第43話 朝食から始まる日
リース伯領とヴァルグレン辺境伯領の、ちょうど境界線上に建つ豪奢な石造りの洋館。
かつて他国の要人を迎えるために使われていたこの『旧迎賓館』は、大規模な改修を経て、数日前から私とレオンハルトの新しい住まい――二人の『共同邸』となっていた。
柔らかな春の陽光が、東向きの大きな窓から食堂へと差し込んでいる。
私は淹れたての紅茶の香りを胸いっぱいに吸い込み、テーブルの向かい側に座る夫を見つめた。
私服のシャツ姿のレオンハルトは、真剣な眼差しで何かの紙片にペンを走らせている。だが、それは軍の報告書でも領地の決裁書類でもなかった。
「……よし。今日の私の予定は、午前中に境界近くの第三補給砦の視察、午後は中継庁舎の軍務室で兵站会議だ。十七時半に切り上げれば、十八時にはこの邸へ戻れる」
彼はそう言って、書き込んだばかりの『本日の予定表』を私の方へと滑らせた。
「ヴィクトリア。君の方はどうだ?」
「私は午前中に中継庁舎のリース側執務室へ出向き、春の播種に向けた農具の調達確認と、移住者組合との定例報告会ですわ。……私も、十八時までには確実にこちらへ戻れます」
私が自分の予定表に「十八時・夕食」と書き込んで彼に見せると、レオンハルトは満足げに頷き、ようやく手元の温かいスープに口をつけた。
王宮で政策調整官をしていた頃の私なら、朝食の時間すら惜しんで書類に目を通し、夕食の約束など「仕事が終わらなければ反故にして当然のもの」と考えていただろう。
だが、この北へ来て、彼から教わったのだ。
仕事が終わったから一緒に食べるのではない。一緒に食べるために、仕事をそこまでに終わらせるのだと。一緒に過ごせる日は、二人の時間を先に予定へ入れる。領都への出張や軍務で離れる日も、次に帰る日を伝え合うことにしていた。
「……それにしても、なんだか不思議な気分ですわ」
私は焼きたての白パンに木苺のジャムを塗りながら、小さく息を吐き出した。
「王都では、朝起きればすぐに『今日は誰と誰の利害を調整しなければならないか』と、胃を痛くしてばかりでしたのに。今はこうして、あなたと一緒に朝食のパンを味わうことができている」
「君が自分の手で、そうできる環境を作り上げたからだ。……もっとも、君のことだから、まだ油断すると仕事の穴を探し始めそうだがな」
レオンハルトが少し意地悪く目を細めると、私は「そんなことはありませんわ」と少し慌てて首を振った。
だが、食後の紅茶を飲み終え、そろそろリースの執務室へ向かおうと立ち上がった時のことだった。
「そうだわ。春の木材の切り出しについて、地元の木材組合との単価交渉の資料がまだ途中でした。私が出向く前に、少しだけ昨夜の書類を確認して……」
「ヴィクトリア様」
食堂の扉が開き、分厚いファイルを抱えたエレナが、オズワルドと共に姿を現した。
「木材組合との単価交渉につきましては、先ほどオズワルド様と私が組合長と面会し、すでに昨年の実績をベースにした適正価格で合意を取り付けてまいりました。こちらがその確認書です」
エレナはにっこりと笑って、私が見ようとしていた書類の束を自分の腕の中にすっぽりと収めてしまった。
「な、ならば、移住者用の追加の住宅手配の件は……」
「そちらも、トーマス殿が予算の枠組みを完了させ、地元の建築職人たちへすでに発注済みですな」
オズワルドが、豊かに蓄えた髭を撫でながら胸を張った。
「奥様が事前に作ってくださった権限の基準に従い、我々で回せる実務はすべて回しております。ですから、奥様がわざわざ細々とした書類仕事に手を出される必要はございません」
「そ、そんな……」
見事に自走する私のチームを前に、私は返す言葉を失ってしまった。
すると、隣にいたレオンハルトが「彼らは優秀だな」と低く笑い、自分の上着を手に取った。
「では、私もそろそろ第三補給砦の視察へ向かうとしよう。雪解けの時期の山の斜面は崩れやすい。私の目で直接確かめ――」
「閣下!」
今度は、レオンハルトの背後から彼の副官が勢いよく現れた。
「第三補給砦周辺の地盤調査と、雪崩の危険予測につきましては、すでに私の部隊が夜明けと共に現地入りして完了させております! 報告書も作成済みです! ですから、閣下が直々に足を運ばれる必要は一切ありません!」
副官はビシッと敬礼し、一歩も引かない構えを見せた。
レオンハルトは上着を持ったまま、呆然と自らの副官を見つめている。
「……お前たち、いくら何でも張り切りすぎではないか?」
「「いいえ、そんなことは!」」
エレナと副官の声が、見事に重なった。
そこへ、トドメとばかりに聞き慣れた快活な足音が響いてきた。
「はいはい、あんたたち! 新婚早々、朝から仕事のことばかり考えてるんじゃないよ!」
エプロン姿のクララ様だった。彼女は両手を腰に当て、私とレオンハルトを順番に指差した。
「あんたたちは王都を救うために、冬の間ずっと休まずに働き詰めだったんだ! たまには丸一日、この家でゆっくりしなさい。……エレナもオズワルドも、副官殿も、今日はこの二人に仕事を一切回すんじゃないよ!」
「「「はっ!」」」
三人の頼もしい実務官たちは一斉に頷き、そして申し合わせたように踵を返して、さっさと共同邸から出て行ってしまった。
広い食堂に、完全に仕事を取り上げられた私とレオンハルトが二人きりで取り残される。
「……やれやれ」
レオンハルトは小さく息を吐き、手にしていた上着を再び椅子の背にかけた。
「副官に権限を与えすぎたかもしれないな」
「私の実務官たちもですわ。本当に、頼もしすぎて困ってしまいます」
私たちは顔を見合わせ、やがてどちらからともなく吹き出してしまった。
急に手持ち無沙汰になってしまった春の午前。
だが、以前のように「役に立たない時間」への焦りや恐れは、もう私の心には微塵もなかった。
「……仕方ありませんわね。クララ様の命令とあらば、逆らうわけにはいきません」
「ああ。今日は大人しく、彼女たちの好意に甘えさせてもらおう」
レオンハルトは私に歩み寄り、その大きな手で私の腰をそっと抱き寄せた。
私たちは、まだ少し冷たい風が吹く共同邸の庭を、肩を並べてゆっくりと散策した。
誰の目を気にする必要もない。政治の駆け引きも、書類の山もない。ただ、雪を割って顔を出した春の草花を見つけ、何気ない言葉を交わし合う。
午後には、陽の当たる応接室の広いソファに並んで腰を下ろした。
私は彼の肩に頭を預けながら、王都から届いた流行りの恋愛小説のページをめくる。レオンハルトは私の髪を時折優しく撫でながら、難しい顔で軍学書を読んでいた。
劇的な熱狂や、息の詰まるような甘い言葉の応酬はない。
けれど、彼にもたれかかっているだけで伝わってくる静かな体温と、ただ同じ空間で息をしているという事実が、私の心を満たして余りある安らぎを与えてくれていた。
そんな、穏やかな休暇の午後が終わろうとしていた頃。
共同邸の門扉の向こうから、一騎の早馬が慌ただしく駆け込んでくる音が聞こえた。
窓越しに見下ろすと、ヴァルグレンの伝令の兵士が、出迎えた副官に何事かを報告している。
「……どうやら、完全な休暇とはいかなくなったようだな」
レオンハルトが窓の外を見つめながら、静かな声で言った。
間もなく、応接室の扉がノックされ、副官が足早に入室してきた。
「閣下、女伯様。お休みのところ誠に申し訳ありません。国境の物見から、至急の報告です」
副官の声には、緊張ではなく、高揚感が混じっていた。
「冬の間、厚い氷と雪に閉ざされていた『レヴィン高地峠』。……除雪と点検が済み、予定どおり四月十六日に通行再開できるとのことです!」
「レヴィン峠が……」
私は思わず、レオンハルトと顔を見合わせた。
それは、高価で低容量な冬季低地回廊に頼らざるを得なかった苦しい季節の終わり。安価で大量の輸送が可能となる、本当の春の訪れを意味していた。
「さらに、もう一つご報告があります」
副官は、興奮冷めやらぬ様子で言葉を続けた。
「国境の向こう側より、ハルヴァルト商会連合の代表、マティアス・ローヴェン殿の馬車がこちらへ向かっているとのこと。彼は『アルディア王国との、正式な恒久交易使節』として、開通日に国境でお二人に面会を求めております!」




