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婚約破棄ですか。では、明日からの決裁はお任せします~北の領地で辺境伯と交易を始めたら、王宮から戻れと言われました~  作者: 他力本願寺


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第45話 夕食の時間

レヴィン高地峠が開き、本格的な恒久交易が始まってから、三年が経った。


 王都アレシアでは、エミールが責任者を務め、アデルたちが実務を支える『横断調整室』が国の常設機関として完全に定着していた。セドリック王太子の手腕もあり、今の王宮は特定の天才一人に依存することなく、複数の担当者が権限を分け合いながら堅実に回る組織へと生まれ変わっている。


 そして、ここ北境の地。


 ヴァルグレン辺境伯領とリース伯領が共同で管理する北ルート交易圏は、ハルヴァルトとの太く安定した商流を背景に、活気に満ちた物流の要衝として見事な発展を遂げていた。オズワルドが発足準備をまとめ、若い組合長に運営を託した交易組合は、今や地元民と移住者が完全に融和し、誰の手を借りずとも自走する強固な共同体となっている。


「――お疲れ様です、ヴィクトリア様」


 春の柔らかな日差しが差し込む中継庁舎のリース側執務室に、エレナが何枚かの書類を抱えて入ってきた。


 彼女の顔つきは、かつて王宮の夜、私の隣で徹夜の書類を抱えて泣きそうになっていた書記官のものとは違う。今や彼女は、多くの部下を束ねる堂々たる実務官だ。


 その後ろから、まだあどけなさの残る若い新人官吏が、ひどく緊張した面持ちでついてきた。この春、リース伯領が王都で開いた公開採用試験を経て、自ら希望して北へやって来た若者だ。


「初めまして! 本日付で配属されました、新人官吏です!」


 若者はビシッと姿勢を正し、少し上ずった声で私に挨拶をした。


「遠いところをよく来てくれましたわね。北の暮らしには、すぐに慣れると思いますわ」


 私が微笑みかけると、若者は感極まったように目を輝かせ、早口でまくしたてた。


「はい! 私はずっと、王宮で語り継がれているヴィクトリア様の手腕に憧れておりました! 王都の危機を救った伝説の調整官であるヴィクトリア様の下で、あなたについて行きたいと思い、この北の地を選んだのです!」


 熱烈な個人崇拝。


 かつての私なら、その言葉を『自分が必要とされている証』として重く受け止め、彼の期待に応えるために、また新たな役割の鎖を自らに巻きつけていただろう。


 だが、今の私は違う。


 私が口を開くより早く、傍らにいたエレナが、若者へ担当表を差し出した。


「まず、あなたの仕事はこちらです」


「ヴィクトリア様について来た、ですって?」


 エレナは、かつての自分自身を愛おしむような、それでいて毅然とした優しい眼差しで若者を諭した。


「私たちは、ヴィクトリア様の私兵ではありませんよ。……人についてくるのではなく、あなた自身の意思で、この仕事と、この場所を選びなさい」


「自分の意思で……?」


「ええ。ここは、地位や名声で人を縛り付ける場所ではありません。あなたがここで働き、誰かの役に立ちたいと自分で願い、自分で選ぶのです。それが、私たちがヴィクトリア様から教わった、一番大切なルールですから」


 エレナの言葉に、若者はハッとしたように目を丸くし、やがて少しだけ照れくさそうに「はい、肝に銘じます」と深く頭を下げた。


「良い教えね、エレナ」


 私は目を細め、頼もしい部下たちを見つめた。


 人は所有できない。


 私が伝えたかったその理念は、もはや私個人の思想ではなく、この北の共同体そのものを支える当たり前の価値観として、彼らの中にしっかりと根付いていた。


 私が不可欠な世界は、もうどこにもない。


 それは寂しいことではなく、何よりも誇らしく、温かい事実だった。


「さて、本日の業務報告は以上になります。ヴィクトリア様、あとは……」


「ええ。皆様、今日もお疲れ様でした」


 エレナたちが退室し、執務室には私一人だけが残された。


 窓の外を見ると、太陽はすでに西の山際に沈みかけ、空は美しい茜色に染まり始めている。間もなく、一日の終わりの十八時を告げる鐘が鳴るだろう。


 私は、自分の執務机の上に目を落とした。


 そこには、各部署から上がってきた明日の会議用の資料と、急ぎではない些細な確認書類が『一枚』だけ残されていた。


 ペンを取り、五分だけ時間をかければ、今日のうちに机の上を完全に綺麗にしておくことができる。王宮にいた頃の私なら、間違いなくそうしていただろう。自分の有能さを証明するため、そして不安を消すために、机に書類が一枚でも残っている状態など決して許せなかった。


 私はペン立てに手を伸ばし――。


 そのまま、ペンには触れず、残った一枚の書類を手に取った。


「これは、明日の朝一番の仕事にしましょう」


 私は微笑みながら、その未処理の書類を、机の一番下の引き出しに仕舞い込んだ。


 私がいなくても、この世界は明日も正しく回る。


 今日やらなければならないことは終わった。急ぎでない仕事を明日に回しても、誰も私を責めないし、誰も私を見捨てたりはしない。


 だから私は、仕事よりも、私自身の人生の時間を優先することができる。


 引き出しを閉める小さな音が、私にとっての何よりの最終勝利の響きだった。


 私は上着を羽織り、軽やかな足取りで執務室を後にした。


 中継庁舎のエントランスを出ると、石畳の車寄せに、見慣れた黒い馬車が停まっていた。


 御者台から飛び降りてきたのは、隣棟の軍務室で執務を終えて迎えに来てくれた、私の夫だった。


「レオンハルト」


 私が名前を呼ぶと、彼は軍服の襟元を少し緩めながら、柔らかい笑みを浮かべて歩み寄ってきた。


「お疲れ様、ヴィクトリア。今日は随分と時間通りだな。また書類を抱え込んでいるのではないかと、クララに急かされて迎えに来たんだが」


「失礼ね。私だって、もう立派に『役に立たない時間』を過ごせるようになりましたわ」


 私が少しだけ胸を張って答えると、彼は満足そうに頷き、私の腰にそっと手を添えて馬車へとエスコートしてくれた。


 馬車がゆっくりと動き出し、二領境にある私たちの『共同邸』へと向かう。


 窓の外には、夕暮れの街並みと、家々の煙突から立ち上る温かな生活の煙が広がっていた。


「今日の夕食は、何かしら」


 私が彼の肩に寄りかかりながら呟くと、レオンハルトは私の指先に自分の指を絡めながら答えた。


「さあな。だが、マルクたちが持ってきた春の川魚が厨房に届いていたはずだ」


「まあ。それは楽しみですわね」


 私たちは、国の未来や大義について語るわけではない。ただ、今日あった些細な出来事と、これから二人で食べる夕食の献立について、静かに言葉を交わし合う。


 誰かに必要とされるからではなく。


 ただ、私が自分で選び、彼が私を選んでくれたから、私たちはここにいる。


 馬車は、夕闇が包み込み始めた北の街道を、二人の帰る場所へ向かってゆっくりと進んでいった。

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