第23話 縁の小競り合い
翌朝、一行は夜明けとともに出た。
見送りは、エレノアだけだった。エレノアは畳んだ見取り図を、フィンに差し出した。
「昨日の図に、今朝の分まで書き足してあります。……一つだけ、確かめてほしいんです。襲われた場所と沢の間で、鳥の声がどこからなくなるか」
「分かりました。必ず確かめます」
フィンは両手で受け取り、深く頷いた。緊張で、少しだけ背筋が伸びすぎている。
「案内は俺だ」
ガレスが言い、アルヴィンが妹の頭にぽんと手を置いた。
「行ってくるな、ノア」
「うん。気をつけて」
五人の背中が、街道の向こうへ消えていく。エレノアは、その背中が見えなくなるまで立っていた。
*
懐の見取り図が、歩くたびに胸に当たった。
(エレノアさんに、任されたんだ)
出発のとき、彼女は真剣な顔で言った。「確かめてほしいんです」あんなふうに頼まれて、気合が入らないはずがなかった。今朝の彼女は、朝の光の中で、とてもきれいだった。いや、いつもきれいだ。今日に限った話じゃない。
(……仕事。仕事だ、フィン)
彼は小さく頭を振って、意識を耳に戻した。
森の入口で、アルヴィンが声をかけた。
「フィン、先の様子を頼む」
「はい」
フィンは頷いて、一行の先に歩き出した。
森に入ってしばらくは、鳥の声があった。
フィンは耳を澄ましていた。斥候の仕事は、本隊より前に出て、危うさの兆しを拾うことだ。目に見える危うさは、たいてい耳に先に届く。枝を渡る音、遠くの啼き声。いつもなら、森はそれなりに騒がしい。
その騒がしさが、思っていたより早く、薄れた。
足を止めて、見取り図を開く。エレノアが引いた予想の線は、まだ先だ。沢との中ほどに、細い点線で「ここから先は静か」とある。だが、フィンの立っている場所は、その線よりずっと手前だった。
――もう、聞こえない。
周囲を見回す。木立は同じように続いている。変わったのは、音だけだった。
彼は図の上に、自分の線を引いた。声の境目は、彼女の予想より南にあった。方向は合っている。ただ、森のほうが先に進んでいた。
確かめるため、一度だけ南へ引き返した。何十歩か戻ると小鳥が鳴き、北へ進み直すと、同じ場所で声が途切れた。気のせいでも、耳の加減でもない。
一行と合流して、ガレスの先導で少し進むと、地面の様子が変わった。
「被害の跡だ。ここで襲われた」
襲撃の現場は、街道からそう遠くない場所だった。折れた下草、争った跡。フィンは膝をつき、地面の跡を一つずつ拾っていく。
足跡は多かった。灰牙狼のものだ。行きと帰り、襲う側と逃げる側。だが、その中に一つだけ、はっきり大きなものが混じっていた。
「……この大きさ、普通じゃないな」
指で幅を測る。通常の灰牙狼より、ひと回り大きい。群れの中に、ひときわ大きな個体がいる。
跡を辿ると、少し離れた窪みに、別のものがあった。
倒れた灰牙狼だった。体格は大きい。だが、足跡の大きさには届かない。
「……でかいな」
ガレスが言った。
「前に区域で出たやつより、ひと回りでかい」
死骸の周りには、幾つもの足跡が重なっていた。一頭で戦った跡ではない。囲まれて、追い詰められて、仕留められた。大きな足跡も、その中にあった。
灰牙狼は、通常、群れで行動することが多い。単体で見つかるのは、群れからはぐれた個体か、群れそのものが近くまで来ている場合だ。この一頭がどちらの事情でここにいたのかは、跡だけでは分からない。はぐれて、よその群れに殺されたのか。群れ同士がぶつかって、負けた側の一頭なのか。ほかの魔物にやられた可能性だって、ないわけではない。
フィンは、その場の位置を見取り図に書き加えた。確かなのは、奥にいるはずのその一頭が、縁の近くで、大勢に囲まれて死んでいることだけだ。それでも、奥の側で何かが動いている気配は、跡の重なりがはっきり伝えていた。
フィンが足跡と死骸を指して短く報告すると、アルヴィンの顔から、普段の笑いが消えた。
「全員、周りを見ろ。――来るぞ」
その声と、ほとんど同時だった。
正面の下草が揺れ、灰牙狼が三頭、姿を見せた。距離を保ったまま、こちらを窺っている。吠えもしない。唸りもしない。ただ、目だけが一行を捉えていた。
正面に三頭。だが、フィンの勘が告げていた。数が合わない。
「後ろ!」
叫んだときには、回り込んだ二頭が、最後尾のノーラへ迫っていた。剣を構えた者を避けて、真っ先に。
フィンは駆けた。ノーラの前に割り込み、短剣を払う。一頭目の牙が腕を掠め、熱い痛みが走る。退くな、と足に力を込めた。すぐ横を、もう一頭がすり抜けていく。ノーラが杖で受け止め、悲鳴の代わりに短く息を吐いた。体勢の崩れたその一頭を、横から駆け寄ったガレスが斬った。一頭が、地に崩れる。
「……怯まねえな」
ガレスが低く言った。仲間が目の前で倒れたのに、群れの目は逸れなかった。
「フィン、無理しないで!」
「僕は平気です。それより、まだ来ます」
正面では、アルヴィンが一頭を斬り倒していた。それでも群れは崩れなかった。倒れた一頭が空けた場所へ、間を置かず別の個体が滑り込む。輪の形は、すぐに元に戻った。
イーリスの詠唱が響いた。光が走り、正面の一頭の脇腹を焼く。当たった。確かに傷ついた。だが、その一頭は怯まなかった。足を止めず、間合いを詰め直してくる。
二発目。三発目。術は当たる。当たれば傷つく。それでも群れは崩れない。傷ついた個体が下がれば、別の個体が前に出る。順番が、決まっているみたいだった。
四発目から、様子が変わった。イーリスが狙いを定めるたび、狼が木の幹の陰へ回る。術の届く角度を、外してくるのだ。さっきまで、そんな動きはしなかった。
「……三発で二頭。当てているのに、崩れない。それに、もう隠れることを覚えた」
イーリスが、唇を噛んだ。隠れる相手に、無駄撃ちはできない。
「岩場へ寄るぞ」
アルヴィンが声を張った。
「背中を岩に付けろ。回り込めなくしてやれ」
一行は間合いを取りながら、背後の岩の出っ張りへ寄った。地形が狭まれば、群れの数と回り込みは効かなくなる。
群れは、それでも試してきた。一度押し返された入り方を、二度目はしてこない。寄せては引き、イーリスに術を撃たせ、アルヴィンの正面は避けて、端のフィンとノーラばかりを窺う。強い者には当たらず、弱いところだけを、何度も。
岩場に背を付けたことで、イーリスの狙いは定まった。幹の陰から飛び出した一頭を、光が捉える。三頭目が倒れた。それでも、群れは崩れなかった。
目の前の一頭が大げさに飛びかかってきた。体を逸らした先、視線の端で、別の影がノーラへ回っていた。囮に目を奪われた一瞬を、逃さない進み方だった。フィンは逸らした体勢のまま地面を蹴り、影の進路に短剣を置いた。牙が、頬の横で空を噛んだ。
正面の三頭が引いた、と思った瞬間にも、気を抜けなかった。間を置いて、横の茂みから別の個体が飛び出してくる。波の、間合いまで測られているようだった。
(狙いが、決まっている)
フィンは、息を整えながら思った。陽動がいて、回り込む役がいて、一番後ろを狙う決まりがある。本能で動く群れの、やり方ではなかった。
そのときだった。
北の奥から、遠吠えが一声響いた。
群れの動きが、ぴたりと止まった。戦いの最中の、あり得ない静止だった。傷ついた個体も、回り込んでいた個体も、全ての頭が、同じ方向――北を向いた。耳が、そちらへ揃う。
そして、全頭が一斉に身を翻した。
群れは綺麗に引いていった。逃げる慌ただしさは、どこにもなかった。傷ついた個体を真ん中に囲い、順序を保ったまま、木立の奥へ、音もなく。
「追うな」
アルヴィンの声が、一行を止めた。
「……あれは、引いたんじゃない。引かされた引き方だ」
誰も、すぐには動けなかった。
「全員、怪我は」
アルヴィンの声に、ノーラがフィンの腕の傷へ手を当て、回復の光を落とした。浅い傷だった。痛みが、少しずつ引いていく。
「ありがとうございます」
「お礼はいいから。……あの群れ、何だったの」
答えられる者は、いなかった。イーリスが、消耗した息のまま、ぽつりと言う。
「当てているのに、崩れない。こんな群れ、初めて」
アルヴィンは、群れの消えた北の木立を見つめていた。
「……知能が発達したみたいだな」
帰り道、フィンはもう一度、見取り図を開いた。
自分の引いた境目の線は、エレノアの点線より、はっきり南にあった。彼女の見立ては、外れていなかった。静かになる場所は、確かに南へ下りてきていた。ただ、その速さが、支部で考えていたより速かっただけだ。
持ち帰るものは、死体ではなかった。大きな足跡の寸法。大きな一頭の死骸。一番後ろを狙い、三頭倒しても崩れず、合図ひとつで綺麗に引く群れの動き。そして、予測より南に下りた、静けさの境目。
支部に戻れば、これはもう「縁の襲撃」では済まなくなる。フィンは図を丁寧に畳み、懐にしまった。エレノアさんの点線の上に、自分の線を重ねて渡す。少し曲がった線を、書き直そうか迷ったが、そのままにした。確かめた場所を、ごまかさずに渡したかった。
そのとき、彼女が何と言うかは、まだ分からなかった。
背中の森からは、最後まで、鳥の声は戻らなかった。
お読みいただきありがとうございます。
次回は、支部に戻った一行の報告から。事態は、もう縁だけの話ではなくなっていて――。
次話は11月6日19時にアップ予定です。
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