第21話 細長い籠
定期確認の当番が、交代で回っていく。
沢の北の確認は、試行として始めた頃の物々しさを少しずつ失い、支部の日常の予定の一つになっていた。
異常がなければ、記録は数行で済む。その数行が積み重なることに意味があるのだと、エレノアは思っている。
今日は、調査部門の若手職員が担当だった。昼をだいぶ過ぎた頃、記録庫の戸が開く。
「……早かったわね」
ミレーヌが、戻ってきた二人を見て言った。その日、エレノアは記録庫で写しの整理をしていた。
沢の北から戻った職員は、記録庫に顔を出すなり、彼女の作業の脇に確認の記録を置いた。
同行したロイも、珍しく神妙な顔をしている。
「先に、口で伝えたほうがいいことがあります」
彼は、首をかしげたまま言った。
「板の前に、人がいました」
*
職員の話は、こうだった。
沢に近づくにつれ、鳥の声が遠のいていくのは、いつも通りだったという。ただ、この日は沢の泥の上に、新しいブーツの跡が一つだけ残っていた。
板へ向かう側の岸に、つま先を北へ向けた跡が一つ。
「あの時点で、誰かがいるとは思いました。まさか、板の前だとは思わなくて」
沢を渡り、倒木の先へ出たところで、まず花に気づいた。前回の確認で記録された白い野花は、もう萎れかけているはずだった。
ところが、板の前にあったのは、新しい花だった。茎の切り口も、束ね方も、この前と同じ。
誰かが、花を取り替えたのだ。
そして、板の少し脇に、人がいた。
茶色の上着を着た人物が、板の前にしゃがみ、何かを整えるように手を動かしていた。背には、籠がある。
近づく足音にも、すぐには気づかなかったという。
「どんな人でした」
「顔は、よく見えなかった。木陰だったし、距離もあった。……声を聞くまでは、男か女かも分からなかった」
「声はかけました。ここは立ち入りを制限している区域だ、と」
離れた位置で警戒に回っていたロイが、職員の合図で足を止めた。人物はゆっくりと立ち上がり、こちらを向いた。
「あの人、俺たちを見ても、ちっとも慌てなかった」
ロイが口を挟んだ。
「逃げもしないし、隠れもしない。……あの静けさの中で、平気で立ってるのが、一番変だった」
その人物は、板に目を向けたまま、こう言った。驚くほど穏やかな言い方だったそうだ。
「もうすぐ、ここも無くなりますね」
それだけだった。言い終えると、籠を背負い直し、木立の奥へ歩き出した。消える直前に一度だけ、板のほうを振り返ったそうだ。
名残を惜しむような、それでいて、また来る者のような振り返り方だった、とロイは言った。
足取りは速くないのに、追おうとしたときには、もう木々の向こうに紛れていた。長居はするな、がこの場所の決めだ。
職員は追わず、最低限の確認だけを済ませて、予定より早く沢を戻った。
「それ以上は、近づきませんでした。決めどおりに」
職員は、そこで少し間を置いた。
「声もかけたし、区域のことも伝えたんですけどね。……あれ、何だったんでしょう」
代わりに、ロイが言った。
「花を直す手つきがよ、慣れてた。何度もやってる手つきだった」
「籠は、どんな形でした」
エレノアは、訊ねていた。
「細長いんです。普通の採取籠より、ずっと。あんな形、初めて見ました」
*
受付のルルにも、エレノアは尋ねてみた。細長い籠を背負う採取者を、知らないか。
「細長い籠?」
ルルは首をかしげ、すぐに首を振った。
「うちに来る採取者さんで、そんな籠の人はいないよ。みんな、口の広い、背負いやすい形。
細長いなんて、荷物が偏って歩きにくいもん」
つまり、その籠は、採取の実用品ではない。少なくとも、この支部の知る採取者のものではない。
エレノアは自席に戻って、手帳を繰った。
だいぶ前のページに、自分の字で、こうある。
――茶色の上着に、細長い籠。少し西へ外れた採取場所で目撃。
灰牙狼が出た日の聞き取りだった。採取者の女が「もう少し前に、一人見た」と語った人物。
あの日は、その人物に行き当たることはなかった。
前回の記録を並べる。板の前に長く立っていたブーツの跡。用意して持ってきたとしか思えない、白い花。
そして今日の、新しい花と、目撃。
三つは、同じ人物を指していた。
――と、決めつけてはいけない。エレノアは一度、手を止めた。
届け出のない採取者かもしれない。森に詳しい、土地の者かもしれない。説明のつく可能性は、いくつもある。
けれど、どの説明も、板の前で花を整える手つきと、生き物に避けられる場所での落ち着き具合の前では、少しずつ色を失っていく。
書けるのは、ここまでだ。同じ服装の人物が、あの聞き取りの日にはもう、この森を歩いていたこと。
西の採取場所にも、沢の北の板の前にも、臆せずに現れること。判断は、記録の外にある。
エレノアは三つの記録を年代順に並べ直し、職員を伴って、執務室へ持って上がった。
*
報告を受けたゼインは、三つの記録を順に目で追い、最後に今日の分で手を止めた。
「危害を受ける様子は、ありましたか」
ゼインが、職員へ向けて尋ねた。
「ありませんでした。向こうは、慌ててもいませんでした」
「花と、板だけですか」
「はい。それと、あの一言だけです」
「……『もうすぐ、ここも無くなりますね』」
ゼインが、反芻するように繰り返した。
「何が無くなるのかは、記録からは決められませんでした」
エレノアは、並べた記録を見渡して言った。
「静けさか、板か、この森か。結びつく言葉は、どこにもありません。……だから、言葉だけを、そのまま残します」
しばらく、沈黙があった。
「特定は、急がないでください」
ゼインは、記録の束を閉じた。
「追い回せば、相手は来なくなります。そうなれば、記録はここで途切れる。花を供え、彫りを読むだけの相手なら、急いで正体を割る理由もありません。
定期確認は今のまま続ける。観察の項目に、花と人物を加えてください。向こうから近づくことがあれば、そのまま記録に残す。
――アシュベリーさん、その照合で進めてもらえますか」
「はい」
「アシュベリーさんは、どう見ますか」
不意に、ゼインが尋ねた。
「……記録のうえでは、危害の意図は見えません。ただ」
エレノアは、並べた記録を見た。
「あの場所で、職員の声かけにも慌てなかった、というのが引っかかります。私たちより先に、あの板と付き合ってきた人ではないかと思います」
ゼインは小さく頷いた。
「その見立ても、記録に添えてください」
それだけの判断だった。けれど、追うな、と決めることも、決める側の仕事なのだと思った。
その夜、エレノアは今日の記録を棚に収めた。沢の北の確認記録の束は、回を重ねて厚くなっている。
手帳の新しいページに、彼女は書き留めた。
――茶色の上着に、細長い籠。板の前で目撃。花は、新しいものに替わっていた。
ずっと前に書いた一行と、同じ形の一行だった。
お読みいただきありがとうございます。
次回は、森の縁の空気が少し変わります。正式な依頼を受けた、兄・アルヴィンの一行が支部へ――。
次話は11月5日19時にアップ予定です。
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