第10話 二つの名を並べる
レヴィン高地峠が本格的な雪に閉ざされる直前。
無事に最大の荷馬車隊を通し終えた朝、王都の大商人から持ちかけられた「春以降の次便も北ルートを使いたい、真っ先に契約を結ばせてほしい」という熱烈な申し出に対し、私は笑顔で感謝を伝えつつも、その場での即答は避けた。
彼らの意欲はありがたい。しかし、越えなければならない法的な壁があった。
「――やはり、個別の領地名義のままでは、大規模な商会と長期契約を結ぶのは不可能ですわ」
数日後。リース領主邸の執務室で、私は頭を抱えていた。
長机には、財務官のトーマスが徹夜で作成してくれた王国法典の交易規則の写しが広げられている。向かいの席には、国境軍の視察を終えて戻ってきたレオンハルト辺境伯が座っていた。
「今回の秋の輸送網は、あくまで私と辺境伯閣下が『緊急措置』として現場で連携したに過ぎません。ですが、春以降にこれを恒久的な交易路として運用し、商会から高額な前払い保証金を受け取るとなれば、法的に責任を負う『事業主体』を明確にする必要があります」
私は手元の書類をペン先で叩いた。
「我がリース伯領の倉庫組合名義にするか、あるいはヴァルグレン辺境伯領の輸送ギルド名義にするか。商務省へ事業主体を登録しなければ、共同名義で前払い保証金を預かれません。今の個別契約による小口輸送は続けられても、春の大口予約は受けられないのです」
「なるほど。だが、どちらか一方の名義にした場合、実務上の弊害が出るな」
レオンハルトは腕を組み、冷静に指摘した。
「ヴァルグレン名義にすれば、倉庫の回転や王都側の商会との折衝に支障が出る。逆にリース名義にすれば、私が国境軍の護衛や除雪隊を動かす際、他領の民間事業へ過剰に軍事力を介入させていると批判される隙を生む」
「ええ、その通りです。ですから、王都の商会と取引するための新しい受け皿となる子会社的なギルドを設立し、そこに……」
私が迂遠な法的手続きを説明しようとした時、レオンハルトが口を挟んだ。
「その必要はない。実態に即して、最も合理的な形にすればいい」
彼はトーマスが用意していた白紙の申請書を一枚手元に引き寄せ、迷いのない手つきでペンを走らせた。
そして、私の目の前にその紙を滑らせた。
「『ヴァルグレン=リース北ルート共同事業』。この名義で、両領地の連名として王都へ認可申請を出す。これなら護衛も商流も、双方の正当な事業内での活動として処理できるはずだ」
紙の最上段には、力強い筆跡で新たな事業名が書き込まれていた。
私はその文字を見つめ、思わず息を呑んだ。
「……閣下。それは、おっしゃる通り最も合理的で、完璧な解決策です。ですが……」
私は言葉を濁し、彼を真っ直ぐに見返した。
「私と名を並べることの『意味』を、ご理解されていますか」
「意味、とは?」
「私は先日、アルベルト王太子殿下から婚約破棄を告げられ、王宮の職を辞して下野した身です。王都のベルク宰相は、私の存在を『旧態依然とした家門支配の象徴』としてひどく嫌悪していました。そんな曰く付きの女と、北境の要である閣下が公に連名で事業書を出せば……」
王宮からどのような目で見られるか、火を見るよりも明らかだった。
エルデン公爵家だけでなく、北境の国境軍までが反体制派に回ったと邪推されかねない。レオンハルト自身が、無用な政治的リスクを背負い込むことになる。
「私の領地を通過する荷の管理ですから、泥を被るのは私一人で十分です。閣下にまで、王都の冷ややかな視線を向けさせるわけにはいきませんわ」
私が真剣な声で警告すると、レオンハルトは小さく鼻で笑った。
「ヴィクトリア。君は一つ勘違いをしている」
彼は深く椅子に背を預け、私の目を真っ向から見据えた。
「私は君を庇うためにこの提案をしているのではない。これはただの事実だ。君の緻密な商流計算と、私の護衛網。どちらか一つでも欠ければ、この北ルートは維持できない。実態が共同事業なのだから、名義もそうするのが一番正しい」
「ですが、王都からの風当たりが――」
「私が負うのは政治的リスクではない。この北ルートという『事業の責任』だ」
彼は大仰に私を庇い立てるような、物語の騎士が口にするような甘い言葉は一切吐かなかった。
ただ、淡々と事実だけを口にした。
「この先、雪崩で道が塞がることも、商会との支払いで揉めることもあるだろう。その時、君一人に責任を押し付けて逃げるような真似を、私がすると思っているのか」
「……」
言葉が出なかった。
王宮での私は、いつでも「切り捨てられる」存在だった。問題が起きないように調整し続けることが私の価値であり、もし何かの間違いで他省庁との調整に失敗すれば、全ての責任を負わされてトカゲの尻尾切りにされる覚悟で働いていた。
だが、目の前の不器用な軍人は違う。
私を「庇護すべき可哀想な令嬢」として守るのではなく、かといって「都合が悪くなれば切り捨てる下請け」にするわけでもない。
事業の成功も失敗も、等しく同じ重さで背負い合う「対等な相棒」として、私を求めてくれている。
「……閣下はずるい方ですね。そんな風に言われてしまえば、断る理由がありませんわ」
私は観念したように微笑み、彼がペンを入れた申請書を手元へ引き寄せた。
「トーマス。この事業名で、商務省宛ての正式な認可申請書を作成してちょうだい。代表者欄は二名連記で」
「はい、承知いたしました。すぐに作成いたします」
部屋の隅で控えていたトーマスが、嬉しそうに口元を綻ばせて作業机へと向かった。
出来上がった清書に、私はリース女伯としての誓約印を押し、自らの名前を署名した。隣に、レオンハルトが辺境伯としての誓約印と署名を並べる。
二つの名が並んだその書類を見た瞬間、私の胸の奥に、かつて感じたことのない種類の確かな温かさが広がった。
寒空の下で外套をかけられた時のような、純粋な安堵感。この人となら、どんな困難な事業でも、決して一人で震えることはないだろうという確信。
私とレオンハルト・ヴァルグレンの繋がりは、ここから正式に始まったのだ。
*
二つの誓約印が押された「ヴァルグレン=リース北ルート共同事業」の恒久認可申請書は、急使の手によって王都アレシアの商務省へと送られた。
書類の不備はなく、法的な要件はすべて満たしている。秋の大型便の成功実績を鑑みれば、認可が下りるのは時間の問題だと、私たちは考えていた。
だが、王都の「政治」は、私たちの純粋な事業計算をあっさりと踏みにじってきた。
申請書を送ってから十日ほど後。
すっかり冬の足音が近づいてきたリース伯領に、王都からの通知が届いた。
書面を受け取ったトーマスの顔は、怒りで微かに蒼白になっていた。
「……ヴィクトリア様。王都の中央政府からの回答です。共同事業の『恒久認可』については、慎重な審議が必要とのことで、期限を定めず【保留】とするそうです」
「保留? 書類に不備はなかったはずよ」
「ええ。ですが、問題はそれに付随する別の通達です」
トーマスは、もう一枚の羊皮紙を無念そうに机に広げた。
「中央は、共同事業の認可を保留にしたまま、北ルートを通過する商流に対する『関税区分の見直し』だけを先に始めると通達してきました。実質的な、当ルートへの標的を絞った大幅な通行税の引き上げです」
私はその通知書を見つめ、静かに目を細めた。
ベルク宰相のやりそうなことだ。私を直接罰する理由がないからこそ、私が育てようとしているこの道そのものの採算を悪化させ、兵糧攻めにして潰そうとしているのだ。




