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氷の女神は魔法が使えない ―忘れられた神の物語―  作者: mom
静まり返る森

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序章 神様と旅人のおはなし

「お母さん、神様って本当にいるの?」


唐突な質問に、母は手にしていた本から顔を上げた。


窓の外では雨が降っている。夕方から降り始めた雨は夜になってもやまず、屋根を叩く音が部屋の中まで聞こえていた。


エレノアは寝台の上で膝を抱え、母の返事を待っている。


「どうしたの、急に」


「今日、ルルが言ってたの。神様にお願いすれば、なんでも叶えてくれるって」


「あら。ルルは何をお願いしたのかしら」


「お菓子屋さんのお菓子を全部食べたいって」


母は吹き出した。


「それは神様も困ってしまうわね」


「でも、ルルは本気だったよ」


「でしょうねえ」


母は笑いながら本を閉じ、寝台の端に腰を下ろした。


「それで、エレノアは何をお願いしたいの?」


「……魔法が使えるようになりたい」


口にしてから、エレノアは少しだけ俯いた。


母の笑顔が消えたわけではない。ただ、その手がそっとエレノアの髪に触れた。


エレノアには魔法が使えない。


正確には、魔法を使うために必要な魔素の受け皿が、生まれつき存在しないのだという。


それを知ったのは、つい先日のことだった。


街の診療所で説明を受けたとき、難しい話はほとんど理解できなかった。ただ、母が何度も質問していたことと、父が帰り道にいつもよりたくさん話しかけてきたことは覚えている。


「みんなはできるのに」


エレノアは膝に顔を埋めた。


「ルルだって、小さな明かりをつけられるようになったの。まだすぐ消えちゃうけど」


「そうね」


「アル兄はもっとすごいし。お父さんも、お母さんも」


言いながら、エレノアは自分の指先を見つめた。


いくら練習しても、そこには何も起こらない。


「私だけ、できないの?」


母はすぐには答えなかった。


その代わり、エレノアの隣に座り直すと、彼女の小さな手を両手で包んだ。


「今わかっていることでは、そうね。エレノアが自分で魔法を使うのは難しいと思う」


「……神様でも?」


「うーん。神様に会ったことがないから、そこまではわからないわ」


母は困ったように笑った。


「でもね、エレノア。魔法が使えることと、何かができることは、必ずしも同じじゃないのよ」


「どういうこと?」


「たとえば、お父さんは魔法で火を起こせるでしょう?」


「うん」


「でも、お料理は私のほうが上手よね?」


「うん!」


勢いよく頷くと、母は少し得意げな顔をした。


「ほら。魔法が使えても、焦がす人は焦がすのよ」


「お父さん、この前お鍋を真っ黒にした」


「そうそう。あれ、洗うのが大変だったんだから」


二人で笑った。


けれど、笑い終わっても、エレノアの胸の奥に残ったものは消えなかった。


母もそれに気づいていたのだろう。


「ねえ、エレノア。神様のお話をしてあげましょうか」


「神様の?」


「そう。昔々のお話よ」


母は寝台の掛け布を整え、エレノアを横にさせた。


「でも、その前に一つだけ約束して」


「なあに?」


「これは、ずっと昔から伝わっているお話。どこまで本当なのかは、お母さんにもわからないの」


「じゃあ、嘘かもしれない?」


「そうね。誰かが少し大げさに話したかもしれないし、大事なところを忘れてしまったのかもしれない」


「忘れたら、違うお話になっちゃうよ」


「ふふ。そうかもしれないわね」


母は枕元の灯りを少し落とした。


「それでも、聞いてみる?」


「聞く!」


母は頷き、ゆっくりと語り始めた。


*


昔々、まだ今の国も、街も、名前を持っていなかった頃。


この世界には、一人の神様がいたそうです。


神様はとても長い時間を生きていて、人間には想像もつかないほど大きな力を持っていました。


けれど、その神様はたいそう気難しく、誰かと親しくすることを好みませんでした。


人間たちが小さなことで笑ったり、泣いたり、言い争ったりするのを見ても、何がそんなに面白いのか、神様にはさっぱりわかりません。


そんなある日、神様は一人の旅人と出会いました。


旅人は、若い人間の女性でした。


特別な力を持っていたわけではありません。遠くの街へ行くには自分の足で歩かなければならず、お腹が空けば食べ物を探し、夜になれば眠る場所を見つけなければなりませんでした。


けれど、旅人はいつも楽しそうでした。


神様は不思議に思いました。


「そんなに不便なのに、どうして旅をするのだ?」


すると旅人は笑って答えました。


「行ったことのない場所が、まだたくさんあるからよ」


「それだけか?」


「それだけじゃ足りない?」


神様には、旅人の言っていることがよくわかりませんでした。


神様なら、行きたい場所へ一瞬で行くことができます。高い山の向こうも、深い森の奥も、見ようと思えば見ることができました。


それなのに旅人は、わざわざ歩いて行こうとするのです。


「ずいぶん無駄なことをするものだな」


「そうかしら。歩いている途中に、美味しいものを見つけることだってあるのよ」


「食べ物など、必要なときに用意すればよい」


「それじゃあ、知らない料理に出会う楽しみがないでしょう?」


神様は呆れました。


けれど、旅人があまりにも楽しそうに話すものですから、少しだけ興味を持ちました。


「そこまで言うなら、お前の旅とやらを見てやろう」


旅人は驚きましたが、やがて肩をすくめました。


「いいわよ。ただし、私は歩くのが遅いわ」


「構わない」


「それから、食事の時間にはちゃんと休むからね」


「なぜだ?」


「お腹が空くからに決まっているでしょう」


神様はますます呆れました。


こうして、神様と旅人の旅が始まったのです。


二人は長い旅を続けました。


山を越え、川を渡り、知らない街を訪ねました。旅人は道端に咲く花を見つけて足を止め、美味しい料理に出会えば作り方を尋ねました。


初めのうち、神様はそんな旅人を理解できませんでした。行きたい場所へ行くだけなら、もっと早い方法がいくらでもあったからです。


けれど、いつしか神様は彼女を急かさなくなりました。


旅人が何かを見つければ一緒に立ち止まり、夕暮れになれば今夜の宿を探す。以前なら気にも留めなかった小さな出来事が、二人の旅を楽しいものにしていました。


やがて二人は互いを愛するようになり、夫婦になりました。


それでも旅は終わりません。神様はもう、行き先を知るためではなく、彼女と同じ道を歩くために旅を続けていたのです。


二人が訪れた場所には、旅の思い出を記した石が残されたといいます。


誰がそれを刻んだのか、いくつあるのか。


今では、誰も知りません。


ただ、古い言い伝えの中には、こんな言葉が残っているそうです。


――世界を知りたければ、そこに生きる者と共に歩きなさい。


*


「……結婚したの?」


エレノアが尋ねると、母は頷いた。


「そうよ」


「神様と人間なのに?」


「お話では、そうなっているわね」


「変なの」


「あら、どうして?」


「だって、神様は何でもできるんでしょう? 旅人は歩くのも遅いし、特別な力もないし」


「そうねえ」


「神様なら、もっとすごい人と結婚できたんじゃない?」


母は少し考えるように首を傾げた。


「でも、神様が一緒にいたかったのは、その旅人だったんでしょうね」


「どうして?」


「それは、神様にしかわからないわ」


「また、わからない」


エレノアは口を尖らせた。


「ふふ。そうね。でも、エレノアはどう思う?」


「……旅人が面白かったから?」


「それもあるかもしれないわね」


「あと、美味しいものをいっぱい知ってたから」


「それは大事ね」


母が真剣な顔で頷いたので、エレノアは思わず笑った。


けれど、少ししてから、ふと疑問が浮かんだ。


「ねえ、お母さん」


「なあに?」


「旅人は、神様がいなくても旅ができたんだよね?」


「ええ。きっとね」


「じゃあ、神様がいなくても、いろんなところに行けるんだ」


母は少し驚いたように目を瞬かせた。


それから、嬉しそうに微笑んだ。


「そうね。自分の足で歩けるもの」


「……私も?」


「もちろん」


「魔法が使えなくても?」


「ええ」


母は迷わず答えた。


「ただし、遠くへ行くなら道を覚えないとね。お父さんみたいに迷子になったら大変だから」


「お父さん、また迷子になったの?」


「この前ね、隣町へ行くはずが反対の街道に出たのよ」


「なんで?」


「お母さんにもわからないわ」


エレノアは声を上げて笑った。


母も一緒に笑い、それから娘の額に軽く口づけた。


「さあ、そろそろおやすみなさい」


「もう一つだけ」


「なあに?」


「神様って、今もどこかにいるのかな」


母は窓の外へ目を向けた。


雨はいつの間にか弱まり、雲の切れ間から月明かりが差し込んでいた。


「どうかしらね」


「また、わからない?」


「ええ。でも……」


母は少し考えてから言った。


「もし今も旅をしているなら、きっと、どこかで美味しいものでも食べているんじゃないかしら」


「神様なのに?」


「旅人と一緒に旅をした神様でしょう? 美味しいものの楽しさくらい、覚えたと思うわ」


「そっか」


エレノアは納得したように頷いた。


母が灯りを消すと、部屋は静かな暗がりに包まれた。


目を閉じる前、エレノアはもう一度だけ窓の外を見た。


雲の間に、小さな星が一つ見えていた。


いつか、自分も遠くへ行ってみたい。


知らない街を歩いて、知らない人に会って、知らないことをたくさん見つけたい。


魔法が使えたら、もっと簡単に行けるのかもしれない。


そう思うと、やっぱり少し羨ましかった。


それでも、旅人は自分の足で歩いていた。


エレノアは掛け布の中でそっと足を伸ばした。


今はまだ小さな足だけれど、いつか遠くまで歩けるようになるだろうか。


そんなことを考えているうちに、雨音が少しずつ遠ざかり、いつの間にか眠りに落ちていた。


お読みいただきありがとうございます。

序章は短い導入で、本編は第1話から始まります。魔法の使えない女調査官エレノアの物語を、ここからどうぞ。

次話「森が静かになる前に」――自分が安全と判断した森で、冒険者が襲われた。エレノアは泥だらけになりながら、事故の痕跡を追います。

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