、一行が動き始めた先に、もう影があった。回り込んだ別の一団が、沢への道を塞ぐように立っている。
「……先回り、か」
退路を断ちに来る動きまでが、型のうちだった。
だが、どこかおかしかった。
これだけ統率の取れた動きをしながら、群れを束ねる頭らしい一頭が、どこにも見当たらない。ゼインの目に映るのは、個々の流れだけ。中心が、ない。束ねる者は、戦場の中にいなかった。
(どこから、見ている)
そのとき、北の奥から、遠吠えが一声響いた。
群れの動きが、ぴたりと止まった。下がっていた個体も、回り込んでいた個体も、その場で足を止め、輪の外からこちらを見ている。襲うでも、引くでもなく。何かを、待つように。
姿は、どこにもない。
お読みいただきありがとうございます。
次回、後方で待つエレノアの前に、思いがけない来客が。一方、本隊の戦いは佳境へ――。
次話は11月8日21時にアップ予定です。
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