18.置いて行く2人・金木犀の香り
「チケットがあるんだけど、一緒に行かない?」と結に舞台に誘われたのは、今後のことも考えて仕事が抑えられていた私の、久しぶりの撮影の後だった。
特に予定はなかったので、私は結の提案に頷く。
会場へ向かう道のりは、寂しいものだった。秋の初めのぬるい風が通りに吹き付けられる。風が顔に当たるたび、体がゾワゾワとする感覚を耐えた。
私は結に気を使われているのかもしれない。
優しさを嬉しいと思うと同時に、その優しさは、やけど跡を押さえつけるような痛みがあった。
結は私がデビューできないと聞いた後、次のように述べた。
「俺、薫がデビューできないって聞いた時、どこか納得したんだよね」
「え?」
「西園寺演劇学校でさ、才能あるのに去っていくやつはよく見ていたから……。そいつと薫は、雰囲気がよく似てた」
結は形の良い眉を八の字に曲げると、悲しげな声で呟く。
「俺が西園寺に入った……舞台俳優になりたいって思った理由の話って、したことあったっけ?」
「えっ? いや、アイドルに転向した理由は聞いたけどーー」
「そっか」
それまで私のことを見つめていた結の瞳は、そっと外され、虚空を見つめた。
「従妹のお姉さんの紹介で子供劇団に参加したのが一番始まり。そこで、舞台の楽しさを知って、ずっと舞台に立っていたいって思ったんだ。アイドルになってからも、舞台やステージはずっと、俺の一番楽しい場所なんだ。……でも、みんなにとっては違うんだよなぁ」
それ以降、結は私について触れることはなかった。
× × ×
舞台は素晴らしいものだった。
寂しい男が、とある日記帳を拾う。彼は何を思ったか、それを交番に届けず、日記に記された日々を辿っていく。その中で、彼は不思議な出来事に遭いながら、自分の人生を見つめ直す。そんな内容であった。
舞台後、近くのカフェで舞台の感想を告げあう。
感想が一通りできった後、結は何かを考えるかのように天を仰ぎながら口を開いた。
「あの主役、俺の同期なんだ。西園寺演劇学校の首席」
「え!? だからあんなにうまかったんだ……」
「うん。復帰作のはずだけど、ブランクを感じさせなかったね」
「復帰作?」
怪我か何かでもしていたんだろうか。何はともあれその俳優は、暫く舞台から去っていたことはみじんも感じさせなかった。
「あいつは西園寺演劇学校卒業後、西園寺歌劇団に進まず、大学進学したんだ」
「え?」
「才能も実力もあったのにな。『狭い西園寺じゃなくて、別の道も見てみたい』だってさ。西園寺歌劇ってみんなが羨む一流の舞台なのに、それが、アイツには“狭い”んだよ。俺にはいつだって重かったのに」
先ほどまで見ていた主役の思わぬ経歴と憎々し気に呟く結の態度に、私はギョッとする。
結が誰かに対し、こんな風に苦言を告げるだなんて、思いもしなかった。
「あいつは結局、ステージに戻って来た。ステージ上の快楽を忘れられなかったんだ。でも、この日本で西園寺より“上”の舞台は数えるほどしかない。……あいつはこれで満足なのかな」
「……」
「薫はさ、ステージを忘れられるの?」
それは優しくとも非情な問いかけであった。
忘れられるはずがない。ずっと恋焦がれている場所なのに。でも、終わることも私のアイドルとしての美学だ。現実的にも、理想としても、終わらなければならない。
私が黙り込んでいたからか、返答を待たずに結は話始める。
「あんなに薫に心酔している社長なんだからさ、活動に制限をかけながら、なんとかうまくやれないの? アイドルも働き方改革! みたいな……」
「……ごめん」
「いや、うん。……そっか」
いつも爽やかな結の声は、痛ましげに歪んでいた。顔を見ることができず、私は足元に視線を落とす。
まさか、こんなに引き留められるとは思わなかった。
結は爽やかで、そのままカラッとした性格だと思っていた。西園寺歌劇という競争社会の中で育ち、そこでの経験から冷静に見捨てることができる。そんな性格だと思っていた。
私は結のことを見れていなかったのか。いや、今になって結がさらけ出してくれたのか。
「俺さ、ずっとステージ上に居たいんだ。でも、薫は違うよね。ステージ上の刹那的な物語に憧れている」
「そう、かもしれない、ね」
「俺とは違う。……でもそんな君が羨ましい」
結はそう言ったかと思うと、机の上で遊ばせていた私の手をぐっと引き寄せた。私は体勢を崩しそうになったため抵抗したが、結の拘束が緩むことはなかった。
結に引き寄せられた片手に、熱い息が触れる。
「俺はね、アイツがステージ上から去る時も、戻ってきたときも許せなかった。……でも、薫なら許せるよ。ステージ上から去ることも、これから戻りたいって言っても、全てを許す」
「……結?」
「やっとわかった。俺はステージをないがしろにされてるって思って、それが嫌だったんだ。俺の愛するステージがまるで通過点のように扱われるのが嫌だった。だから、薫のことが嫌いだった」
「!」
結は今にでも泣き出しそうだった。いや、潤んでいたのは私の目の方だったかもしれない。熱い何かが鼻の奥を刺す。
「でも違った。薫にとってステージは通過点じゃあない。……終着点なんだよね」
「それはーー」
「そこは俺とおんなじだよ。ステージが好きで最後の場所にしたいって思ってる」
自分で言葉にして考えたことはなかったが、それは図星のような気がした。
女性アイドルは寿命が短い。だからいつも終わりを夢想していた。でも、その先を考えたことはない。中にはアイドル卒業後に本当のゴールがある子もいたのに、私は“アイドル”がゴールだった。
終わりを夢見るということは、次を見ていないともいえる。
「次があるならともかく、終わりなら引き伸ばしてもいいじゃん! どうして、そんなに死に急ぐんだ!」
結の声が段々と大きくなる。ガンっと鈍器で殴られたような感覚と共に、この問答を誰かに聞かれたらどうしようというどうでもいい心配が、胸中を虫喰う。
私は綺麗に死にたかった。アイドルとして早く綺麗に死にたかった。だって、それが私の中のアイドルとしての美学だったから。
それが、結には伝わっていたのかもしれない。
結はギリギリと歯をかみしめ顔を歪めていたが、段々と穏やかな表情に変化していった。そこでやっと私の手を開放し、コーヒーに口を付ける。そして静かに口を開く。
「でもね、俺は君がどんな決断をしても許す。そう決めたんだ」
私は許されたかったんだろうか。分からない。
でも、結の言葉は私の欲しいものだったような気がした。
返す言葉を見つけられない私を、結は“許して”くれた。
帰り道はどこか寂しい。引き返せない呪縛が、影を這う。
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