第9話 雪の前に通せ
「急いで! 第三倉庫の塩は一番奥へ積み上げて! 手前の搬入スペースには、次の便で届く薬品の木箱を入れるから空けておいてちょうだい!」
十月上旬。吐く息が白く染まり始めたリース伯領の中継倉庫群の前で、私は声を張り上げていた。
安価な大量輸送を可能にする主路、「レヴィン高地峠」が雪崩の危険で閉鎖される十月十六日まで、残された時間はわずかしかない。
この冬前の駆け込み需要に合わせ、王都側からかつてない規模の大型荷馬車隊が北を目指して押し寄せていた。これを一つ残らず捌き切り、雪に閉ざされる北境の市場へ越冬用の物資を届けることが、今の私たちの至上命題だった。
「ヴィクトリア様、西の街道から来る第七便、予定より二時間遅れています! このままでは第五倉庫の荷出しと重なって渋滞が起きます!」
「第七便の積み荷は麻袋の穀物ね。でしたら、第二倉庫の裏口を開放してそちらへ迂回させて。検品は荷を下ろした後、トーマスに一括でやらせます。荷馬車は一秒でも早く空にして、折り返しの街道へ戻らせなさい」
「はい、承知いたしました!」
王都から移住してきたエレナが、私の指示を素早くメモに書き留め、現場の作業員たちへ走っていく。同じく移住組のトーマスも、帳簿とストップウォッチを片手に、倉庫の回転率を分単位で見張っていた。
彼ら有能な実務官が私の手足となって動いてくれるおかげで、書類と手続きの滞りは一切なくなっていた。
皆が出発する車列を見送る中、オズワルドだけは、仕事を待つ小さな馬車の方へ目を向けていた。
だが、どれほど完璧な計画を立てても、馬車が通る「物理的な道」が崩れればすべては無に帰す。
『――左の車輪がぬかるみにはまった! 馬を叩け!』
『馬を休ませろ! 無理に引かせれば脚を折るぞ!』
遠く街道の方から、御者たちの焦燥に駆られた声が響いてくる。
その混乱を切り裂くように、力強い号令が響き渡った。
「慌てるな! 第三小隊、荷台の左側に板を噛ませろ! 第二小隊は牽引用の軍馬を二頭追加して前へ繋げ。掛け声と同時に引き抜くぞ!」
漆黒の軍服の上に防寒着を羽織ったレオンハルト辺境伯が、馬上から的確な指示を飛ばしていた。
彼は国境軍の工兵部隊を動員し、傷んだ街道の応急補修をその場で行いながら、荷馬車の車列を先導していた。護衛兵のローテーションも彼が完璧に組んでいるため、夜間であっても馬車は安全に進み続けることができる。
私が「どの荷を、どの順番で、どの倉庫に入れるか」という手続きを最適化し、彼が「馬車をいかに止めずに進ませるか」という現場の障害を排除していく。
私たちは言葉を交わす暇すらほとんどなかったが、互いの動向を把握し、絶妙な連携でこの巨大な物流の塊を前へ前へと押し進めていた。
*
十月十二日、夜明け前。
高地峠の最終通行日、十五日まであと三日。
北境の防衛拠点でもあるヴァルグレン辺境伯領の市場に、最後にして最大の荷馬車隊が到着した。
ずらりと並んだ三十台の大型馬車から、次々と荷下ろしが始まる。分厚い麻布のカバーが外されると、そこには大量の岩塩の樽、乾燥豆の袋、そして丁寧に木箱に詰められた冬用の薬品が姿を現した。
「おお……! これほど良質な塩が、雪の前にこんなに届くなんて!」
「薬もあるぞ! これで今年の冬は、熱病が出ても子どもたちを救える!」
荷降ろしの様子を囲んでいた地元の商人や領民たちから、歓声が上がった。
厳しい北の冬を越すために不可欠な物資が、平年よりも安く、大量に届いたのだ。彼らの安堵と喜びに満ちた顔を見て、私はふっと肩の力を抜いた。
王宮で調整官をしていた頃、私がいくら予算を通しても、現場の民が喜ぶ顔を見ることは一度もなかった。私の労働は常に「問題が起きないこと」でしか評価されず、ただ書類の山を右から左へ移すだけの虚無感に包まれていた。
けれど今は違う。
私の引いた計画の線が、彼らの生活を、そして命を確実に温めている。その手応えが、今の私にはあった。
「ヴィクトリア様、これが最後の便の検品書です。サインをお願いします」
徹夜で作業を続けていたトーマスが、幾分か誇らしげな顔で書類板を差し出してきた。
夜明け前。気温は氷点下に近づき、手元のランタンの火が風に揺れている。
「ええ、お疲れ様。確認するわ」
私は手袋を外し、ペンを受け取ろうとした。
だが、長時間寒気に晒されていたせいで、指先がひどくかじかんで感覚がなくなっていた。ペンの軸をうまく握れず、カチャリと音を立てて足元の石畳に落としてしまう。
「あ……ごめんなさい、手が少し」
慌てて屈み込もうとした私の視界を、ふわりと大きな影が覆った。
気がつけば、私の肩に分厚い布の塊が乗せられていた。かすかに土と獣の皮の匂い、そして男の強い体温が残る、分厚い軍用の外套だった。
「……辺境伯、閣下?」
驚いて顔を上げると、いつの間にか傍らに立っていたレオンハルトが、ペンを拾い上げて私に差し出していた。
彼は外套を失い、軍服のシャツと革鎧だけの薄着になっていた。
「ペンだ。……手袋も外さない方がいい」
「ですが、閣下が風邪を引いてしまいます。これは」
私が慌てて外套を返そうとすると、彼は無言で手を出してそれを制した。
「私は、雪山の行軍で寒さには慣れている。君は違うだろう」
「……」
「それに、君がここで倒れれば、この膨大な事後処理をすべて私がやらなければならなくなる。それは御免だからな」
彼はぶっきらぼうにそう言い捨てて、視線を荷下ろしの現場へと逸らした。
その横顔には、王宮の貴族たちが女性を手練手管で扱うような甘さは微塵もなかった。ただ、目の前で「手が冷えている」人間を見過ごせなかったという、不器用で純粋な気遣いだけがあった。
私は彼から受け取ったペンを握り直した。
仕事の成果を褒められたわけではない。有能だから特別扱いされたわけでもない。ただ、冷えた手を案じてくれた。
その事実が、私の内側に名状しがたい戸惑いを生んでいた。
――私は、役に立たなければ必要とされない人間のはずなのに。
肩を包み込む外套から伝わる熱が、ひどく心地悪く、同時に泣きたくなるほど心地よかった。
私は戸惑いを悟られないよう、静かに検品書に『V. Elden』のサインを書き込んだ。
「……終わったな」
書類を受け取ったレオンハルトが、東の空を見上げて呟いた。
稜線から朝日が差し込み、雪化粧を始めた山々を黄金色に染め上げていく。私たちは並んで立ち、自分たちが通した巨大な物資の山と、それに群がる人々の活気を黙って見下ろしていた。
「辺境伯閣下、リース女伯様!」
そこへ、息を弾ませた大商人の一人が駆け寄ってきた。
彼は王都からこの大型便についてきた、中堅商会の主だった。
「見事な差配でした! 道中の野営地の手配から、関所での一括検品、倉庫の回転に至るまで、これほど正確で安全な輸送網は見たことがありません」
商人は興奮冷めやらぬ様子で、深々と頭を下げた。
「今回は高地峠が閉まるため最後となりますが……春になり雪が溶けましたら、ぜひ次便も、この『北ルート』を指定して使わせていただきたい! 我々商会の契約を、真っ先に結ばせてはいただけないでしょうか!」
私とレオンハルトは顔を見合わせた。
それは、単なる緊急輸送の成功ではない。王都の商人たちが、自らの意思で、長期的かつ恒久的な交易路としてこの北の道を選んだ瞬間だった。




