第13話 役に立たない午後
リース伯領の秋祭りの朝。
私は夜明けと共に執務室に入り、午前中のうちに地元木材組合の代表たちとの調達協議を終わらせていた。移住者の急増に伴う空き家改修材と、冬に向けた薪の追加発注。なんとか新たな伐採枠の許可と供給ルートを確保し、机の上の書類を綺麗に片付けたところだった。
午後からの配車表の確認に移ろうと、新しいインク瓶の蓋を開けたその瞬間である。
「はい、そこまで! 午前中でおしまいって約束しただろう?」
執務室の扉を勢いよく開け放ち、クララ様がずかずかと踏み込んできた。彼女は私の手から羽ペンを鮮やかに奪い取ると、インク瓶の蓋をピシャリと閉めた。
「ちょっと、クララ様。あと少しで明日の荷車の配分が……」
「明日のことは明日やればいいの。さあ、立って立って! 領主様がいつまでも陰気な部屋にこもっていたら、祭りの空気が悪くなるよ。ほら、着替えも持ってきたからね」
有無を言わさぬ勢いで、私は執務室の奥の控室へと押し込まれた。
用意されていたのは、普段私が着ているような威厳のある領主のドレスではない。濃紺の分厚い綿布で作られた、動きやすさを重視した素朴な秋物のワンピースだった。
クララ様に手早く着付けられ、長い髪も邪魔にならないようにリボンで一つにまとめられる。鏡に映った自分の姿は、どこからどう見ても、街のパン屋か花屋の娘だった。
「うん、よく似合ってる。さあ、広場へ行くよ!」
領主邸の前の大広場は、すでにお祭りの熱気に包まれていた。
立ち並ぶ屋台からは串焼きや甘い果実酒の匂いが漂い、移住者と地元民が肩を組んで楽団の演奏に合わせて踊っている。
私はクララ様に手を引かれるまま、広場の中心に設営された大きな調理用天幕へと連れて行かれた。そこでは、領内の子どもたちと母親たちが、祭りで配るための焼き菓子の生地を捏ねていた。
「ヴィクトリア様だ!」
「女伯様も一緒にお菓子作るの?」
子どもたちが目を輝かせて駆け寄ってくる。王都にいた頃、私が泥まみれの子どもに触れようものなら、護衛の騎士が飛んできて引き剥がしただろう。だが、ここでは誰も私を特別扱いしない。
「え、ええ。でも私、お菓子なんて作ったことが……」
「簡単だよ! こうやって、お水と粉を混ぜて丸めるだけ!」
六つになる女の子が、粉だらけの小さな手を私の手に重ねてきた。
言われるがままにボウルに手を突っ込み、冷たい生地を捏ね始める。周囲からは笑い声が絶えず、誰も私に決裁印を求めたり、予算の承認を迫ったりはしない。
ただ、粉を捏ね、丸め、オーブンへ運ぶ。
楽しい時間だった。平和で、温かくて、何の対立もない。
――けれど。
「(……東街の倉庫の屋根、改修は間に合ったかしら。それから、明日の馬車の護衛シフトは……)」
生地を丸めながら、私の頭の片隅では無意識のうちに仕事の算段が始まっていた。
ふと手が空くと、何か他にやるべき書類はないかと周囲を見回してしまう。誰かが少し大きな声を出せば、揉め事の調整に入らなければと腰を浮かせてしまう。
役に立つことをしていないと、どうにも落ち着かないのだ。自分がただ「そこにいるだけ」で許されるという感覚に、私はどうしても慣れることができなかった。
「……随分と、落ち着きがないな」
天幕の入り口から、低く落ち着いた声がした。
顔を上げると、そこに立っていたのはレオンハルトだった。
思わず目を丸くしてしまった。今日の彼は、いつもの漆黒の軍服や重い革鎧を身につけていない。上質な亜麻のシャツの上に、シンプルな濃茶の革の外套を羽織っただけの、完全な私服姿だった。
鍛え抜かれた体躯はそのままだが、軍人特有の威圧感が抜け、一人の精悍な青年としての空気を纏っている。
「辺境伯、閣下……」
「ストップ!」
私が思わず役職名で呼ぼうとすると、横からクララ様が木べらを持って割って入ってきた。
「今日は無礼講の秋祭り! 仕事の話も、『閣下』だの『女伯様』だのという堅苦しい呼び方も禁止! 破った奴には、この天幕の粉掃除を全部一人でやってもらうからね!」
「……だそうだ。手厳しいな」
レオンハルトは苦笑して肩をすくめた。
クララ様は私を天幕の外へと押し出すと、ドンと背中を叩いた。
「さあさあ、お菓子作りはもう十分だよ。後は若い二人で、屋台でも冷やかしておいで。あんたたち、ただでさえ働き詰めなんだから、今日くらい何もしない時間を楽しみな」
そうして、私は粉まみれの手をエプロンで拭いながら、私服姿のレオンハルトと二人で広場を歩くことになった。
ざわめきと音楽に包まれた中、私たちは少しだけ距離を空けて並んで歩いた。
「……なんだか、奇妙な気分ですわ。あなたと一緒に歩いているのに、護衛の数も、積荷の重量も気にしなくていいなんて」
「私もだ。どうにも手持ち無沙汰で、腰の剣に手がいきそうになる」
彼が腰元を叩く仕草をして、ふっと笑う。その飾らない笑顔に、私の心臓が小さく跳ねた。
「しかし、クララ叔母上の命令は絶対だ。掃除を命じられる前に、呼び方に慣れておいた方がいいだろう。……ヴィクトリア」
突然、はっきりと名前を呼ばれ、私は歩みを止めた。
今までも何度か名前で呼ばれたことはあったが、こんな風に、祭りの喧騒の中で、ただ一人の女性として名を呼ばれたのは初めてのような気がした。
「……はい、レオンハルト様」
私も、少しだけ口ごもりながら彼の名前を呼んだ。
彼は満足そうに頷き、並んだ屋台の一つを指差した。
「あの串焼きを食べてみよう。いつも兵士たちが美味いと言っているんだが、仕事中はにおいが気になって食べられなかったんだ」
「ふふっ。では、今日は私がご馳走しますわ。領民がどんな味付けを好んでいるのか、視察も兼ねて」
「仕事の話は禁止だぞ、ヴィクトリア」
彼に軽くたしなめられ、私は小さく息を吐いて笑った。
そうだ。役に立つ話なんてしなくていい。何かを計算して、価値を提供しなければ隣を歩けない相手ではないのだ。
私はまだ、完全に仕事を手放して座っていることはできない。それでも、隣を歩く彼の穏やかな歩幅に合わせて、少しずつ「ただの私」でいることに慣れていこうと思えた。
温かい肉の串焼きを頬張りながら見上げた秋の空は、信じられないほど高く、澄み切っていた。
◆
同じ日の午後。王都の内務省救恤局。
エミールは引継ぎ書の担当者名に、三本目の傍線を引いた。書類は正しい窓口へ届いている。だが、どの窓口からも『他省との調整待ち』で戻ってきた。
「この案件の最終判断は、どなたが」
部下の問いに、エミールは即答できなかった。
予算の確認者も、検疫の責任者も決まっている。その二つが衝突した時、どちらを動かすかを決める権限だけが空白だった。
ヴィクトリアが残した一覧には、旧調整官決裁を要する案件として明記されている。彼女の退職後、代わりの権限者を決めるよう出した稟議は、まだ戻らない。
「ローデン次官補、王太子府で署名が止まっています!」
飛び込んできた別の部下が告げた。
「慈善監督官殿が、何が届くか分からない書類には署名できないと」
エミールは目を閉じた。
新任の監督官はロザリー・ベルナール男爵令嬢。孤児院の慰問に熱心な人だという。各省を動かす権限も訓練もない彼女の所へ、決められない書類だけが集められていた。




