第18話 埋もれていた半分
計画がまとまってから、数日が過ぎた。
出発の朝、エレノアは荷物を一つずつ確かめた。添え木と支え。木のへら。薄手の紙の束と、布に包んだ炭。写しを収める筒。道具は増えたが、顔ぶれは前回と同じだった。エレノア、ゼイン、ガレス、そして護衛のロイとタリア。
この日、一行は夜明け前に支部を出ていた。作業の区切りが昼までと決まっている分、朝の時間を確保するためだった。
「今日の目的は、下半分の採取です」
ゼインが言う。
「手順は計画のとおり。作業は、昼までに切り上げます」
見送りに来たルルが、写しの筒の予備を差し出した。
「足りなくなったら困るでしょう。予備、多めに入れてあるから」
「ありがとう。昼までには戻るわ」
「分かってる。――気をつけてね」
馬を進めながら、エレノアはハンスの言葉を思い出していた。石は掘るんじゃない。頼んで出てきてもらうんだ。
森に入ると、音が少しずつ薄くなっていった。街道沿いでは聞こえていた鳥の声が、標識を一つ越えるごとに遠くなる。馬の蹄の音だけが、やけに大きく響いた。
沢の北の現場は、前回と変わらない静けさの中にあった。
まず、支えと添え木を入れる。板が傾けば終わりだ、というのが専門家の言い分だった。ガレスとロイが板の両脇に支えを据え、タリアが角度を見て声をかける。板がわずかにでも動かないことを確かめてから、ようやく土に手が伸びた。
土は、板の際から少しずつ。道具は木のへらまで。金属は当てない。
板の前面の土は、掘るというより、崩して退ける類のものだった。沢の水と落ち葉が運んできた堆積で、固く締まってはいない。それでも、板に近づくほど、手の動きは慎重になった。警戒はガレスが受け持ち、ロイとタリアも土退けに手を貸す。ゼインは、誰に言われるともなく、土を運ぶ側に回っていた。
最初に出てきたのは、根と小石ばかりだった。へらを進めるたび、湿った土の匂いが立つ。やがて、へらの先が、土ではない硬さに触れた。
「……表面です」
エレノアの声に、全員の手が止まる。
そこからは、土をどけるより先に、確かめる時間が長くなった。露出した部分に紙を当て、炭を寝かせて軽く滑らせる。下半分の彫りは、上半分より、輪郭がはっきりしていた。土の中で風雨に晒されなかった分だけ、線が若く残っている。ハンスの講義どおりだった。
「焦るな、ですよね」
エレノアが自分に言い聞かせるように言うと、傍らのゼインが小さく頷いた。
「石仕事は、焦ると碌なことがないそうです」
「よく覚えていますね」
ゼインは、板の際の作業には手を出さなかった。専門のことは、専門の手に。だが、ただの力仕事の手が足りなければ、自分の手も貸した。時を見る役は、そのままだった。
難所は、一度だけあった。下半分の途中で、木の根が一筋、彫りの溝に沿うように伸びていたのだ。引けば石を傷つける。切るにも、刃を溝に近づけたくない。
「根のほうを、板から離れたところで切りましょう」
エレノアは、根の伸び先を目で追ってから言った。
「溝の上にある部分は、土ごと少しずつ浮かせて。刃は、板に向けない」
ロイが根の先を切り、タリアが土を押さえた。細い根は、三度に分けて、ようやく溝から離れた。溝の中の線は、無事だった。
土が退くにつれて、彫りの続きが現れてくる。上半分で切れていた行は、下へ、下へと続いていた。そして、図の部分。写しの中で半分だけだった輪の、その下半分が、土の中から姿を現した。
円が、つながる。
エレノアは炭を持つ手を止めて、しばらくその形を見ていた。意味は分からない。だが、これで図は、初めて全体の形を持った。
「……上と、つながりましたね」
紙の端を押さえていたタリアが、小さく言った。観察眼の鋭い彼女の目にも、同じものが見えているらしかった。
「……取ります」
紙を当て直し、一枚、また一枚。露出の進みに合わせて、写しは下へ伸びていった。
途中で一度、作業を止めて、布の上に写しを並べた。前回取った上半分の写しと、今日の新しい写し。継ぎ目で、線の流れが確かめられる。
「行の間隔は、上と変わりません」
エレノアは記録帳に、継ぎ目の位置と、彫りの深さの所見を書き込んだ。読めはしない。だが、形は嘘をつかない。記録は、そのためのものだった。
「アシュベリーさん」
ゼインの声に、エレノアは手を止めた。
「手を、速めないでください。区切りは昼までです」
いつの間にか、自分の手が速くなっていた。息を吐いて、へらの動きを落とす。板がどこまで続くのかは、掘ってみなければ分からない。だからこそ、最後まで同じ速さでいくしかなかった。
昼が近づく頃、へらの先が、板の硬さを失った。
下端だった。
石の板の全体が、初めて、地上に姿を現した。
エレノアは、改めて全体の寸法を測った。縦は、自分の腰ほどしかない。横はその七割ほどで、厚みは手の幅。これなら、倒木の陰に埋もれていれば、誰の目にも留まらないはずだ。
誰も、すぐには声を出さなかった。行は上から下まで切れ目なく続き、図は円の形に閉じている。埋もれていた半分は、何十年も、あるいは、もっと長く、土の中でこの姿のまま眠っていたのだ。
「全体は、初めてですね」
ゼインが、静かに言った。
「ええ。……やっと、全部です」
*
ガレスは、作業の間じゅう、外周を見ていた。
今日は、鳥の声が一度もなかった。
前回来たときも、この辺りは静かだった。それでも、あの時はまだ、遠くのほうで何かが鳴いていた気がする。気のせいかもしれない。だが、長く森に通う人間は、そういう「気のせい」の積み重ねで危ない場所を覚える。
沢の音も、細かった。風はあるのに、葉の擦れる音が遠い。
彼は、調査官になってから、この森にも何度となく足を運んできた。調査官の仕事は、人が仕事に入る場所の安全を見ることだ。採取の区域、街道、依頼で入る範囲。その網の中の事故なら、目撃と証言ですぐに届く。仕組みとしては、悪くない。
だが、ここは最初から、網の外だった。
誰の採取場でもない。誰の依頼先でもない。巡回は通っていた。何十年も前の記録に、ここの走り書きが残るくらいには。だが、巡回は「通る」仕事だ。通るだけの目では、静けさの変化は拾えない。静けさは、誰にも気づかれないまま、ここで育っていた。
採取の女たちが「最近、森が静かだ」と言い出したとき、支部の中には、気のせいだと思う者もいた。ガレスも、最初は半分そう思った。だが、気のせいのほうに軍配が上がる材料は、ひと月経っても出てこなかった。
仕組みが悪いのではない。ただ、仕組みの想定の外から来るものには、目がない。そのことが、今日はやけに重かった。
支部の地図に描かれた東の森は、仕事の範囲で切り取られた森だ。実際の森は、地図より広い。その広さの分だけ、見ていない場所がある。それは分かっていたはずのことだった。分かっていて、誰も困らなかった。――今までは。
作業のほうは、よく進んでいた。エレノアの手つきは慎重で、急ぐ場面でも速くならない。ゼインは、言われもしないのに土を運んでいた。時だけは、きっちり守らせていたが。若い連中の背中は、悪くなかった。
「昼だ」
ゼインの声に、最後の写しが筒に収まった。
一行は板の周りの支えをそのままに、現場を離れた。板は、もう埋もれてはいなかった。掘り出したからには、風雨も、獣も、届くようになる。かといって、ここに見張りを置くわけにもいかない。
街道に出たところで、遠くで鳥が鳴いた。一行の誰も、何も言わなかった。だが、その一声が、今日半日の異様さを、かえって際立たせた。
街道に出る手前で、ガレスは一度だけ振り返った。
森は、今日も静かだった。その静けさが、網の外のどこまで広がっているのか、誰にも分からない。
――報告で、言わなければ。
彼はそう思いながら、馬の手綱を引いた。
お読みいただきありがとうございます。
次話――持ち帰った写しを記録庫で照合します。そして、森の「網の外」についての報告が、支部を少しだけ動かし始めます。
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