第20話 添えられた花
試行が始まって、しばらくが経った。沢の北の確認は、調査官たちが持ち回りで担当し、もう何度か回っている。
ガレスの回でも、リオネルの回でも、異常はなかった。今日は、エレノアの担当の日だった。
出発の支度をしていると、ガレスが声をかけてきた。
「護衛は、カイルだ」
「……カイルさんが、ですか」
ロイとタリアは、南の採取区域の駆除に出払っていた。蜂に似た魔物の巣の件である。
巣の場所は、例の「一番曲がってる木」が決め手になったらしい。代わりの護衛は、誰も捕まらなかった。
「訓練場で捕まえた。本人は、教官の仕事じゃないと文句を言っていたが」
廊下の先から、当の本人が剣を担いで現れた。
「言うだけ言わせろ。駆り出される側の、せめてもの抵抗だ」
彼はエレノアを見て、少し笑った。
「アシュベリー。お前と現地に行くのは、初めてだな」
「カイルさんも、現地は久しぶりでは」
「まあな。……よりによって、魔法の使えない者同士だが」
カイルは肩をすくめた。
「まあ、俺たちは普段から、剣と足で何とかしてきた側だ。森が静かだろうが何だろうが、やることは変わらん」
冗談めかしてはいたが、護衛としての腕は支部でも指折りだ。ゼインがこの編成をすんなり認めた理由は、そこにあるのだろう。
ガレスの送り出しは、短かった。
「確認は、保全と標識までだ。何かあっても、深入りはするな。そのための試行だ」
カイルが、それを軽く受けた。
「分かってる。……提案した本人が、一番心配性だな」
「当たり前だ」
受付を通りかかると、ルルが声をかけてきた。
「カイル、珍しい組み合わせね」
「俺もそう思う」
「お弁当、用意したわよ。……カイルの分は、少し多めに入れてあるから」
「気が利くな」
「エレノアと一緒だと、標準量じゃ足りなくなるって、相場が決まってるの」
エレノアは、何か言いかけて、やめた。否定する材料が、なかった。
森へ向かう道では、他愛ない話が続いた。
「登録の窓口にいた頃のお前しか知らなかったら、今の姿は想像つかなかったろうな」
「……失礼ですね」
「褒めてるんだ。人は育つ」
彼は、弁当の包みを軽く持ち上げてみせた。
「しかし、昔からよく食べるとは知ってたが、持ち運びの段階で実感するとは思わなかった」
「それ、私の分も入ってますから」
笑い合って歩くうち、森の縁に着いた。沢の手前の木陰で、昼食にすることになった。
エレノアは、自分の分を丁寧に、しかし滞りなく片付けていく。
カイルは自分の包みを開け、多めに入れられた分を眺めてから、何も言わずに半分を彼女の方へ寄せた。
「いいんですか」
「俺の胃袋の都合より、お前の普段を信じることにした」
「……ありがとうございます」
彼女は礼を言って、それもきちんと平らげた。
沢を渡り、北へ入っていくにつれて、音が薄れていった。虫の声が消え、枝を渡る鳥の気配が消える。カイルの足が、ふと止まった。
「……鳥の声が、ないな」
「はい。ここから先は、いつもこうです」
彼はしばらく、静けさの中に立っていた。それから何も言わずに、エレノアの半歩前へ出た。警戒の位置取りだった。
道の途中では、標識の確認も行った。
試行の巡回は、沢の北そのものを見るだけでなく、そこへ至る標識が無事かどうかも含んでいる。
倒れかけた標識を一本、エレノアが記録し、カイルが手で押し戻して立て直した。
「こういう地味な仕事の積み重ねが、網ってやつか」
「はい。……今日から、ここの標識も網の目です」
石の板の前では、まず保全の確認から入る。土台の支えに傾きはない。露出面にも、目立つ崩れはない。
風雨の跡はあるが、彫りを損なうほどのものではなかった。
「これが、例の」
カイルは板から少し離れたところで足を止め、彫りの全体を眺めた。
「写しで見るより、小さいな。それでいて、目を引く」
「掘り出したときは、半分埋もれていました」
「よく見つけたな」
彼は、彫りの行へ目を細めた。
「で、結局これは、文字なのか」
「……まだ、分かりません。図が混じっているかもしれない、というところまでです」
「読めない文字か。読めないくせに、目を引く」
確認は、異常なしで終わるはずだった。
エレノアは、記録のために板の周りを一周し、最後に正面へ回った。そこで、足が止まる。
地面の様子が、いつもと違う。
板に向き合う位置に、ブーツの跡が一足分だけ、残っていた。
つま先は板の方を向き、左右の圧し跡は、通り過ぎる歩幅ではなく、立って体重を預けた間隔だった。
踏まれた落ち葉は土に張り付くほど平らに潰れ、周囲の落ち葉は、ほとんど手つかずのまま。
歩き回った跡でも、通り過ぎた跡でもない。誰かがそこに立って、長く動かなかった跡だった。
掘削の日、撤収の前に、板の前の地面は均してあった。あのあと積もった落ち葉の上に、この跡はある。
つまり、これは全面を掘り出してからの出来事だった。
「カイルさん。……足元、気をつけてください」
彼は音もなく近づき、跡の外側でしゃがんだ。
「来た道は、どこだ」
「分かりません。行き帰りの足跡は、落ち葉で追えなくて。分かるのは、ここに立っていたことだけです」
そして、板の根元に。
白い野花が、一束。茎は長さを揃えて束ねられ、板の前に、きちんと添えられていた。自然に落ちた花の散り方ではない。
花はまだ、萎れていなかった。
「誰か、来たんだな」
「はい。立っていた跡は、一人分です。……長く、読んでいたんだと思います」
「花まで、添えて」
カイルは立ち上がり、周囲へ静かに目を配った。警戒の目だったが、長くは続かなかった。
今ここに、誰もいないことは明らかだった。
生き物に避けられているはずの場所に、来て、立って、読んで、花を置いて去った者がいる。
エレノアは、手帳を取り出した。跡の位置と大きさ、花の種類と束ね方、萎れの具合。
その場で確かめられることだけを、順に書き留めていく。
茎の切り口は、きれいに揃っていた。手で千切った乱れがない。その場で摘んで置いたのではない。用意して、持ってきた花だった。
「触らないのか」
「花は、そのままにします。記録だけ、残します」
見取り図を描き終えたところで、彼女は手帳を閉じた。長く留まる場所ではない。
それは、数十年前に誰かが余白へ走り書きした言葉のとおりだった。
帰り道、カイルはあまり喋らなかった。森の縁を出て、鳥の声が戻ってきたあたりで、ようやく口を開く。
「……あの花、なあ」
「はい」
「誰を悼む花だったんだろうな」
エレノアは、答えなかった。答えは、記録には書けない。
日が傾く頃、二人は支部へ戻った。門の近くで、ガレスが待っていた。
「早かったな」
「……何か、あった顔をしていますか」
「ああ。お前は隠すのが下手だ」
ゼインの執務室で、エレノアは確認の結果を報告する。保全は異常なし。それから、跡のこと。
カイルの所見も、短く添えられた。周辺に滞在の痕跡はなく、争いの形跡もない。
来訪者は一人で、目的を果たして、そのまま去っている。
「何者かが、板の前に立って、彫りを読んでいた形跡がありました。花が、一束添えられていました」
ゼインは、しばらく報告書を見つめていた。
「花は」
「そのままにしてきました。記録と見取り図だけを、残してあります」
「……分かりました。試行は、続けます。次回も、予定のとおりに」
エレノアが退出しようとすると、背中から声がかかった。
「アシュベリーさん」
「はい」
「そういえば。カイルとは、駆け出しの頃からでしたね。……相変わらずでしたか」
「はい。相変わらずです」
「そうですか」
そう言って、少し微笑んだ。
それだけだった。今度は、本当に。
執務室を出てからも、さっきの微笑みが、少しだけ頭に残っていた。
その夜、エレノアは今日の記録を棚に収めた。沢の北の確認記録の束は、回を重ねて少しずつ厚くなっている。
一番上に置いた見取り図の中で、白い花の束だけが、少しだけ色を持っていた。
お読みいただきありがとうございます。
次回は、沢の北の定期確認で、思いがけない目撃の報告が届きます。板の前に立つ、細長い籠の人物とは――。
ブックマークいただけると励みになります!




