19.与えあう2人・海と空
卵の殻が付いた青年はもうそこにはいなかった。実力派アイドルと言っても過言ではない姿がそこにある。
私がデビューメンバーには居ないと分かっても、朝との練習会は続いていた。
祈織のキレのあるダンスとも、結の優雅なダンスとも違う、朝だけのダンス。この短い期間だけで、自分のダンスを作り上げた彼の努力に、純粋に感動する。
「今日で、教育係もお役御免かな」
「……薫クンはずっと俺の師匠っすよ」
私の自虐的な発言にも朝は律儀に返してくる。
朝はずっと私のことを慮ってくれる。他のメンバーとは違うまっすぐな態度は、いじらしくて愛おしかった。
「――クン、薫クン?」
「っは。あぁ、ごめん。ボーっとしてた」
朝に触られそうになった寸前で、私はボーっとしていた意識を現実に取り戻した。私は朝の手を宙で遮り、そっと距離を取る。
「ホントごめん。……今日はもう切り上げようーー朝?」
今度は朝が何かを考える様にうつむいてこちらを無視し始めた。
お、怒らせてしまっただろうか。
私が朝の顔の前で手をひらひらと振っていると、今度は朝がその手をつかみ、ぐいんと顔を上げる。
「薫クン、海に行きましょう」
「はい?」
「ほら! 準備して!」
何かを思い立った朝に引きずられるようにして、私達は近くの海に向かった。出発したのは昼下がりだったが、海に着いたのは夕方であった。
秋の海はザザーンと満ち引きする波の音が、心地いいリズムを刻んでいる。
「……俺、嫌なことがあると海来るんっすよね。元カノに降られた時も、オーディションの公開レッスンで叱られてへこんだ時も、海に来ました」
「初めて知った。……でもわかる気がする。海の満ち引きっていいよね。落ち着く。フラットになれる気がする」
「そうでしょ? 俺タオル持ってきてるんで、ちょっとだけ足付けましょ」
朝はニコッと笑うと、そのまま私の手をひいた。
もし転んで水浸しになったら女だとバレるかもしれない、そんな考えが脳裏によぎるが、私は朝の手にひかれるまま、足を踏み出した。
「冷たっ」
「ははっ、もう秋っすねぇ」
足元で海水がぴちゃぷちゃと音を立てる。波と共に砂がさらさらと足を撫でる。足は冷たかったが、私の手首を握る朝の掌は温かかった。
「……」
「アイドル、辞めちゃうんすね」
その言葉は、引き留めでも何でもなく、ただの感想のような色合いだった。
「俺にとってのアイドルという概念そのものみたいな薫クンが、デビューできないなんて世の中上手くいかないっすね」
「……僕は報われている方だよ」
これは心の底からそうだと思う。
理想のアイドルになれなかった私に、社長はやり直しの機会を与えてくれた。
異物だった私をAioonは受け入れてくれた。
文句なんて一つもない。
「前に、俺には俺のアイドル観を持って欲しいって、薫クン言ってたっすよね?」
「うん、そうだね」
「俺、決めたよ。……俺は、俺を好きな人を裏切らないアイドルになりたい」
身につまされる思いだった。私は私を好きになってくれた人を裏切るアイドルだ。でも、その言葉が私に対する皮肉ではないことは、私が一番わかっていた。朝は私を傷つけない。そんな傲慢な考えがどこかにあった。
「薫クンが言ってたみたいに、これから俺は誰かを好きになるかもしれない。でも、ファンの人を傷つけたくない。客観的に愛される、ファンの人を愛すアイドルになりたい、そう、思う」
あぁ、彼にはぴったりだ。愛し愛されるアイドル。
どんなに好きな漫画でもドラマでも、自分の想像通りにはならない。好きなキャラが死んだり、クソみたいな展開になったりする。でも今だけは、自分の想像のままに物語が進んでいくような、そんな浮遊感があった。
朝はぎゅっと私の手を握ると、優しい顔で微笑んだ。
「だから、残りの時間、アイドルの事を全力で俺に全部教えてください。俺、全部吸収するから」
「……僕は自分の理想に走って、ファンの人には優しくないアイドルだと思う。そんな僕が師匠でいいの」
「あー、まぁ、言いたいことは分かるっすけど……でもやっぱり、俺のアイドル師匠は桃井薫ただひとりっすよ」
その目は私を捉えて離さなかった。暗い黒に浮かぶ熱が、私を内から焦がすように光っている。
「どうしてそんなに、優しいの? 僕はみんなに、大事な事を黙ってたのに」
「何言ってんすか?」
心の底から「何を言っているのか」という表情で朝は笑うと、ポンポンと私の頭を撫でる。
「薫クンが俺達に優しくしてくれたから、俺達の事真剣に考えてくれているから、俺達も優しくしたいんすよ。たとえそれが、薫クンの理想の為でもね。表がよければ何でもいいんすよ」
「言葉の裏なんてどうせ見えないんだし」そう呟いた、朝の表情はとても大人びていた。
私はずっと、朝のことを子供のように、弟のように感じていた。彼を一から支えてアイドルにする、そんな使命感があった。でも実際に支えられたのは、私の方だったのかもしれない。「朝の教育係」という大義名分があったからこそ、私は折れずにここまで来れた。
私たちは夕日が沈み切るまでその海にいた。オレンジ色の夕陽が青色や紫色と混ざっていき、夜の闇に変わる。このまま夕方の海に溶けてしまいたいと思ったが、私の手はしっかりと朝に握られていた。
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