決戦
目を覚ますと、そこは見知った公園であった。―公園と言っても、周縁部に木々が立ち並び、中心部は平面の土壌があるだけだが―薄紫色の明かりに包まれ、土壌は雨でグチャグチャになっていた。世界に混沌をもたらすかのような強い雨だった。
体を起こそうとしたが、腹部の痛みで上手く体が動かせない。周囲を見渡すと、少し離れた所に暗い影を放つ男が立っていた。
「目を覚ましたようだな、サトル」
男の低い声は重い空気と非常に調和しており、その声には聞き覚えがあった。
男が振り向くと紫色のライトが男に当たり、黒いマントが雨に濡れて煌々と光を放っていた。
それは、暗黒の世界を照らす光であったが、ドグマ的で他の介入の余地がない息苦しさを感じる光だった。
「イギリス時刻十八時、北緯―゜東経―゜……。時間丁度じゃないか」
その言葉で僕は男の正体を悟り、相手の瞳へと目を移した。
「紅陽! どうして……」
叫ぶ程大きな声を出したつもりだったが、かすれた勢いのない声が出るだけだった。
紅陽の瞳は鋭く、見ているだけで息が止まりそうなほど威圧感があった。
「昨日言ったはずだ。私の戦いが次の段階へと移行するということを。貴様はそれを承知でここへ来たのだろう?」
紅陽の声の調子はいつもと変わらず、全く違和感を感じないほど自然体であった。
「承知で……って、紅陽が何をしようとしているのかさっぱり分からないよ」
まさか、紅陽が厨二病ではなく『本物』だったなんて、気付ける人間なんていないだろう。
「何? 愚鈍な奴め。この二年間で貴様には充分に事を伝えられたと思っていたのだが。……はぁ。まあよい。雑魚にも分かるように話をしてやろう」
紅陽の瞳が赤く光り、暗闇の中で禍々しく、鋭く輝いていた。その瞳は、まるで戦乱の渦の中で血を求め彷徨うバーサーカーのようであった。
マントを風になびかせ、左手を顔の前にかざして先程より一層低い声でこう言い放つ。
「手始めに、私の正体を明かすとしよう。」
パッ、と身を翻し、マントを虚空へと投げ入れた。
「レッド・ドラゴンと太陽の女、私の真名は『サタン』だ」
その刹那、稲妻が彼の立つ遠方に落ち、雨は彼に味方するようより勢いを増した。
紅陽は大きく二枚の翼を広げ、太く、頑丈そうな尾が揺れていた。それは、己の力を世界に知らしめているようだった。
「私は、この退屈な世界に革命をもたらしに来た」
紅陽の隣には一つの絵画があり、その中に描かれていたであろう人物の輪郭がぼんやりと見えていた。
「な、なにが起こって」
「ここまできて状況が読めていないとは! フン! 嘲笑を通り越して貴様には失望している。私は貴様らの世界をより相応しい世界へ昇華したいと思っているのだよ。貴様も感じていたのだろう? この世の味気なさ、退屈さを! ならば来い。変える手段は余るほどある」
両腕と両翼を大きく広げ、自信ありげに紅陽は大きく声を挙げた。
「そ、それは……」
紅陽は歴然とした「悪」であるはずなのに、彼の言っていることに対して何も言い返せず、僕は言葉に詰まってしまった。
「私は現実をより良くするために来たに過ぎない。見よ! この素晴らしき絵画の世界を!」
それは、確かに素晴らしかった。世の中の美しさ、儚さ。その全てが集約していた。それはもはや現実を超越していた。
―だが、何かが足りない。
「貴様も感じただろう? 絵画に比べると、この世界はなんと醜いのか! 貴様も来い。内宮了。現世を理想郷へと変えようじゃないか!」
その刹那、僕の脳裏にはレイナの声が響いていた。
『自然よりも芸術の方が美しく描かれているから、自然を芸術へと寄せる必要がある、と彼は言ったのさ。だが、これは、傲慢な考えだよ……』
―ああ、そうだ。現実に変わる世界なんて存在しない、いや、存在しちゃいけない。
僕は痛みに悶え、苦しみながらも、力を振り絞って立ち上がった。
「紅陽、いや、『サタン』、それは間違っているよ」
「何?」
「絵画の世界は確かに美しい。でも、僕は感じたんだ。その世界では、人が人として生きることはできない」
「貴様は何を言っている? 現世は苦しみに満ち、理不尽に満ち、理想的な世界ではないのだぞ!」
「ああ、そうさ。『安っぽい幸福と、高められた苦悩と、どちらがいいか?』」
「っ!」
紅陽は後退り、僕の目には逃げ帰るヘビのように小さく見えた。
「与えられた幸せを享受するだけの世界なんて、それこそ退屈な世界だよ」
僕がそう言い放つと
「よく言ったね、君。それこそが人の本質さ。」
物陰から聞き覚えのあるあの美麗な声が聞こえてきた。
「『サタン』、でしゃばるのはやめてくれないかな?」
「レイナ!」
物陰から現れてくるレイナの姿が段々と輪郭を顕にしてくるのが分かった。ローブには返り血かと思ったが、赤色ではない、鮮やかな色彩がべっとりと塗りつけられていた。
「貴様は……『ジャネット』! ネズミが! あれでも仕留めきれんとは、この死に損ないが!」
紅陽は狂ったように喚き立てた後、手を前にかざして何やらつぶやいていた。
「なんとでも言うがいいさ。フフ、そこまで言われたらむしろ褒め言葉だね」
調子の変わらないレイナの様子は、とても頼もしく、彼女の瞳が鋭く紅陽を刺していた。
「図に乗るなよ……! まだ話は終わっていない」
少し間を置いてから、彼女は紅陽をじっと見て僕に忠告した。
「サトル君、今から現れるものは凝視しない方がいい」
レイナがそう言い終えると、紅陽の前に歪な形の額縁が虚空からにじみ出るように現れた。
「え?」と、僕が言い返す隙もなく現れたそれ見ただけで僕は深い絶望に襲われ、腹部の痛みも相まってか全身の力が急に抜けた。
「サトル君……!」
「星辰は満ちた! 神の身でありながら恐れを抱き、神の身であるが故に強大な力に溺れし狂気の神よ! その悉くを誇示し、世に知らしめるがよい! 『我が子を喰らうサトゥルヌス』!」
額縁の中から外の世界を覆い尽くすかのような巨大な手が伸び、レイナを今にも掴まんとしていた。
「レイナ、危ない……!」
僕はレイナの方へ手を伸ばしてそう言ったが、かすれた声はレイナに届いたか分からなかった。
すると、レイナがこちらを見てやさしく微笑み、すぐに額縁の方へ顔を向き直した。
「なるほど、そうきたか……ならば、こちらは自然主義といこう。あははは、私の切り札と相性最悪じゃないか、『サタン』……!」
そう言って快活に笑い、さきほど紅陽がやっていたように手を前にかざして呪文を唱え始めた。
「その土地に光はなかった。」
時が止まったかのように周囲が急に静まり返り、彼女の口調は「凪」を想起させるとても落ち着きのある声色へと一変していた。その表情は悲哀に満ちていた。
「神の祝福はなく、病は蔓延り、人々は苦悶の叫びを挙げていた」
すると、神社の全域が春のやわらかな日差しのようなやさしい光に包まれ、彼女はこう続けた
「しかし、月明かりは平等に世界を照らし、艱難辛苦を浄化するだろう……『ドルトレヒトの月明かり』」
さきほどの光が包まれるようにして一点に集中し、暗闇に世界が覆われたと感じた刹那、月明かりが天高く僕たちを照らした。足元には川が流れ、空中の雨粒と反射するのも相まって、幻想的な風景を映し出していた。
腹部の痛みも忘れて僕は魅入っていた。
「ああ、綺麗じゃないか。これが、君のお父さんが愛した風景さ。」
レイナ自身も恍惚とした表情を浮かべており、その様子が月明かりに照らされて彼女自身が情景の中に入り込んでしまいそうなほど調和していた風景だった。
「そろそろ終わりだね。」
そう呟くと周囲が公園の風景へと戻った。紅陽の姿は人の姿へと戻り、彼の前の額縁は灰と化していた。
すでに雨は止んでいて、朝日が遠い山脈から顔を出そうとしていた。
「……今の私では分が悪いようだな。だが、小僧、覚えておくことだ。幸福とは、貴様が思っている以上に壮麗なものではないということを。」
その言葉には、敗者の言葉とは思えない妙な重みがあった。
「ああ、まずいな。まだアイツを逃す訳にはいかないのに……」
そう呟き、全身の力が抜けたようにレイナが地面へと倒れ込んだ。レイナの視線の先を見ると、遥か遠方の空を飛ぶ紅陽の姿があった。
「レイナっ……!」
今にも意識は遠のきそうであったが、なんとか自分を鼓舞してレイナの方へ四つん這いで向かった。
「私は大丈夫さ。君の方が重症だよ。見るも無様な姿じゃないか」
余裕な言葉とは裏腹に、その口調は弱々しかった。
僕はなんとかレイナの手が届く場所まで辿り着いたが、もう意識が無くなり始めていた。
「二人してここで力尽きるとはね……ああ、そうだ。まだ残りがあったんだった。……」
レイナがそう言って筆のような物を懐から取り出すと、僕とレイナの周りはぼんやりとした光に包まれた。
それを事切れに、僕の意識はゆっくりと眠りに落ちるように消えていった。




