第14話 「前の人はできた」と言われても
王都アレシア。豪奢な絨毯が敷かれた王太子府の執務室で、ロザリー・ベルナールは目の前に積み上げられた書類の山を見て、泣き出したい衝動を必死に堪えていた。
男爵令嬢である彼女は数週間前、アルベルト王太子の推薦とベルク宰相の強い後押しにより、『王太子府付慈善監督官』という新たな役職に就いた。
孤児院への慰問や、貧困街での炊き出し。そういった現場で弱い立場の人々に寄り添う活動なら、ロザリーにも自信があった。自分が役に立てるならと、この名誉職を引き受けたのだ。
だが、現実は彼女の想像とはまったく違っていた。
「監督官殿。こちらの秋季救恤予算の割り当てに関する書類ですが、内務省の裁可は下りております。あとは王太子府として、慈善団体との連携に問題がないか確認の署名をいただきたい」
目の前に立つ財務省の中堅官僚が、抑揚のない事務的な声で催促する。
ロザリーは羊皮紙に目を落としたが、そこに書かれているのは細かな数字と、見たこともない法律の条文ばかりだった。
「あの……連携の確認と言われましても、この書類のどこに、聖ミレーヌ慈善院への麦の配給量が書かれているのですか? 先週慰問に行った時、修道院長様が備蓄が足りないと困っておいででした。この署名をすれば、明日にはあそこにパンが届くのでしょうか?」
ロザリーが真剣な眼差しで尋ねると、官僚は露骨に深いため息をついた。
「ですから、それは第二十一項の『第三倉庫からの現物移管規定』に基づく特例措置であって、直接的な配給を確約するものでは……はあ。配給の日割りについては内務省の管轄ですので、我々財務省にお尋ねになられても困ります」
「えっ、でも、さっき内務省の方は、予算の拠出枠が決まらないと動けないって……」
「予算の枠組みそのものはこの書類で確定しています。問題ないはずです」
官僚の声には、明らかな苛立ちが混じっていた。
「お忙しいのは重々承知しておりますが、早く署名をお願いいたします。ヴィクトリア様でしたら、こんな数字の確認、一読されただけですぐに通してくださいましたよ」
――まただ。
ロザリーは、膝の上でドレスの布地をぎゅっと握りしめた。
この数週間、書類を持ち込んでくる各省の官僚たちは、ことあるごとにその名前を口にした。
『前の調整官殿は、この程度の不備はご自身で修正されていました』
『ヴィクトリア様なら、外務省へ連絡してすぐに枠を空けてくださったのに』
彼らはロザリーに説明するのを面倒がり、ただ「署名だけしろ」と圧力をかけてくる。分からないから聞いているのに、聞けば聞くほど「無知だ」という冷ややかな視線を向けられる。
ロザリーは政治実務の素人だ。行政の重さなど知らない。ただ、貧しい人たちを助けたいという純粋な善意しか持っていない。
だが、その善意は、この冷たい書類の山の中では何の役にも立たなかった。
「……私には、分かりません」
「は?」
「分からないものに、署名なんてできません! 誰の責任で、いつ、どこへパンが届くのかも教えてくれないのに、どうして私が確認したことになっているんですか!」
ロザリーは弾かれたように立ち上がり、ペンを机に叩きつけた。
自分でも驚くほど、鋭く大きな声が出た。官僚が目を丸くして数歩後ずさる。
「監督官殿、突然何を……これは正規の手続きでして」
「ヴィクトリア様、ヴィクトリア様って……皆さん、そればかり! 彼女が完璧だったせいで、まるで私が何もできない愚か者みたいに言われる! もう嫌です、こんなの!」
ロザリーの目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
彼女はヴィクトリアを憎んでいるわけではない。恋敵として勝利した優越感など、とうの昔に消え去っていた。ただ、前任者が軽々とこなしていた(ように見えた)仕事が、実はどれほど恐ろしく、どれほど重いものだったのかを、今になって思い知らされているのだ。
自分が座らされた椅子の巨大さに、彼女は完全に押し潰されていた。
「ロザリー! どうしたんだ、外まで声が聞こえたぞ」
執務室の扉が開き、アルベルト王太子が慌てた様子で入ってきた。
ロザリーが顔を覆って泣いているのを見ると、アルベルトは官僚を鋭く睨みつけた。
「君たち、彼女に何を言った。不慣れな彼女をいじめるような真似は許さないと言ったはずだぞ」
「い、いえ、殿下! 私はただ、規定通りに書類の確認署名をお願いしただけでして……!」
「もういい、下がれ。後で私が確認しておく」
アルベルトが冷たく言い放つと、官僚は書類を置いて逃げるように退室していった。
執務室に二人きりになると、アルベルトは優しくロザリーの肩を抱いた。
「怖がらせてすまなかったね、ロザリー。やはり、急に役職を与えたのは負担だっただろうか」
「アルベルト様……私、本当に何も分からないんです。書類を読んでも、貧しい人たちが助かるのかどうか、ちっとも分からなくて。皆からは、前の人みたいにできないって、冷たい目で見られて……」
「気にするな。君が彼女の真似をする必要なんてどこにもない」
アルベルトは、安心させるようにロザリーの髪を撫でた。
「君は君らしく、貧しい者たちに温かい微笑みを向けていればいいんだ。君のその優しい心こそが、次期王太子妃として民に求められているものなのだから。面倒な実務の数字や調整は、各省の優秀な官僚に任せておけばいい。彼らが勝手に回してくれるさ」
「でも、私が署名しないと……」
「問題ない。私が彼らに『分かりやすく説明しろ』ときつく言っておく。君はただ、最後に形だけ署名してくれればいいんだよ」
アルベルトの言葉は、この上なく優しかった。
だが、ロザリーの胸の奥にある不安のしこりは、まったく消えなかった。
アルベルトは分かっていないのだ。彼らが『形だけの署名』を求めてくるのは、各省の官僚たちが責任を負いたくないからだ。
もし冬になって救恤のパンが足りなくなった時、『王太子府の慈善監督官がこれで問題ないと署名しました』と言い逃れをするために、彼らはロザリーの印章を必要としている。
ベルク宰相が「慈善に熱心な令嬢」という美しい名目で自分をこの席に座らせたのは、その『責任の受け皿』にするためなのではないか。
政治の闇を知らないロザリーでさえ、直感的にその薄ら寒い構造に気づき始めていた。だが、それをうまく言葉にしてアルベルトに伝える術を、彼女は持っていなかった。
「……少し、別室で顔を洗ってきます」
「ああ、そうしなさい。無理はしなくていいからね」
ロザリーはアルベルトに一礼し、逃げるように執務室の奥の私室へと向かった。
私室の扉を閉める前に、廊下からベルク宰相の声が聞こえた。ロザリーは扉の陰で足を止めた。
「殿下。ロザリー嬢は、いかがなされましたか」
「少し疲れているようだ。君たちも、彼女にあまり無理をさせないでやってくれ」
アルベルトが苦言を呈すると、ベルクは恭しく頭を下げた。
「承知いたしました。監督官殿はまだ実務に不慣れなようですが、いずれ『各省が自立して判断を下す』という正常な形に落ち着くでしょう。今は過渡期の混乱に過ぎません」
ベルクは淀みなくそう答えた。
ロザリーは冷たい扉の縁を握った。自分が何を確認できずにいるのか、宰相は尋ねもしない。座っているだけでいい役なら、なぜ印章だけが必要なのだろう。
「それよりも、殿下。王都の機能は正常化へ向かっておりますが、地方の勝手な振る舞いが目に余ります」
「地方の勝手な振る舞い?」
「はい。北のヴァルグレン辺境伯と、リース伯領の動きです。連名で大仰な『北ルート共同事業』なるものの認可を申請してきましたが……調べたところ、あのルートを通過する商人たちは、ずいぶんと税を優遇されているようです。特にハルヴァルトからの輸入品まで安く流れ込んでいるのは、我が国の市場への脅威です」
紙の束を机に置く音がした。
「一部の地方権力が、不当に甘い汁を吸うことは許されません。共同事業の認可は保留を維持し、先にお認めいただいた『関税区分の見直し』を正式施行すべきかと存じます。早急な是正が必要です」




