第11話 読み違えた一軒
十月下旬。リース伯領の執務室は、心地よい活気とインクの匂いに包まれていた。
王都から移住してきたエレナやトーマス、そして職人のマルクたちの働きにより、領内の行政処理や物流網は劇的な進化を遂げていた。私が導入した王都式の一括発注システムや、馬車の稼働率を分単位で管理する配車表は完璧に機能し、倉庫の荷物は滞りなくさばかれていく。
すべてが順調だった。私の弾き出した数字通りに、領地は確実に豊かになっている。
そう、信じて疑わなかった。
「……女伯様。少し、よろしいでしょうか」
書類仕事の波がひと段落した昼下がり。執務室の扉を叩いたのは、地元代官のオズワルドだった。
彼の顔には、いつもの厳格さとは違う、ひどく沈痛な色が張り付いていた。
「どうしたの、オズワルド。南の倉庫で何か問題でも起きた?」
「いいえ、倉庫は順調です。……ですが、東街で荷馬車引きをやっていたハンスの家が、今日で店を畳むことになりました」
「え……?」
私は持っていたペンを止めた。
ハンスといえば、馬車一台と痩せた馬一頭だけで、近隣の村から薪や野菜を運んで生計を立てていた小規模な運送職人だ。
「どうして急に。秋の収穫期で、運ぶ荷はいくらでもあったはずよ」
「女伯様の作られた『新しい配車表』のせいです」
オズワルドは、手元にあった配車表の束を静かに机の上に置いた。
「王都から来たトーマス殿が計算した一括発注と効率的な配車ルートは、たしかに素晴らしい。ですが、その無駄のない帳簿の中に、足の遅いハンスの馬車が入る隙間はありませんでした。元請けの商会は、より速く、より多く運べる移住者たちの大型馬車ばかりを使うようになり……季節雇いで食い繋いでいたハンスは、完全に仕事から弾き出されたのです」
頭を殴られたような衝撃だった。
以前、移住者の採用規則を決めた日、オズワルドが私に言った言葉が蘇る。
――『季節雇いを帳簿上の余剰人員として扱えば、冬前に地元の一軒が潰れる』。
あの時、私は彼らに仕事を回す手立てを考えていたはずだった。だが、全体最適を求めるあまり、結果的に「効率の悪い存在」をシステムから排除してしまっていたのだ。
「……ハンスさんの家へ、案内してちょうだい」
私は立ち上がり、足早に執務室を出た。
*
東街の外れにあるハンスの家は、すでに荷馬車の引き具が外され、商売道具の多くが売り払われた後だった。
私が庭先に姿を見せると、ハンスと彼の妻はひどく驚き、慌てて頭を下げた。
「じょ、女伯様! こんなむさ苦しいところへ、どうなさいました」
「ハンスさん……申し訳ありませんでした」
私は彼らの前で、深く頭を下げた。
「私の見通しが甘かったせいです。領地全体を豊かにしようと焦るあまり、あなたたちのような地元の季節雇用の方々を、数字の枠からこぼれ落としてしまいました。私が、あなたから仕事を奪ってしまったのです」
領主である私が頭を下げる姿に、ハンスはひどく狼狽した。だが、彼は私を罵倒することも、怒り狂うこともなかった。
ただ、ひどく寂しそうに、しわがれた顔で笑ったのだ。
「頭を上げてください、女伯様。女伯様が悪いわけじゃねえんです」
その言葉が、私の胸を鋭く抉った。
「王都から来た若い衆の馬車は、本当に速くて立派だ。俺の痩せ馬じゃ、どう転んでも勝てやしねえ。女伯様が領地を良くしようとしてるのは、俺たちにも分かってます。ただ……俺たちのやり方じゃもう、あの速さには追いつけなくなったってだけでさぁ」
「女伯様が戻ってくださってから、この町は……」
ハンスは口を閉じた。私を見ていた目が、空の馬小屋へ移る。
その柱を、彼は手のひらで一度撫でた。
「馬は良い買い手に引き取られました。俺も、若い衆の手伝いとして日雇いで使ってもらうことになってます。だから、女伯様が気に病むこたぁねえんです」
「……」
私は何も言えなかった。
「女伯様が悪いわけではない」という彼の諦めの言葉は、どんな罵倒よりも痛かった。私が王宮で最も嫌悪していた「数字の論理で現場を切り捨てる」という行為を、私自身が無自覚のうちに行っていたのだ。
今から私が彼に特別に仕事を回すよう命じることはできる。だが、彼が手放してしまった馬と、一国一城の主として荷馬車を引いていた誇りは、もう二度と元には戻らない。
失われた一軒は、私の完全な失敗だった。
*
その日の夕刻。
私は執務室に、オズワルド、地元の運送組合の代表、そしてトーマスら移住者側の代表を集め、公開協議を開いた。
空気は重く、張り詰めていた。
「ハンスの件は、私の完全な失策です。これ以上、王都式の効率化によって地元の生活が壊れることを防ぐため、本日から制度を再設計します」
私が切り出すと、トーマスが眉をひそめて反論した。
「ヴィクトリア様。感情論は理解できますが、非効率な業者を保護すれば、輸送全体のコストが跳ね上がります。それでは王都の商会との大口契約に支障が出ます」
「だからといって、新参者だけで経済を回し、地元民から仕事を奪い続ければどうなるか」
トーマスの正論を遮ったのは、オズワルドだった。彼は決して声を荒げず、淡々と、しかし重みのある声で語った。
「冬になれば、雪かき一つ、道案内一つとっても、地元の助けなしには回らなくなります。効率だけで地元を切り捨てれば、領地は内側から割れる。そうなれば、大口契約どころの話ではありませんぞ、トーマス殿」
オズワルドの言葉は、完璧な「生きた論理」だった。
彼はただ変化を嫌って反対しているのではない。領地という一つの共同体が崩壊するリスクを、誰よりも正確に計算しているのだ。
トーマスもその理屈には反論できず、静かに口を閉ざした。
「オズワルドの言う通りです。私たちは、数字の向こう側にある生活を読み違えていました」
私は立ち上がり、黒板に新しい制度の枠組みを書き込んでいった。
「王都の商会との『大口輸送ルート』は、引き続き移住者と大型馬車を中心とする高効率システムで運用します。しかし、領内の『小口の生活物資』や『薪の運搬』については、地元の季節雇用者を優先的に割り当てる最低保証ラインを設けます。さらに、地元組合からの資材調達比率を一定水準で固定し、移住者の商会が地元徒弟を雇用した場合のみ、税の優遇措置を与えます」
私はオズワルドと組合代表に向き直った。
「失われた一軒を元に戻すことは、私にはできません。ですが、これ以上犠牲は出しません。この条件で、皆さんが共存できる形を作りたいのです」
「……分かりました。その条件であれば、地元組合も納得いたしましょう」
オズワルドが深く頷き、トーマスもまた「採算ラインの計算をやり直します」と同意した。
協議は終わり、出席者たちが静かに退出していく。
一人残された執務室には、すっかり夜の闇が降りていた。
私はランプの火を灯し、冷え切った手で再びペンを握った。
今日から適用する新しい雇用保証の契約書面を、一刻も早く作り上げなければならない。休んでいる暇はない。休めば、また誰かの生活がこぼれ落ちてしまうような気がして、私は自分を罰するように書類の束に向かった。
「まだやっているのか」
ふと、執務室の扉が開いた。
振り返ると、軍服姿のレオンハルトが立っていた。彼は私の目の前の山積みになった書類と、私の青白い顔を一瞥し、小さく息を吐いた。
「協議の結果は聞いた。君は自分の非を認め、最善の修正案を出した。これ以上、自分をすり減らして今日中に片付ける必要はない」
「ですが、私が読み違えたせいで、ハンスさんは……。私がもっと早く気づいていれば」
「気づけなかったから、直したのだろう」
彼は私の手からペンを奪い取ったり、「休め」と命令したりはしなかった。
ただ、少しだけ呆れたような、けれどひどく穏やかな声で言った。
「一時間後でどうだ。……私に、夕食の時間をくれないか」




