第19話 重なる年代
現地から戻って数日。写しの全体が、ようやく一枚の絵として扱えるようになっていた。
記録庫へ向かう途中、受付の前を通りかかると、ルルが採取者の男性と向き合っていた。
南の採取区域で見つけた、蜂に似た魔物の巣の駆除依頼らしいのだが、場所の説明が一向に要領を得ない。
刺されればただでは済まない相手だというのに、肝心の場所が定まらない。
「だから、あの曲がった木の先ですよ」
「曲がった木は、その区域に三本あります」
「一番曲がってるやつです」
「……三本とも、なかなかの曲がり具合でして」
事務机の隣では、別の調査官が、終わったばかりの巡回の報告書を棚に差し込んでいく。
その当たり前の光景に、エレノアは少しだけ足を緩めた。森の異変は、支部の仕事の全部ではない。
「エレノア。こっち、広げていい?」
記録庫では、ミレーヌが大きな机を空けて待っていてくれた。写しは、上と下で何枚にも分かれている。
それを継ぎ目どおりに並べ、端を文鎮で押さえる。机いっぱいに、石の板の彫りの全体が広がった。
傍らには、帝国側から届いた図の写しと、以前ここで見つけた、古い巡回記録の余白の写し。
三つを並べて、まず輪の図から見ていく。
現地で閉じた輪は、写しの上でも閉じていた。帝国側の図の輪と重ねると、大きさこそ違えど、線の入りと抜けの癖が重なる。
古い記録の余白の形も、骨格は同じだった。
行の間隔も、継ぎ目を境に乱れてはいなかった。上の彫りと下の彫りは、続きとしてつながっている。
「同じ、とは言わないけどね」
ミレーヌは、目を細めた。
「骨格は、三つとも同じ。あとはもう、似ている、の域を出たと思う」
それ以上のこと――これが何を表しているのかは、今日も分からない。分かるのは、形の話だけだった。
昼どき、ミレーヌが湯呑みと一緒に、紙包みを差し出した。中身は焼き菓子で、数は四つ。
「半分こね」
「……ありがとうございます」
エレノアは一つを取り、しばらく思案してから、もう一つに手を伸ばした。ミレーヌは別に咎めなかった。
代わりに、自分の分の一つを、最初からエレノア側の皿に移す。
「若い頃、現場から戻った日は、倍は食べられたわ」
「ミレーヌさんは、若い頃っていつの話をしてるんですか」
「あら。女にそういうことを聞くものじゃないわ」
照合は、午後にずれ込んだ。机の向こうでは、リオネルが標識の照合を続けている。記録の束と、現地確認の控えを、ひとつずつ突き合わせていく地道な作業だ。
「リオネル。それ、年代の束が一つずれてる」
エレノアが指さすと、彼は束をひっくり返して、小さく唸った。
「……ほんとだ。助かった。目が、記録の字じゃなくて数字しか追わなくなってきた」
「休憩したら」
「そっちこそ。さっきから同じ行を三回なぞってる」
「……お互い様だね」
二人の短い笑いのあと、リオネルの手つきが変わった。照合済みの束を、年代順に並べ直し始めたのだ。
やがて、彼が小さく声を上げた。
「絞れた。食い違いが出るのは、ある時期の記録だけだ」
食い違いの印が付いた記録は、ある十数年ほどの幅の中にだけ、固まっている。その前後の年代には、ほとんど出ていない。
ミレーヌの手が、止まった。
「……その時期って」
彼女は立ち上がると、棚から古い巡回記録の綴りを引き抜いた。沢の北の走り書きと、似た形の図が見つかった、あの記録の綴りだ。
年代を確認する彼女の指が、ゆっくりと止まった。
「重なってる。あの余白の記録と、同じ時期だわ」
誰も、すぐには口を開かなかった。標識の記録の食い違いと、余白の走り書き。別々の仕事の中で見つかった二つのことが、記録の上で、同じ年代に重なっていた。
「意味は、まだ分からない。でも、記録には残しておきましょう」
ミレーヌの言葉に、エレノアは頷いた。年代が重なる、という事実だけを、今日の照合の記録に書き添える。
それ以上の推測は、書かない。
午後も遅く、ハンスが検分に訪れた。採取後の写しを見るのも、正式な依頼のうちだった。
老専門家は、写しの全体を前に、しばらく何も言わなかった。継ぎ目の部分では指を止め、下半分の、輪郭の鮮明な線を長く眺める。
「手癖が、変わらん」
やがて、彼はぽつりと言った。
「上から下まで、線の引き方が同じだ。彫りの深さの付け方も、角の止め方もな。前に言ったろう。同じ人間の手か、同じ型で習った者の手かは、見当がつくと。その見当は、外れておらんと思う」
「一人の手、ということですか」
「そこまでは言わん。言えるのは、手が途中で替わっていない、ということだけだ。一人で彫ったか、代を継いで同じ型を守ったか。そこは、わしの領分を超える」
ミレーヌが、横から口を挟んだ。
「欲張りな結論は出さないのが、この人のいいところなのよ」
「石はな、掘るんじゃない――」
「頼んで出てきてもらうんだ、でしょう。聞き飽きたわ」
ハンスは不満そうに鼻を鳴らしたが、すぐに写しへ目を戻した。保全については、支えは当面もつだろう、という見立てだった。
ただ、露出したいまの姿は、風雨に晒されてもいる。
「あとは、見る目が定期的に届くかどうかだな」
日が傾く頃、エレノアとガレスは、ゼインの執務室に報告に上がった。
報告書に収めたのは、照合の結果と、正式な寸法だ。縦は大人の腰の高さ、横はその七割、厚みは手の幅ほど。
写し全体との照合で帝国側の図と骨格が重なることと、線の手癖が上から下まで変わらない、という専門家の見立ても添えてある。
「以上です」
エレノアが締めると、ゼインは短く頷いた。
「分かりました。ご苦労さまでした」
続いて、ガレスが口を開いた。あの現地で、心に決めていた提案だった。
「現場からの提案として、聞いていただきたい」
彼は、安全確認の仕組みを、順を追って説明した。確認の対象は、人が仕事に入る区域。
採取区域と、その縁まで。沢の北は、採取も依頼も入らない土地で、網の外にあった。森の変化は、その外から始まっていた。
「知らせが届いたのは、採取者の証言からです。仕組みの側から、異変を拾う手立てはなかった」
ゼインは、報告書から目を離さなかった。しばらくして、静かに言った。
「確認の範囲を、広げるべきだ、と」
「はい。少なくとも、沢の北は」
「人員の割り振りは、どうします」
「巡回の組み替えで、まかなえます。頻度は落としても、目が届くこと自体に意味がある」
ゼインは、ペンを置いた。
「試行として、認めましょう。沢の北を、定期確認の巡回に加える。石の板の保全確認も、その巡回に含めること。制度全体の改定は、試行の結果を見てからです」
「ありがとうございます」
ガレスは深く頭を下げた。エレノアも、それに倣った。
部屋を出る廊下で、ガレスが小さく息を吐いた。
「……言えたな」
「はい。ちゃんと、届きました」
その夜、エレノアは記録庫に戻り、今日の報告の写しを棚に収めた。照合の記録には、標識の年代の重なりも書き添えてある。
棚の中で、分厚い綴りの隣に、今日の薄い束が収まった。
網の目の外にあったはずの沢の北が、次からは巡回の名前に載る。その一行の変化が、いつか何かを拾うかどうかは、まだ分からない。
*
二人が退出したあとの執務室で、ゼインはしばらく、報告書を閉じないまま座っていた。
試行、と口にするのは簡単だ。実際に回すには、巡回表の組み替えが要る。人員の調整が要る。
支部長への報告も、試行の結果をどこへ上げるかの段取りも、全部これからだ。承認した側の机の上に、仕事は静かに積み上がっていく。
「……はぁ」
誰もいない部屋で、小さく息が漏れた。冷め切った茶を一口飲んで、目元を押さえる。現地続きの疲れが、目の奥に薄く残っていた。
それでもペンを取り、巡回表の試案の末尾に、一行を書き加える。
――沢の北。定期確認(試行)。
字は、いつもどおり乱れていなかった。ただ、最後の文字だけ、ほんの少し力が入りすぎていた。
本人にしか分からない程度に。
お読みいただきありがとうございます。
次回は、試行として始まった沢の北への初めての定期確認です。静かな森で、巡回の目が何を拾うのか――。
次話は11月4日19時にアップ予定です。
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