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婚約破棄ですか。では、明日からの決裁はお任せします~北の領地で辺境伯と交易を始めたら、王宮から戻れと言われました~  作者: 他力本願寺


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第44話 レヴィン峠が開く

王暦六一四年、四月十六日。


 北の空に雲一つない快晴が広がるその日、ヴァルグレン辺境伯領とハルヴァルト国境を隔てる峻険な山脈に、低く重々しい角笛の音が響き渡った。


 雪崩の危険と分厚い氷雪により、十月半ばから半年にわたって閉ざされていた大量・安価輸送の主路『レヴィン高地峠』。国境軍の工兵部隊による入念な除雪と安全確認が完了し、本日、ついに通行再開の時を迎えたのだ。


「開門!」


 国境の関所で、レオンハルトの力強い号令が飛ぶ。


 重厚な木造の防雪門が両側へとゆっくりと引き開けられると、待ちわびていた色とりどりの商隊の荷馬車が、乾いた蹄の音を響かせながら次々と峠道へと進み入っていった。


「見事な光景ですわね、レオンハルト様」


「ああ。だが、この景色を生み出したのは君の計算と交渉力だ、ヴィクトリア」


 関所の高台からその様子を見下ろしながら、私たちは肩を並べて微笑み合った。


 冬の間、私たちが王都の飢餓を救うために使ったのは、川沿いを走る『冬季低地回廊』だった。あちらは雪崩の危険こそ少ないものの、道幅が狭く、除雪隊の先導と橇への特殊な換装が必須となるため、輸送単価が高地峠の約三倍――一トンあたり三十銀貨に跳ね上がる。王都の危機を救うための緊急の人道取引であったからこそ成立したが、民間商会の平時の商売としては到底採算の合うルートではなかった。


 だが今日、このレヴィン高地峠が開いたことで、輸送コストは一トンあたり十銀貨という平常水準へと一気に下落する。


 それはつまり、緊急時の特別な取引ではなく、北の領地を真に豊かにする『恒久交易』が、完全な採算ラインに乗ったことを意味していた。


「ヴィクトリア様! 辺境伯閣下!」


 開かれた門の向こう、ハルヴァルト側から真っ先にやって来た重厚な馬車から、恰幅の良い男が降り立ち、私たちに向かって快活に手を振った。


 ハルヴァルト穀物商会連合の対アルディア交易代表、マティアス・ローヴェンだった。


「春の訪れと共に、またお目にかかれて光栄の至りです。……いやはや、冬の間の怒涛の大口輸送、お互いによく乗り切ったものですな」


「ええ、マティアス様。あなた方が自国の安全在庫のギリギリまで融通してくださったおかげで、我が国の王都は凍えずに済みました」


 私が深く頭を下げると、マティアスは「商人として、最高の利益と信用を得られる取引をしたまでです」と豪快に笑った。


「秋の小口取引に始まり、冬の緊急大口輸送。我々は十分すぎるほど、お互いの誠実さと実務能力を確認し合いました。……本日は、これからの春、夏、秋と続く、両国の商会と共同事業との『恒久交易契約』の調印に参りました」


「歓迎いたしますわ。私たちの北ルート共同事業は、万全の態勢であなた方の荷を受け入れ、南へと流す準備が整っております」


 両国政府が承認した通商の枠内で、数量と運賃を定める民間契約だった。私は彼を国境の応接室へと招き入れ、あらかじめ精査しておいた協定書に、リース女伯として、そして北ルート共同事業代表としての誓約印を押し当てた。


 豊作で在庫が滞留していたハルヴァルトと、安定した食料供給を求めるアルディア王国。細くか細かった交易の糸は、今や決して切れることのない太く強靭な鋼の絆へと成長したのだ。


 *


 調印式を終えた後、私たちは開いたばかりの峠の展望路を少し歩いた。帰り道の途中で休息を取り、数日後、ヴァルグレンとリースの境界にある中継拠点へ戻った。


 視察のために馬車を降りた私の胸に、ふと、初めてこの領地に足を踏み入れた日の記憶が蘇った。


 あの日、私はリースの南の入口で、二十七台もの荷馬車が三日間も立ち往生している絶望的な渋滞を目の当たりにした。権限の縦割りと、倉庫の縄張り争いが引き起こした、物流の完全な動脈硬化だった。


 だが今、私の目の前に広がる光景は、あの日とは別世界だった。


「第三番の商隊、検疫終了! 予約指定の第六倉庫へ誘導しろ!」


「荷箱の積み替えは第二班が担当だ。時間を押すなよ!」


 現場の若き管理者たちの溌剌とした声が飛び交い、荷馬車は淀みなく流れていく。


 かつての無秩序な行列は消え去り、事前に王都から塔電で送られてくる予約枠に基づく、システマチックな時間帯別の中継システムが完成していた。


 そして、その広場の一角には、特設の式台が設けられていた。


「これより、新たに発足する『北ルート交易組合』の第一回総会を執り行う」


 式台の上に立っていたのは、見慣れたリース伯領の古参代官、オズワルドだった。


 彼の下には、王都から移住してきた職人のマルクや、地元の運送業を営む親方たちが、反発し合うことなく肩を並べて集まっている。冬の危機を共に乗り越えたことで、彼らの間にはもはや「よそ者」と「地元民」という壁は存在しなかった。


「私は今日をもって、配車枠と共同倉庫の運用を、新しい組合長へ引き継ぐ。関税と領の許認可はこれまでどおり役所が担い、組合は公開基準のもとで運営する。……これからの北の道は、お前たち自身の判断で守り、育てていくのだ」


 オズワルドはそう言うと、真新しい木箱に納められた組合の印章を、若き新組合長――かつて王都の商会で功績を奪われ、北へ移住してきた商人上がりの男――の手にしっかりと握らせた。


 新組合長が印章を高く掲げると、広場を揺るがすような拍手と歓声が沸き起こった。


 広場の端では、ハンスが地元枠の小口便へ薪を積んでいた。新しい栗毛の馬が首を振り、彼は手綱を押さえて、若い衆へ荷を置く順を指示している。


 傍らの車には木材組合の貸与札が残っていた。すべてが元どおりになったわけではない。それでも、出発の声を上げるのはハンス自身だった。


 私は足を止めた。レオンハルトも隣で待ってくれた。やがて車が動き出すと、私たちは呼び止めずに見送った。


 私が王都から持ち込んだ知識や制度は、すでに私のものではない。彼らが自らの手で運用し、改善し、次代へと受け継いでいく「生きた箱庭」として、完璧な自走を始めていた。


 オズワルドが式台を降り、私の元へと歩み寄ってくる。


「……見事な引き継ぎでしたわ、オズワルド」


「いやはや、老兵は去るのみです。これからは奥様の領地経営に専念させてもらいますよ」


 彼は豪快に笑い、そして目を細めて広場の活気を見渡した。


「奥様が王都からお戻りになった時、奥様は冷徹な数字の計算機のようなお方だと思っておりました。季節雇いの職人を数字でしか見ていないと、生意気にも苦言を呈したこともありましたな」


「ええ、あの時は、警告を聞きながら間に合わせられませんでした。ハンスさんの店を失わせたことは、今も私の失敗です。その後も一緒に直してくれて、感謝していますわ」


「ですが、今の奥様は違います。奥様はこの領地に、ただの金や制度ではなく、『人が自ら選んで生きるための場所』を作ってくださった。……リース伯領の代官として、あなたに仕えることができて、私は心から誇りに思います」


 オズワルドの深く、重みのある最敬礼に、私は胸がいっぱいになり、ただ無言で頭を下げ返すことしかできなかった。


 *


 総会を午前中で終えた私たちは、クララ様の「たまには外でゆっくりしてきなさい」という言いつけに従い、午後から完全に仕事を離れることにした。


 護衛の兵も側近たちも拠点に残し、私とレオンハルトは二人きりで、中継拠点の裏手にある緩やかな丘を歩いていた。遠くには、数日前に開通を見届けたレヴィン高地峠が白く光っている。


 雪解け水が岩肌を濡らし、足元には名も知らぬ小さな花が、春の陽光をいっぱいに浴びて咲き誇っている。


「……思えば、出会ってからの一年半は本当に嵐のようでしたわね」


 私は彼と繋いだ手を軽く振りながら、眩しい空を見上げて言った。


「婚約を破棄されて、一人で王都を飛び出したのが、つい昨日のことのように感じられますわ」


「私は、君が街道で荷馬車の渋滞を仕切っていたあの日のことを、今でも鮮明に覚えているよ。……なんとも恐ろしく有能で、そして危うい女性が現れたものだと思った」


 レオンハルトが低く笑いながら言うと、私は少しだけ頬を膨らませた。


「危うい、だなんて。私はいつだって論理的で、完璧な計画を立てていたつもりですわ」


「計画を直す腕は確かだった。だが、君は常に自分一人で責任を背負い込み、倒れるまで立ち止まろうとしなかった。……私が強引に君の権限を奪ったあの夜、君は本気で私を恨むのではないかと、柄にもなく肝を冷やしたものだ」


 彼の言葉に、私は思わず歩みを止め、彼の方へ向き直った。


 あの日。過労で倒れた私の許可を取らず、彼が越権行為をしてまで私を休ませてくれた夜。あの不器用な越境があったからこそ、私は彼を心から信じ、自分の弱さを預けることができたのだ。


「恨むはずがありません。……あなたが、私を『役に立つ道具』ではなく、一人の人間として大切にしてくれたからこそ、私はあの呪縛から解放されたのですから」


 私は繋いでいた彼の手を引き寄せ、その大きな手のひらに自分の両頬を押し当てた。


 ひんやりとした山の風の中で、彼の手の温もりだけが、私に確かな安心を与えてくれる。


「ヴィクトリア」


 レオンハルトはもう片方の手で私の腰を抱き寄せ、静かに私を見下ろした。


「あの街道は、王都を越え、さらに南の海へと続いている。……君が作り上げたこの道が、これからどんな未来を運んでくるのか。私の隣で、共に見届けてくれるか」


「ええ、もちろんですわ。……私が自分で選んだ、私の人生のすべてを懸けて」


 私たちは、春の柔らかな日差しの中で、どちらからともなく顔を寄せ、静かに誓いの口づけを交わした。


 遠く眼下には、活気に満ちた私たちの領地と、そこから果てしなく続く一本の道が、黄金色に輝いて伸びていた。


 ――そして、季節はめぐり。


 私たちの選んだ日々は、確かな轍(わだち)となって、三年という歳月を駆け抜けていくことになる。

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