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氷の女神は魔法が使えない ―忘れられた神の物語―  作者: mom
静まり返る森

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第1話 森が静かになる前に

ぬかるみに足を取られた瞬間、エレノア・アシュベリーは、今日三度目のため息をついた。


「……最悪」


昨日の雨をたっぷり吸い込んだ土は、遠慮なく靴底にまとわりついてくる。ようやく足を引き抜けば、今度は裾に泥が跳ねた。


お気に入りの外套だった。


いや、正確には、今朝まではお気に入りだった。


エレノアは顔にかかった桃色がかったベージュの髪を耳にかけ、汚れた裾を見下ろした。白い肌にまで泥が跳ねていないことだけが、せめてもの救いだ。


「エレノア、足元ばかり見ていると頭をぶつけるぞ」


少し先を歩くガレスが、振り返りもせずに言った。


「見ていなければ転びます」


「それもそうだな」


「ガレスさんは、もう少し後輩を気遣ってもいいと思います」


「気遣ってるさ。だから頭をぶつける前に教えたんだ」


反論しようとして、エレノアは口を閉じた。


言い返せないのが腹立たしい。


ガレス・ロウは四十代半ばの元冒険者で、日に焼けた顔には年季が刻まれている。がっしりとした体格のわりに森を歩く足取りは軽く、ぬかるみも露出した木の根も、まるで気にしていないようだった。


その後ろを歩くエレノアの靴は、すでに泥まみれである。


経験の差というものは、時にひどく理不尽だ。


頭上では木々の枝が重なり、朝の陽光を細かく遮っている。湿った土と落ち葉の匂いが濃く、どこかで鳥が鳴いていた。


東の森。


王都から半日ほどの場所に広がるこの森は、薬草採取の依頼を受ける冒険者たちにとって、比較的安全な活動区域として知られている。


少なくとも、ひと月前まではそうだった。


エレノアは腰の鞄から折り畳んだ地図を取り出した。


指定された採取区域、周辺の獣道、過去の魔物の目撃地点。自分の筆跡で書き込んだ調査記録を見つめる。


見落としがあったのだろうか。


その考えが浮かぶたび、胸の奥に小さな棘が刺さる。


もちろん、森の状況は日々変わる。安全調査は未来の危険をすべて予測する仕事ではない。


そんなことは分かっている。


それでも、自分が安全と判断した場所で冒険者が負傷したと聞いて、平然としていられるほど割り切りのよい性格ではなかった。


「神様がいるなら、せめて泥のない道くらい用意してほしいものね」


思わずこぼした独り言に、幼い頃の記憶がよみがえった。


雨の夜。母の声。寝台の上で聞いた、神様と旅人の物語。


あの頃は、いつか自分も物語の旅人のように、世界の不思議に出会えるのだと思っていた。


現実はどうだろう。


神秘的な遺跡も、空を駆ける魔法も、今のところ彼女の仕事とは縁がない。


あるのは泥と虫と、帰れば待っている大量の報告書だ。


そして何より、昨日持ち込まれた一件の事故報告。


始まりは、昼過ぎのギルドだった。


*


「東の森で、冒険者が灰牙狼に襲われたそうよ」


ルルがそう言ったとき、エレノアは机に積まれた書類から顔を上げた。


「東の森?」


「そう。薬草採取の依頼を受けていた新人の子。幸い命に別状はないみたいだけど、脚にかなり深い傷を負ったって」


ルルは手元の報告書をめくり、眉を寄せた。


「それで、採取区域の安全情報について確認が入ってるの」


「確認?」


「依頼を受けたときには、危険度の低い区域だと案内されていたそうよ」


エレノアは書類を受け取り、記載された区域番号を確かめた。


見覚えがある。


当然だ。


ひと月前、その区域の安全調査を担当したのは自分だったのだから。


「……調査記録を確認するわ」


「お願い。事故の詳しい状況は、別途聞き取りが進んでるから」


ルルはそこで少し声を落とした。


「ねえ、エレノア。あなたが調べた場所だからって、一人で抱え込まないでよ?」


「抱え込んでないわ」


「そういう返事をするところが怪しいのよ」


「失礼ね」


「長い付き合いですもの」


にっこり笑う幼なじみに、エレノアは小さく息を吐いた。


反論するより、書類を確認するほうが建設的だ。


そう判断しただけだ。


決して図星だったわけではない。


*


「エレノア!」


ガレスの声に、意識が森へ引き戻された。


「何をぼんやりしてる。こっちだ」


「すみません」


慌てて地図を畳み、足を進める。


ガレスは少し開けた場所で立ち止まっていた。地面には古い踏み跡がいくつも重なり、低木の向こうに細い獣道が続いている。


「この先が報告にあった場所だ。まずは周囲を見てみよう」


「はい」


エレノアは鞄から記録帳を取り出した。


調べるべきことは多い。


灰牙狼はどこから現れたのか。負傷した冒険者はどの経路を通ったのか。前回の調査から、周辺の状況に変化はあったのか。


分からないことを、分からないままにしない。


それが彼女の仕事だった。


もっとも、すべての答えが見つかるとは限らない。


「……ガレスさん」


「なんだ?」


「ここ、本当に灰牙狼が出る場所だと思いますか?」


ガレスはすぐには答えず、足元の地面に視線を落とした。


「さてな。出たという報告はある。だが、それが普段からここを縄張りにしているという意味にはならん」


「そうですね」


「だから調べに来たんだろう?」


エレノアは頷いた。


森の奥で、枝の折れる乾いた音がした。


二人は同時に顔を上げる。


だが、木々の向こうに何かの姿が見えることはなかった。


しばらく耳を澄ませていたが、続く物音はなかった。


「小動物でしょうか」


「かもしれんな。風で枯れ枝が落ちた可能性もある」


ガレスは腰の短剣に添えていた手を離した。


「ただ、音がした方角は覚えておけ。帰りにも何かあれば確認する」


「はい」


エレノアは地図の余白に印をつけた。


灰牙狼は群れで行動することもある魔物だ。今回の報告が事実なら、少なくとも一頭はこの付近に現れたことになる。姿が見えないからといって、安全だと判断するわけにはいかない。


二人は負傷者の報告にあった場所へ向かった。


そこは緩やかな斜面の途中で、低い灌木がまばらに生えていた。斜面の下には細い沢が流れており、雨の影響で普段より水量が増している。


「ここですね」


「ああ。まず周囲を見よう。地面を荒らすなよ」


「分かっています」


「そうか。なら俺が踏んだ跡も見つけられるな」


「ガレスさん」


「冗談だ」


こういうところが、どうにも腹立たしい。


もっとも、ガレスの言葉には意味があった。


昨日の雨で地面は柔らかくなっている。足跡が残りやすい一方、事故当時の痕跡が雨に流されている可能性も高い。


エレノアは斜面の手前でしゃがみ込み、地面を観察した。


泥に刻まれた靴跡がいくつか見える。深さも向きも異なっていたが、どれが負傷した冒険者のものか、現状では判断できない。


「足跡はありますけど、事故当時のものとは限りませんね」


「救助に来た連中も通っているだろうしな」


「ええ。それに、ここは採取区域へ向かう通り道です」


エレノアは記録帳に状況を書き込んだ。


ガレスは少し離れた場所で、低木の枝を調べている。


「こっちに折れた枝がある」


呼ばれて近づくと、膝ほどの高さにある枝が一本、途中から折れていた。


折れ口はまだ新しいように見える。


「何かが通ったんでしょうか」


「人間でも獣でも、これくらいは折れる。断定はできん」


「そうですね」


「だが、記録しておく価値はある」


エレノアは枝の位置と状態を記録した。


調査で大切なのは、目立つものだけを拾い上げることではない。


何が分かっていて、何が分かっていないのか。


その境界を曖昧にしないことだった。


ひと通り確認を終えたところで、ガレスが腰を伸ばした。


「次は救助地点を見たいところだが、少し回り道になるな」


「採取区域の中心を通る道なら、途中で採取者の方にも話を聞けそうですね」


「ああ。昨日以前の状況を知っている連中がいれば助かる」


二人は沢沿いの道を戻り、採取区域の中心へ向かった。


しばらく歩くと、木々の間から人の声が聞こえてきた。


「おや、ガレスじゃないか」


声をかけてきたのは、背中に大きな籠を背負った年配の女性だった。


日に焼けた顔には深い皺が刻まれているが、足取りはしっかりしている。腰には採取用の小刀と布袋が下がっていた。


「久しぶりだな。今日も薬草採りか」


「そうだよ。あんたは相変わらず、若い娘を連れて森歩きかい?」


「仕事だ、仕事」


「分かってるよ。そんな怖い顔しなくても」


女性は愉快そうに笑った。


エレノアは軽く頭を下げる。


「ギルドの調査官、エレノア・アシュベリーです。少しお話を伺ってもよろしいでしょうか」


「ああ、構わないよ。あたしはマルタ。ここじゃ長いこと採取をしてる」


「ありがとうございます。昨日、この付近で冒険者が灰牙狼に襲われたという報告がありまして」


その言葉に、マルタの表情が変わった。


「ああ、聞いたよ。若い子だったんだってね」


「はい。最近、この辺りで灰牙狼を見かけたことはありますか?」


「いや、あたしは見てないねえ」


「鳴き声や、ほかの採取者からの目撃情報でも構いません」


「ううん。少なくとも、ここ数日は聞いてないよ」


マルタは顎に手を当て、少し考え込んだ。


「でも、灰牙狼が出たってんなら、しばらく奥には行かないほうがいいかね」


「現在、安全情報の確認を進めています。危険が確認されれば、区域の利用についても改めて案内が出ます」


「そうしておくれ。こっちは生活がかかってるからね」


マルタはそう言って、背中の籠を担ぎ直した。


その籠を見て、エレノアはふと気になった。


「今日は青葉草を採っていらっしゃるんですか?」


「ああ。ほかにも少しね」


籠の中には、青みの強い葉をつけた薬草がいくつか入っていた。


青葉草は傷薬の材料として広く使われる植物だ。東の森では比較的よく採れるため、初心者向けの採取依頼にも指定されることが多い。


「今日はまだ採り始めたばかりですか?」


「いや、朝からだよ」


エレノアは思わず籠を見直した。


採取を始めたばかりにしては量が多い。しかし、朝から働いていたというなら、むしろ少ないようにも見える。


マルタはその視線に気づいたらしい。


「少ないだろう?」


「……そうですね。いつもより少ないんですか?」


「最近はずっとこんなもんさ」


「最近、というと?」


「春の終わりくらいからかねえ。前なら、もう少し手前でも見つかったんだけど」


マルタは森の奥を指さした。


「今じゃ、いつもの場所を回っても籠が埋まらない日がある。だからって奥まで入るわけにもいかないしね」


「採取する人が増えた可能性はありませんか?」


「そりゃあるだろうさ。でも、あたしは何年もここに通ってるんだよ。人が増えた年だってあったけど、今年はなんだか勝手が違う」


エレノアは記録帳を開いた。


「差し支えなければ、具体的に教えていただけますか。採取量が減ったと感じ始めた時期と、普段利用されている場所を」


「いいよ。ただ、正確な数なんて覚えてないからね」


「構いません。まずはお話を伺いたいだけです」


マルタは籠を地面に下ろし、指を折りながら説明を始めた。


例年なら青葉草がまとまって生える場所。最近は葉の小さい株が目につくこと。採取する時期が早すぎたのかと思い、少し日を空けてみたが、大きく変わらなかったこと。


話を聞くうちに、エレノアは一つ気づいた。


「マルタさん。採取量が減ったと感じるのは、青葉草だけですか?」


「さあねえ。ほかの草まできっちり比べちゃいないよ。あたしは青葉草の依頼をよく受けるから、気になるのもそればっかりで」


「なるほど」


その返答に、エレノアはむしろ安心した。


何もかも減っている、と言われるより信用できる。


マルタは自分の経験から分かる範囲だけを話しているのだ。


「ありがとうございます。参考になります」


「役に立つならいいけどねえ。あんたたち、灰牙狼を調べに来たんじゃなかったのかい?」


「ええ。薬草の件は、今回の事故と関係があるかどうかも分かりません」


「そりゃそうだ」


マルタは笑って、再び籠を背負った。


「まあ、あたしとしては薬草が増えてくれりゃ、それでいいんだけどね」


「お気持ちは分かります」


「分かるかい?」


「依頼の達成が難しくなれば、冒険者の方々にも影響がありますから」


「そうそう。それに、採れないからって依頼人が倍の金を払ってくれるわけじゃないし」


ガレスが苦笑した。


「それは依頼管理の連中に言ってくれ」


「言ってるよ。毎回ね」


「なら、俺に言うな」


「顔を見たら言いたくなったんだよ」


二人のやり取りに、エレノアも思わず笑った。


マルタと別れたあと、エレノアは記録帳を閉じた。


「青葉草の採取量、気になりますね」


「気になるのは分かるが、今回の調査とは分けて考えろよ」


「分かっています」


「本当か?」


「ガレスさん、今日は私を何歳だと思っているんですか」


「さて、十五くらいか」


「十歳も若返らせないでください」


「褒めたつもりだったんだがな」


「褒め方を勉強し直してください」


ガレスは声を立てて笑った。


エレノアは呆れながらも、頭の中で情報を整理する。


灰牙狼の目撃情報は、今のところ負傷者の報告だけ。


事故現場には新しい折れ枝があったが、何によるものかは不明。


青葉草の採取量については、経験豊かな採取者から減少を示唆する証言が得られた。ただし、客観的な記録との照合はまだできていない。


どれも、結論を出すには足りなかった。


「ガレスさん。帰ったら、過去の採取依頼の達成記録を確認したいです」


「青葉草か?」


「はい。マルタさんのお話が事実なら、ほかの採取者にも影響が出ているかもしれません」


「いいんじゃないか。ただし、今は事故調査が先だ」


「もちろんです」


「なら、予定どおり救助地点を見て帰るか」


「はい」


エレノアは地図を広げた。


事故が起きたとされる場所から、救助地点まではそれほど遠くない。


しかし、途中には緩い斜面と沢がある。


脚に深い傷を負った冒険者が、自力で移動できる距離だったのだろうか。


もちろん、負傷直後なら動けた可能性もある。同行者が支えたのかもしれない。


救助時の状況を確認しなければ、何とも言えなかった。


「……救助した方の証言も、照合したほうがよさそうですね」


「ああ。リオネルのほうで聞いているだろう」


エレノアは頷き、地図を畳んだ。


今日の調査で、事故の原因はまだ分からない。


けれど、確認すべきことは確実に増えていた。


帰れば、報告書の整理と記録の照合が待っている。


そして、おそらくはリオネルとの情報交換も。


あの同期は仕事ができる。


それは認めている。


ただし、できればもう少し、人を苛立たせない話し方を覚えてほしい。


「エレノア、行くぞ」


「はい!」


返事をして歩き出した途端、足がまた泥に沈んだ。


ぐちゅり、と嫌な音がした。


エレノアはしばらく自分の靴を見つめ、それから静かに空を仰いだ。


幼い頃、母が語ってくれた神様と旅人の物語。


あの旅人も、こんな苦労をしたのだろうか。


もしそうなら、物語では省略された部分が相当あるに違いない。


「……帰ったら絶対、お風呂に入ろう」


「何か言ったか?」


「いいえ。仕事の優先順位を確認していただけです」


「風呂が一番か?」


「報告書の次です」


「真面目だなあ、お前は」


ガレスの笑い声が、湿った森に響いた。


エレノアは返事をせず、泥だらけの靴でそのあとを追った。


今日の調査は、まだ終わっていない。

お読みいただきありがとうございます。

次話「新しい副ギルド長」――ギルドに新しい副ギルド長が着任します。銀髪の辺境伯家の次男、ゼイン・ヴァレンティス。エレノアの第一印象は……?

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