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婚約破棄ですか。では、明日からの決裁はお任せします~北の領地で辺境伯と交易を始めたら、王宮から戻れと言われました~  作者: 他力本願寺


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第8話 お戻りください、と言われましても

リース伯領の執務室の机には、今日も王都アレシアから届いた数通の書簡が置かれていた。


 すべて、王宮や省庁で働いていた元・実務官たちからの、リース伯領への移住および就労を希望する願書である。


 その中の一通を開き、私は小さく息を吐いた。


「アデル・モラン……。彼女まで、わざわざ救恤局を辞めて北へ来るというの?」


 アデルは内務省救恤局の倉庫会計を担当する、三十代半ばの非常に優秀な中堅職員だ。数字の正確さはもちろん、現場の物流にも明るい。


 だが、彼女には慢性心疾患を抱える年老いた父親がいる。王都の大学病院で定期的な精密検査と投薬が必要なはずだ。北の診療所でも日常の管理はできるだろうが、万が一の急変を考えれば王都に留まるのが賢明な選択だ。


 添えられた手紙には、北が提示している「家族ごと住める広い住宅」が魅力的であること、そして過去の出来事が綴られていた。


 ――かつて父の通院のために彼女が早退申請を繰り返した際、私が彼女の評価を下げず、担当業務を組み替えて仕事を続けられる形を整えたことへの恩義。


 だが、恩義や理想だけで、家族の命や将来の恩給を天秤にかけるべきではない。


「エレナ、彼らに返書を出してちょうだい」


 私は傍らで控えていたエレナに指示を出した。


「当領は人材を歓迎しますが、いかなる形での『引き抜き』も行いません。採用の絶対条件として、『領から在職者への個別勧誘は行わないこと』『王都での引継ぎを完全に終わらせてから正規の手続きで退職すること』、そして『過去の業務の守秘義務を遵守すること』を公開規則として明記しなさい。一つでも破れば、採用は取り消すと」


「はい、承知いたしました。ですが、そこまで厳しい条件を突きつければ、二の足を踏む者も出るのでは?」


「それで構いません。勢いや私への義理だけで来られては、後で必ず後悔します。彼ら自身の人生の選択なのですから、冷水を浴びせられても揺るがない者だけを受け入れます」


 私がそう言い切った時、執務室の扉が開いた。


 入ってきたのは、長年リース伯領の代官を務めてきたオズワルド・ケインだった。四十九歳の彼は、地元に根付いた商習慣や農作期を誰よりも熟知している重鎮だ。


「女伯様。王都からの新しい人材の受け入れ規則、拝見しました。引き抜きと謗られないための防波堤としては見事なものですな」


「オズワルド。ええ、彼らが正式な手続きを踏んで来れば、領の行政と物流は劇的に効率化されますわ」


「……効率化、ですか」


 オズワルドは深い皺の刻まれた顔をわずかに歪め、手元の帳簿をコツンと叩いた。


「王都の優秀な方々が来るのは結構です。ですが女伯様、彼らを数字上の『戦力』として計算し、地元で季節雇いをしている者たちを帳簿上の『余剰人員』として扱えばどうなるか、お分かりですか?」


「それは……」


「王都式の合理的な改革は素晴らしい。ですが、季節雇いの賃金で冬を越す地元の家があるのです。数字だけで切り捨てれば、冬の前に地元の一軒が確実に潰れます。それだけは、肝に銘じておいてくだされ」


 オズワルドは深く一礼し、それだけ言って退出していった。


 私は手元の採用計画書を見つめ、小さく息を飲んだ。彼の冷ややかな警告は、私の「全員が幸せになる完璧な計算」の足元を鋭く突いていた。


 そんな重苦しい空気を破るように、外から慌ただしい馬の蹄の音が聞こえてきた。


 しばらくして、王都からの急使が私宛の親書を届けにやってきた。差出人の印蝋には、見慣れた王家の紋章が押されている。


 アルベルト王太子殿下からだった。


 ペーパーナイフで封を切り、中に目を通す。


『ヴィクトリアへ。君が去ってからというもの、各省の調整が一向に進まず、秋季の物流会議が滞っている。ベルク宰相は各省の自立を説くが、現場の混乱は目に余る。婚約の件はさておき、せめて王都に戻り、会議の運営だけでも手伝ってはくれないだろうか。相談役としての待遇は保証する』


 私は手紙を読み終え、ふっと乾いた息を吐いた。


 怒りすら湧かなかった。彼は本気で、私が王都に戻ると思っているのだ。感情と機能は別であり、地位と金さえ積めば、私が喜んでかつての泥仕事を引き受けに戻ってくるのだと、微塵も疑っていない。


「婚約の件はさておき」とは、よく言ったものだ。


「……エレナ。便箋を」


「ヴィクトリア様、まさか……」


 不安げなエレナから白紙の便箋を受け取り、私は迷いなくペンを走らせた。恨み言も、現状への皮肉も一切書かない。極めて事務的な、官僚としての正式な返書だ。


『アルベルト殿下からの身に余るご提案、拝読いたしました。しかしながら、現在進行中の案件に関する引継ぎ窓口は、出立の朝に内務省のローデン次官補へご案内した資料の通りでございます。私と王太子府との雇用および婚約契約はすでに終了しており、現在はいち領主としての職務に専念しておりますため、ご依頼の件はお引き受けいたしかねます。王都の益々のご発展をお祈り申し上げます。ヴィクトリア・エルデン』


 私はそれにリース女伯としての誓約印を押し、インクを乾かして封をした。


「急使の方に、この返書をお渡しして。休憩が済んだらすぐにお帰りいただくように」


「はいっ!」


 エレナは晴れやかな顔で手紙を受け取り、小走りで部屋を出ていった。


 ◆


 その二日後、王都アレシア。王太子府の執務室。


「……断ってきた、だと?」


 アルベルトは、デスクの上に投げ出された簡素な返書を見下ろし、信じられないというように眉をひそめた。


「『契約は終了している』の一点張りだ。相談役という高い地位を用意してやると言っているのに、なぜ戻ってこない? ただ会議の進行を整理するだけの簡単な仕事ではないか」


 その言葉に、傍らのソファに深く腰掛けていたベルク宰相が、冷ややかな声で応じた。


「ヴィクトリア嬢一人がいなくなった程度で揺らぐのは、現場の官僚どもが彼女に甘えていた証拠です。いずれ正常化するでしょう。それよりも問題なのは、財務省のリードや救恤局のモランなど、中堅の実務官が次々と退職し、リース伯領へ向かっているという事実です」


 ベルクは手元の退職者名簿を指で叩いた。


「これは単なる個人の引っ越しではありません。エルデン公爵家が裏で糸を引き、不当な待遇を提示して王宮から有能な人材を引き抜いているのです。我が国の行政機能に対する、明らかな妨害行為……深刻な『人材流出』として、政治的に対処する必要があるかと存じます」


「エルデン公爵家が……?」


 アルベルトは不快げに顔を歪めた。


 自分たちを捨てて北を選んだ官僚たちの真意など、彼らには想像もつかなかった。


 *


 そんな王都の思惑など、今の私にはどうでもいいことだった。


 私は執務室の窓から、秋の空を覆い始めた薄灰色の雲を見上げていた。


「十月十五日が、最後……」


 レオンハルト辺境伯が告げた、レヴィン高地峠の最終通行日。閉鎖はその翌日からだ。


 安価な大量輸送が可能な「冬前の期限」まで、もう時間がない。移住してきた者たちも、まだ完全にはこちらでの連携に慣れていない。さらに、オズワルドが懸念した地元民の季節雇用とのバランス調整にも手間取っていた。


 机の上には、高地峠へ向けて発送を待つ、大量の塩と薬品の輸送計画書が広げられている。


 荷はある。馬車もある。だが、それを期限までに積み込み、街道へ送り出すための『人手』が、絶望的に足りていなかった。

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