第12話 夕食を先に予定へ入れる
「……私に、夕食の時間をくれないか」
夜の帳が完全に下りたリース伯領の執務室。
ランプの灯りの中、山積みの書類に向かっていた私は、入り口に立つレオンハルト辺境伯の不意の言葉に目を瞬かせた。
彼からの、仕事抜きの誘い。
嬉しくないわけがなかった。昼間の公開協議を経て、私は自分の失策にひどく打ちのめされていた。誰かの温かい声を聞きたいという弱音が、心の奥底で小さく首をもたげていたのも事実だ。
だが、私の目は無意識のうちに、書きかけの雇用保証契約書へと戻ってしまった。
「お誘いは嬉しいのですが……この、地元組合との調達比率を定める契約書の修正が終わってからでもよろしいでしょうか。明日からすぐに運用しなければならないものですから」
王太子府で六年間染み付いた思考回路だった。
仕事が終わるまでが仕事。すべての不安要素を書類の上で叩き潰すまでは、食事も睡眠も後回しにするのが私の――いや、王宮で生き残るための「当たり前」だった。
レオンハルトは私の言葉を聞いても、呆れもしなければ「休め」と命令してペンを取り上げるような真似もしなかった。
彼はゆっくりと私の机に近づくと、契約書の束の横に置かれていた、私の分刻みの予定表を引き寄せた。
「ヴィクトリア」
「はい」
「仕事が終わってから行くのではない」
彼はインク壺から羽ペンを取り、予定表の現在の時刻から一時間後の枠に、力強い筆跡で『夕食』と書き込んだ。
「食べる時間までに、今日の仕事をそこで切るんだ。そうしなければ、君は永遠に書類を探し続けて倒れるぞ」
「……あ」
目から鱗が落ちるような感覚だった。
私は常に「やるべきタスク」を積み上げ、それがゼロになるまで机に張り付いていた。だが彼は違う。「終わりの時間」を先に物理的に配置し、そこまでに終わるようにタスクの優先順位を組み替えるのだ。
「なるほど……。時間を先に予定へ入れる。極めて合理的ですわ」
「ああ。君の優秀な頭脳なら、一時間あればその契約書の急所だけは修正できるだろう? 残りの体裁は明日の朝、エレナにでも清書させればいい」
彼はそう言って、予定表を私の手元へ戻した。
私は彼が書き込んだ『夕食』という二文字を見つめ、ふっと肩の力を抜いた。
「分かりましたわ。では、一時間だけお待ちいただけますか」
「かまわない。下のホールで待っている」
レオンハルトは小さく頷き、扉の向こうへ消えた。
私は残された一時間で、雇用保証の最低ラインと地元徒弟枠の数字という「絶対に動かせない核」の部分だけを書き上げ、ペンを置いた。
*
一時間後。
私たちが向かったのは、領主邸から少し歩いた街角にある、新しく再開したばかりの共同食堂だった。
扉を開けると、むせ返るような熱気と、肉を煮込む香ばしい匂いが押し寄せてきた。今日は食堂の再開祝いがささやかに行われているらしく、広い土間には長机がいくつも並べられ、大勢の人々がジョッキを片手に声を張り上げている。
驚いたことに、そこには昼間の公開協議で激しく意見をぶつけ合っていたはずの地元民と、王都からの移住者たちが、同じ卓を囲んで笑い合っていた。
「……よかった。喧嘩にはなっていないようですね」
「昼間に君が『境界線』を明確に引いたからな。奪われる不安がなくなれば、人は隣人を歓迎できるものだ」
レオンハルトの言う通りだった。
地元徒弟の優先枠や季節雇用保証というルールが設定されたことで、地元民は移住者を「仕事を奪うよそ者」ではなく「新しい知識を持った同僚」として受け入れ始めていた。
「ヴィクトリア様! 辺境伯の旦那も!」
人混みを掻き分けて駆け寄ってきたのは、王都から移住してきた職人のマルクだった。彼の手には、半分ほど空になったエール酒のジョッキと、何やら紙切れが握られている。
彼は少し赤ら顔で、大事そうにその紙切れを私の目の前に突き出した。
「見てくだせぇ、これ! 今日、関所へ納品した荷馬車の車輪の納品票です!」
油染みのついたその紙の末尾には、不器用だが力強い文字で『製作者:マルク』とはっきりと記されていた。
「俺の名前で作った車輪が、今日初めて街道を走ったんでさぁ。王都の商会にいた頃は、何百個作っても俺の名前が紙に残ることなんてなかった。……この紙切れ一枚で、酒が何杯でも飲めそうですぜ」
マルクの満面の笑みを見て、私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
昼間、ハンスさんの一軒を潰してしまった後悔で、私の心は黒く塗りつぶされそうになっていた。だが、私の作った制度は人を傷つけるだけでなく、こうして誰かの誇りを守ることもできているのだ。
「ええ、素晴らしい仕事ですわ、マルクさん。あなたの車輪のおかげで、厳しい冬道でも物資が安全に届きます。これからも頼りにしていますよ」
「おうさ! 任せてくだせぇ!」
マルクは上機嫌で踵を返し、地元の職人たちが固まっている卓へと戻っていった。彼らは納品票を回し見ながら、また大きな歓声を上げている。
「君の仕事は、ちゃんとここにある」
隣を歩くレオンハルトが、ポツリとこぼした。
私は彼を見上げ、深く頷いた。
食堂の奥の席に座り、私たちは木皿にたっぷりと盛られた鹿肉のシチューと、固いが麦の甘みが強い黒パンをいただいた。
王宮の夜会で供されていた、金糸の刺繍が施されたテーブルクロスの上に乗る、美しくも冷え切ったフルコースとは対極にある食事だ。
だが、この素朴なシチューからは、確かな温度と活力が伝わってくる。
「……味はどうだ。王都の貴族の口には合わないか?」
「とんでもない。今まで食べたどんな料理よりも、血肉になる気がしますわ」
私が答えると、レオンハルトは満足そうに口元を綻ばせ、自分のシチューに口をつけた。
彼は、今日の仕事の進捗や、先ほどの契約書の細かい数字については一切尋ねてこなかった。ただ、隣に座り、食事の時間を共有している。
私はふと、不思議な感覚に陥った。
王宮での私は、常に「有能な政策調整官」でなければならなかった。気の利いた政治の話題を提供し、誰かの失言をフォローし、有用な情報を提示し続けなければ、アルベルト殿下の隣に座っている意味がないと信じ込んでいた。
だが今、私はただ黙って黒パンをちぎり、シチューに浸して食べている。何の成果も出していない。何の役にも立っていない。
それでも、彼は私の扱いを変えなかった。ただそこにいて、同じものを食べている時間を、当然のように許容してくれている。
それは私にとって、初めて知る強烈な安らぎだった。
「……そういえば、薪の減りがずいぶん早いですね」
食後。温かいお茶を飲みながら窓の外を眺めていた私は、食堂の裏手に高く積まれていたはずの薪の山が、予想以上に低くなっていることに気がついた。
ふと周囲の会話に耳を澄ませてみる。
『王都からの移住者がまた増えるらしいぜ。空き家を改修する木材が足りねぇよ』
『今年の冬は寒くなりそうだ。共同食堂の薪も、もう少し多めに調達しておかねぇとな』
領民たちの何気ない雑談が、私の頭の中で瞬時に数字へと変換されていく。
――移住者の増加ペースが想定の1・2倍。それに伴う空き家改修用の建材需要の急増。さらに、例年よりも冷え込みが厳しいことによる薪の消費量増大。
私の脳内で、警鐘が鳴り響いた。
このままの消費ペースでは、冬の半ばで確実に薪と改修材が枯渇する。移住者たちを凍えさせないためには、至急、木材の調達ルートを見直す必要があった。
「おや、領主様じゃないか。こんな所で油を売っていていいのかい?」
私が新たな物流課題の計算に没頭しそうになったその時、背中をバンと力強く叩かれた。
振り返ると、かっぷくの良い、快活そうな中年女性が立っていた。レオンハルトの叔母であり、ヴァルグレン辺境伯領の家政や学校、救護施設の運営を一手に引き受けているクララ・ヴァルグレンだった。
「クララ様。ごきげんよう」
「堅苦しい挨拶は抜きさ。それにしても、あんたは本当に真面目だねえ。せっかくの美味しい食事の後に、また眉間に皺を寄せて難しい数字の計算かい?」
クララはからかうように笑いながら、手にしていたバインダーを私の目の前に突き出した。
「ほら、明日は領内の秋祭りだ。子どもたちも楽しみにしている。あんたの名前も、手伝い名簿にしっかり書き込んでおいたからね」
見れば、菓子作りの手伝いの欄に『ヴィクトリア』と大きく書き込まれている。
「えっ……あの、私、明日は午前中から木材組合と調達の協議が……」
「駄目駄目。領主様だって、たまには役に立たない時間を過ごして息抜きしなきゃ、領民が息苦しくてしょうがないよ。レオ、あんたも明日はいっさい仕事をさせるんじゃないよ!」
クララは甥であるレオンハルトをビシッと指差し、嵐のように去っていった。
私はぽかんとして、彼女の背中と名簿を交互に見比べた。
隣で、レオンハルトが肩を揺らして低く笑っている。
「叔母に睨まれては仕方がない。明日の午後は、素直に子どもたちの相手をしてやってくれ。木材の協議は午前中だけで切り上げるんだな」
彼の言葉に、私は深くため息をつきながらも、どこか口元が綻ぶのを止められなかった。
――だが、薪の残量の計算だけは、明日の朝までに絶対に終わらせなければ。




