第5話 自分でここを選びました
リース伯領の中心、小高い丘に建つ領主邸。
王都を出立し、無事に自領へ帰り着いた私は、休む間もなく領の執務室で過去数年分の収支報告書と格闘していた。
王都にいた間も代理の者を立てて領地経営は回していたが、やはり直接目を通さなければ見えない数字の動きがある。私は山積みの帳簿とインク壺の間に陣取り、秋季の収穫予測と来たる冬に向けた薪の備蓄計画を照らし合わせていた。
そこへ、控えめなノックの音が響いた。
「入ってちょうだい」
「失礼する。仕事中すまないな」
扉を開けて入ってきたのは、レオンハルト辺境伯だった。
彼は昨日関所で起きた渋滞を共に解消した後、今後の「北ルート」の定期化に向けた準備や、両領地の連携について協議するため、このリース領の客館に滞在していた。
「辺境伯閣下。どうされました?」
「君のところの代官がひどく困惑していたので、私から伝えに来た。君宛てに、王都から移住希望者が来ている」
「……移住、ですか?」
私は持っていた羽根ペンを置いた。
王都から追放同然でこの北へ来た私に、なぜ移住希望者などやってくるのだろうか。
「通して構わないか。応接室で待たせている」
「ええ、お願いします」
レオンハルトが視線で合図を送ると、廊下で待機していた人物が恐る恐る部屋に入ってきた。
大きめの旅行鞄を抱え、少し緊張した面持ちで立っていたのは、見覚えのある女性だった。
「エレナ……? どうしてあなたがここにいるの」
そこにいたのは、王太子府で書記官を務め、私の直属の部下として働いていたエレナ・ハルトだった。有能で真面目で、私が急な調整で無茶な書類作成を頼んでも、文句一つ言わずに仕上げてくれていた二十五歳の女性だ。
彼女は私の顔を見るなり、ほっとしたように表情を緩め、深く頭を下げた。
「ヴィクトリア様。突然押し掛けて申し訳ありません。王太子府の書記官は、王都を発つ前に引継ぎを終え、正式に退職してまいりました」
「退職……。待ってちょうだい、私はあなたを王都から誘ったりはしていないわよ」
「はい。ヴィクトリア様は何もおっしゃらずに去られました。ですから、私が自分の意思でここに来たのです」
エレナは鞄を置き、真っ直ぐに私の目を見た。
「あの夜のこと、覚えていますか。去年の冬、他省からの急な差し戻しで、私が担当していた予算書類の計算がすべてやり直しになった夜です。私は徹夜しても終わらせることができず、明け方、机の前で泣いていました」
言われてみれば、そんな夜があった。王太子府の業務は理不尽の連続だった。
私が頷くと、エレナは言葉を続けた。
「あの時、ヴィクトリア様は私を怒鳴りもしなければ、呆れもしませんでした。そして、『私が全部やるから休みなさい』と仕事を取り上げることもなさらなかった」
私は彼女の隣に椅子を引き、無言で書類の束を半分に分けたのだ。
「『右半分の再計算は私がやるわ。あなたは左半分をお願い。二人でやれば朝の会議に間に合うわよ』と。……そして翌朝、完成した書類を提出する時、ヴィクトリア様はご自身の名前ではなく、私の名前で署名させてくださいました」
エレナの声が、微かに震えていた。
「王宮では、下の者の失敗は厳しく追及され、手柄は上の者の名前で吸い上げられるのが普通です。でも、ヴィクトリア様は私を無能扱いせず、最後まで私の仕事として全うさせてくださった。あの日、私は自分がただの歯車ではなく、自分の仕事をしたのだと思えたのです。だから私は……人の手柄を奪う方々の下ではなく、あなたのもとで働きたいのです」
彼女の強い眼差しに、私は言葉を失った。
私にとっては、ただ期限内に書類を仕上げるための最も合理的な判断に過ぎなかった。だが、その時の行動が、彼女の「人生の一日」の記憶として深く刻み込まれていたのだ。
「……もう一人、面会を希望している者がいる。入ってくれ」
私がエレナの言葉を噛み締めていると、レオンハルトが再び廊下へ声をかけた。
今度は、がっしりとした体格の初老の男性が、帽子を揉みながら部屋に入ってきた。
「お久しぶりです、ヴィクトリア様。王都の商会で荷馬車の車輪を作っておりました、職人のマルクです。家族ごと引っ越してまいりました」
「マルクさん……王都の一流商会で仕事を任されていたあなたが、なぜ北へ?」
マルクは、冬季用の雪道に強い特別な車輪を作る技術を持った職人だ。王都でも引く手あまただったはずだ。
「一流の商会といっても、あっしらは下請けの職人ですからね。どれだけ頑丈で良い車輪を作っても、納品書に書かれるのは商会の名前だけで、あっしらの名前は残りやせんでした」
マルクは日に焼けた顔をほころばせた。
「ですが、ヴィクトリア様は違った。王太子府がうちの車輪を買い上げた時、記録の台帳の備考欄に、わざわざ『製作者:マルク』と書き残す運用に変えてくださった。あっしら職人にとって、自分の作ったものに名前が残るってのは、何よりの誇りなんでさぁ」
「それは……万が一車輪が破損した際の、責任の所在と修理の依頼先を明確にするための措置でしたが」
「ええ、理由はなんであれ、あっしは嬉しかった。それに、こっちの求人には『職人用の家族住宅を手配する』と書いてありました。自分の名前が残る仕事ができて、家族を広い家で食わせていける。あっしはヴィクトリア様に忠誠を誓って来たわけじゃありません。職人として、一番働きがいのある場所を自分で選んだんでさぁ」
マルクのあっけらかんとした物言いに、私は小さく息を吐いた。
私個人への同情や崇拝ではない。彼らは、私の仕事の進め方と、以前から領が公開していた雇用条件を評価して、実利のためにこの場所を選んでくれたのだ。
これほど頼もしい動機はない。
「……分かりました。ですが、エレナには、王国勤続加算が退職日で止まることと、守秘義務の継続を確認します。マルクさんには、前の商会との契約を清算し、受注済みの仕事を引き渡してきたかを伺います。その上で、本当にここを選ぶということでよろしいですか?」
私が採用規則に従って冷静に最終確認を行うと、エレナとマルクは迷うことなく、同時に深く頷いた。
「はい。自分でここを選びました」
二人の声が重なった。
私はゆっくりと立ち上がり、彼らに向かって深く頭を下げた。
「歓迎いたします。エレナ、あなたには明日からリース伯領の文書管理と日程調整を。マルクさんには、早速ですが領内の荷馬車の車軸強化をお願いします。冬が来る前に、やらなければならないことが山積みですから」
「はいっ!」
活力を取り戻した二人が、足早に執務室から退出していく。
扉が閉まると、壁際で黙って成り行きを見守っていたレオンハルトが、呆れたような、それでいて感心したようなため息をついた。
「驚いたな。君の引いた一行のインクは、国境の兵士を救っただけでなく、王都の優秀な人間たちの足まで動かしていたらしい」
「……私自身が一番驚いていますわ。まさか、誰も誘っていないのに彼らの方から来てくれるなんて」
私が肩をすくめると、レオンハルトは机の端に置かれた街道図を開いた。
「人が来てくれた。だが、道が待ってくれるわけではない。明朝、護衛と積載量を詰めよう。高地峠が閉じれば、大量に運べる機会は春まで戻らない」
私はエレナが置いていった旅鞄の跡を見てから、地図へ視線を戻した。
来てくれた人たちの最初の仕事を、雪の前に間に合わせなければならない。




