↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
氷の女神は魔法が使えない ―忘れられた神の物語―  作者: mom
静まり返る森

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

22/27

第21話 細長い籠

定期確認の当番が、交代で回っていく。


沢の北の確認は、試行として始めた頃の物々しさを少しずつ失い、支部の日常の予定の一つになっていた。


異常がなければ、記録は数行で済む。その数行が積み重なることに意味があるのだと、エレノアは思っている。


今日は、調査部門の若手職員が担当だった。昼をだいぶ過ぎた頃、記録庫の戸が開く。


「……早かったわね」


ミレーヌが、戻ってきた二人を見て言った。その日、エレノアは記録庫で写しの整理をしていた。


沢の北から戻った職員は、記録庫に顔を出すなり、彼女の作業の脇に確認の記録を置いた。


同行したロイも、珍しく神妙な顔をしている。


「先に、口で伝えたほうがいいことがあります」


彼は、首をかしげたまま言った。


「板の前に、人がいました」


*


職員の話は、こうだった。


沢に近づくにつれ、鳥の声が遠のいていくのは、いつも通りだったという。ただ、この日は沢の泥の上に、新しいブーツの跡が一つだけ残っていた。


板へ向かう側の岸に、つま先を北へ向けた跡が一つ。


「あの時点で、誰かがいるとは思いました。まさか、板の前だとは思わなくて」


沢を渡り、倒木の先へ出たところで、まず花に気づいた。前回の確認で記録された白い野花は、もう萎れかけているはずだった。


ところが、板の前にあったのは、新しい花だった。茎の切り口も、束ね方も、この前と同じ。


誰かが、花を取り替えたのだ。


そして、板の少し脇に、人がいた。


茶色の上着を着た人物が、板の前にしゃがみ、何かを整えるように手を動かしていた。背には、籠がある。


近づく足音にも、すぐには気づかなかったという。


「どんな人でした」


「顔は、よく見えなかった。木陰だったし、距離もあった。……声を聞くまでは、男か女かも分からなかった」


「声はかけました。ここは立ち入りを制限している区域だ、と」


離れた位置で警戒に回っていたロイが、職員の合図で足を止めた。人物はゆっくりと立ち上がり、こちらを向いた。


「あの人、俺たちを見ても、ちっとも慌てなかった」


ロイが口を挟んだ。


「逃げもしないし、隠れもしない。……あの静けさの中で、平気で立ってるのが、一番変だった」


その人物は、板に目を向けたまま、こう言った。驚くほど穏やかな言い方だったそうだ。


「もうすぐ、ここも無くなりますね」


それだけだった。言い終えると、籠を背負い直し、木立の奥へ歩き出した。消える直前に一度だけ、板のほうを振り返ったそうだ。


名残を惜しむような、それでいて、また来る者のような振り返り方だった、とロイは言った。


足取りは速くないのに、追おうとしたときには、もう木々の向こうに紛れていた。長居はするな、がこの場所の決めだ。


職員は追わず、最低限の確認だけを済ませて、予定より早く沢を戻った。


「それ以上は、近づきませんでした。決めどおりに」


職員は、そこで少し間を置いた。


「声もかけたし、区域のことも伝えたんですけどね。……あれ、何だったんでしょう」


代わりに、ロイが言った。


「花を直す手つきがよ、慣れてた。何度もやってる手つきだった」


「籠は、どんな形でした」


エレノアは、訊ねていた。


「細長いんです。普通の採取籠より、ずっと。あんな形、初めて見ました」


*


受付のルルにも、エレノアは尋ねてみた。細長い籠を背負う採取者を、知らないか。


「細長い籠?」


ルルは首をかしげ、すぐに首を振った。


「うちに来る採取者さんで、そんな籠の人はいないよ。みんな、口の広い、背負いやすい形。


細長いなんて、荷物が偏って歩きにくいもん」


つまり、その籠は、採取の実用品ではない。少なくとも、この支部の知る採取者のものではない。


エレノアは自席に戻って、手帳を繰った。


だいぶ前のページに、自分の字で、こうある。


――茶色の上着に、細長い籠。少し西へ外れた採取場所で目撃。


灰牙狼が出た日の聞き取りだった。採取者の女が「もう少し前に、一人見た」と語った人物。


あの日は、その人物に行き当たることはなかった。


前回の記録を並べる。板の前に長く立っていたブーツの跡。用意して持ってきたとしか思えない、白い花。


そして今日の、新しい花と、目撃。


三つは、同じ人物を指していた。


――と、決めつけてはいけない。エレノアは一度、手を止めた。


届け出のない採取者かもしれない。森に詳しい、土地の者かもしれない。説明のつく可能性は、いくつもある。


けれど、どの説明も、板の前で花を整える手つきと、生き物に避けられる場所での落ち着き具合の前では、少しずつ色を失っていく。


書けるのは、ここまでだ。同じ服装の人物が、あの聞き取りの日にはもう、この森を歩いていたこと。


西の採取場所にも、沢の北の板の前にも、臆せずに現れること。判断は、記録の外にある。


エレノアは三つの記録を年代順に並べ直し、職員を伴って、執務室へ持って上がった。


*


報告を受けたゼインは、三つの記録を順に目で追い、最後に今日の分で手を止めた。


「危害を受ける様子は、ありましたか」


ゼインが、職員へ向けて尋ねた。


「ありませんでした。向こうは、慌ててもいませんでした」


「花と、板だけですか」


「はい。それと、あの一言だけです」


「……『もうすぐ、ここも無くなりますね』」


ゼインが、反芻するように繰り返した。


「何が無くなるのかは、記録からは決められませんでした」


エレノアは、並べた記録を見渡して言った。


「静けさか、板か、この森か。結びつく言葉は、どこにもありません。……だから、言葉だけを、そのまま残します」


しばらく、沈黙があった。


「特定は、急がないでください」


ゼインは、記録の束を閉じた。


「追い回せば、相手は来なくなります。そうなれば、記録はここで途切れる。花を供え、彫りを読むだけの相手なら、急いで正体を割る理由もありません。


定期確認は今のまま続ける。観察の項目に、花と人物を加えてください。向こうから近づくことがあれば、そのまま記録に残す。


――アシュベリーさん、その照合で進めてもらえますか」


「はい」


「アシュベリーさんは、どう見ますか」


不意に、ゼインが尋ねた。


「……記録のうえでは、危害の意図は見えません。ただ」


エレノアは、並べた記録を見た。


「あの場所で、職員の声かけにも慌てなかった、というのが引っかかります。私たちより先に、あの板と付き合ってきた人ではないかと思います」


ゼインは小さく頷いた。


「その見立ても、記録に添えてください」


それだけの判断だった。けれど、追うな、と決めることも、決める側の仕事なのだと思った。


その夜、エレノアは今日の記録を棚に収めた。沢の北の確認記録の束は、回を重ねて厚くなっている。


手帳の新しいページに、彼女は書き留めた。


――茶色の上着に、細長い籠。板の前で目撃。花は、新しいものに替わっていた。


ずっと前に書いた一行と、同じ形の一行だった。

お読みいただきありがとうございます。

次回は、森の縁の空気が少し変わります。正式な依頼を受けた、兄・アルヴィンの一行が支部へ――。

次話は11月5日19時にアップ予定です。

ブックマークいただけると励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。