第27話 持たないもの
第一報は、本隊の出発を見送った後、伝令係の職員が支部へ走らせた。
戻ってくるのは昼前になる。エレノアは小屋に一人残り、机の上の見取り図と、記録の帳面と向き合っていた。本隊からの報せは、取り決めでは合図だけだ。敵と接触したら、光を上げる。光がないうちは、まだ戦いにはなっていない。そう頭では分かっていた。
次の定時の刻になり、別部隊の持ち場から光が上がった。一つ、また一つ。夜明けと同じ順に、六つ。異常なしの合図。彼女は時刻を書き込み、ペンを置いた。
本隊のほうは、静かだった。
竈の火を足し、湯を沸かし直す。誰が飲むわけでもないのに、手が勝手に動いた。カップを人数分並べかけて、やめて、一つだけ置いた。
その時、森の向こう、沢より北の空で、光が高いところで弾けていた。非常魔法の光。あの方角にいるのは、本隊しかいない。
始まった。
肩に、力が入った。光はしばらく留まって、やがて薄れて消えた。
それきり、何も来なかった。
光が教えるのは、そこまでだった。頭数も、戦況も、分からない。彼女は北の空を見上げたまま、しばらく立っていた。
小屋へ戻ろうとしたとき、広場の端で声がした。
「そこの方、止まってください」
伝令係の職員の声だった。振り返ると、広場の向こうに男が一人いて、森のほうから道のほうへ、広場を横切ろうとしているところだった。
男は止まらなかった。職員の声が、一段上がる。
「止まれと言っている! 今は立ち入りを制限している区域だ。……おい、聞いてるのか?」
声が届いていないふうでも、急ぐふうでもなく、男は同じ速さで歩いてくる。職員が行く手に回り込もうとして、半歩遅れて空を切った。その手が、腰の短剣の柄にかかっている。
茶色の上着に、細長い籠を背負っている。森から出てきたにしては、荷が軽すぎた。職員の声がなければ、エレノアも気づかなかっただろう。
頭の中で、記録が重なった。あの日、採取者の女から聞き取った証言。先日の、定期確認の目撃。どちらにも、同じ装いがあった。
(あの装いだ)
気づけば、声が出ていた。
「待ってください。……もしかして、あの石の板のところにいた方ですか」
「アシュベリーさん」
職員が小さく咎めるのを、彼女は手で制した。
男の足が、止まった。
彼は振り返り、彼女をしばらく眺めてから、一歩近づいた。間近で見ても、年の頃は三十代の半ばくらいとしか言えなかった。傷も、ほくろも、目立つ特徴がない。記録に書きようのない顔だった。ただ、目だけが残った。瞳の奥で、粉のような光が瞬いていた。男に敵意はなかった。彼は彼女の手を取り、裏返す。親指が、手首の内側に触れた瞬間、後ろで職員の剣が鞘の中で小さく鳴った。エレノアは振り返らず、空いた手をわずかに上げて、職員をその場に留めた。何かを、確かめるような仕草だった。
「あなたは持ってないんですね」
呟くような声だった。
「持って……いない?」
男は答えなかった。彼女の手を離し、北の森のほうへ顎をしゃくった。
「森の奥に住んでるあの子達も、持たない仲間に近い」
彼女は一歩、踏み出した。
「待ってください。あの子達とは、誰のこと――」
男は止まらなかった。広場の半ばで一度だけ足を止め、森のほうを振り返る。
「ここも、いずれ無くなりますね」
それだけだった。男はもう彼女を見ていなかった。広場を横切り、道のほうへ歩いていく。背中はすぐに、道の向こうへ遠ざかった。
エレノアは小屋に戻り、帳面を開いた。
まず時刻を書く。次に装い。茶色の上着、細長い籠。年の頃、三十代の半ば。顔の特徴は――。
ペンが止まった。
書けない。思い出そうとしても、目だけが残って、輪郭が掴めない。彼女は短く息を吐いて、特徴なし、と書いた。
仕草。手を取り、裏返す。手首の内側に触れる。書くたびに、その感触が蘇った。
男の言葉を、一字一句、そのまま書き留める。「あなたは持ってないんですね」「森の奥に住んでるあの子達も、持たない仲間に近い」「ここも、いずれ無くなりますね」
書き終えて、彼女は自分の右手を見た。裏返された手。何もない、いつもの手。
持たない、とは何だ。
私が持っていないもの。器。
蓄えられない。撃てない。治癒も、ほとんど入らない。それがどういうことかは、彼女自身が一番よく知っている。
――では、持たない者は弱いのか。
違う、と思った。私は弱いんじゃない。魔素を溜められないだけだ。周りの魔素が濃かろうと薄かろうと、私は何も変わらない。
持たない、とはそういうことだ。
彼女は帳面の言葉を読み返した。「持たない仲間に近い」。あの子達。森の奥に住んでる、という言い方を彼はした。
鳥や獣のことか。今のあの区域に、鳥も獣もいない。通常の魔物でさえ、寄りつかない。人のことか。森の奥に住む人間の報告は、ない。
彼は「住んでる」と言った。本来、森の奥にいるはずのもののことだ。彼女は、まだ見たことがない。
確証はない。だが、前回の小競り合いの報告を重ねれば、思い当たるものは一つある。北から降りてきて、北へ帰っていく、あの群れだ。まず、群れと仮定する。彼女は帳面の端に、小さく「仮」と書いた。
では、なぜほかの魔物は、あそこに寄りつかないのか。
報告にあるのは、知能が発達したみたいだ、ということだ。だが、それは戦い方の話で、住める理由にはならない。
彼女は立ち上がって、窓の外を見た。北の空はもう何も教えてくれない。机に戻り、見取り図に目を落とす。沢の北は、空白。その手前の採取場所に、彼女は覚えがあった。
数字だ。
採取記録の上で、北へ行くほど、薬草の実りは落ちている。場所による滞りはある。気のせいだと思いたい月もあった。けれど帳面の数字は、自分で集計してきたものだ。
薬草は地の魔素を吸って育つ。実りが落ちるのは、魔素そのものが少なくなってきているからではないか。それが、記録から彼女が考えた仮説だった。
術者は、撃つたび自分の器の魔素を使い、減った分を周囲から少しずつ補う。薄い場所では、補給が追いつかない。戦いが長引くほど、削れていく。
だが、器のない者は、そもそも補給に頼っていない。
この仮説が、もし正しければ。
逆に、弱っていくのはこちらの術者だ。本隊だけが、削れる。
回復役のノーラも、術者の一人だ。消耗すれば、治癒も追いつかなくなる。最後に傷を塞ぐのは、薬と包帯だ。
これは、届けなければいけない。北の空に上がったあの光が、それを急かしていた。
文にしたためる時間はない。それに、この話は人伝では欠ける。言葉の正確さも、根拠の重なりも、聞いた本人でなければ担保できない。副ギルド長に問われれば、その場で答えられるのは彼女だけだ。
理屈は、揃っていた。
揃っていたが、全部ではなかった。
行きたい。
あの会議で、自分から引いたはずの気持ちが、机の上の見取り図を前に、静かに頭をもたげていた。理屈は本物だ。だが、理屈だけで足は動かないことも、彼女は知っていた。
エレノアは立ち上がった。
戻ってきていた伝令係の職員に、行き先と、戻りの目安を言い残す。支部への連絡は彼に任せた。
「何があっても、森には入らないでください。私が戻らなくても、迎えは寄越さないで」
中継点の二人にも、同じく伝えるよう頼んだ。短剣と水筒、見取り図の写しを持ち、予備の医療品が入った革袋を背負って、馬に乗る。
中継点は、沢の手前の開けた場所だった。武装した職員が二名、馬とともに待機している。合図の見張りと、退路の守り。彼女が馬を下りると、一人が驚いた顔をした。
「アシュベリーさん、中へ入るんですか」
「本隊に、届ける話があります。馬はここでお願いします」
止めはしなかった。彼女の顔を見て、それ以上は何も言わなかった。
沢の水は冷たかった。渡り終えて振り返ると、二人の職員と馬が、対岸で小さく見えた。
ブーツの中で、濡れた靴下が重かった。医療品の革袋の重みが、背に食い込む。
耳を澄ましても、鳥の声は聞こえない。光の上がった方角を、頭の中の見取り図に重ねる。沢の北は空白の区域で、道も目印もない。だが、方角だけは見失っていなかった。
エレノアは歩き出した。届けなければ、この話に意味はない。
お読みいただきありがとうございます。
次回、エレノアは報せを抱えて、静まり返る森を進みます。本隊の決戦が、始まります――。
次話は11月9日11時にアップ予定です。
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