第42話 北境の結婚式
長く厳しかった冬が終わり、リース伯領の雪解け水が小川となって軽やかな音を立て始めた春の半ば。
領主邸の一室に設けられた花嫁の支度部屋には、朝から華やいだ空気が満ちていた。
純白のシルクと、北の伝統的な銀糸の刺繍があしらわれたドレス。それを身に纏った私を、エレナや侍女たちが手際よく飾り付けていく。
「ヴィクトリア様、本当に綺麗です……!」
「ありがとう、エレナ。あなたが手伝ってくれたおかげよ」
鏡の前で微笑み合っていると、控えめなノックと共に、トーマスが顔を出した。
彼の顔には少しだけ困ったような色が浮かんでいる。
「ヴィクトリア様。お支度中に申し訳ありません。実は先ほど、王都の商務省から定期便が届きまして……急ぎではないのですが、来季の関税率に関する確認の照会事項が含まれておりました。いかがいたしましょうか」
トーマスは分厚い封筒を手に、判断を仰いできた。
王宮で政策調整官をしていた頃の私なら。あるいは、この北へ来て過労で倒れる前の私なら。自分の結婚式の直前であろうと「すぐに目を通します。五分で回答を書きますから待っていてちょうだい」と、ペンを奪い取っていただろう。
だが私は、鏡越しのトーマスに向かって、柔らかく、けれどきっぱりと首を横に振った。
「その封筒は、私の執務机の一番下の引き出しに入れておいてちょうだい」
「……よろしいのですか? 王都からの照会ですが」
「ええ。緊急でないのなら、来週の月曜日に回しますわ」
私は立ち上がり、ドレスの裾を軽く翻した。
「だって、今日は私の人生にとって、一番大切な日ですもの。仕事の入り込む隙間なんて、一秒たりともありませんわ」
その言葉に、トーマスは一瞬きょとんとした後、心底嬉しそうに「承知いたしました」と深く一礼し、足早に部屋を後にした。
*
結婚式の会場に選ばれたのは、リース伯領とヴァルグレン辺境伯領の境界近くにある、緑に包まれた開けた広場だった。
王都の貴族たちが好むような、息苦しい大聖堂ではない。春の陽光が降り注ぐ中、木製の長椅子が並べられ、領地で採れた色鮮やかな花々が飾られている。
バージンロードの入り口に立った私を、私の父であるヘクトル・エルデン公爵がエスコートしてくれた。父は私の晴れ姿を見て、少しだけ目を赤くしながら「……我が誇り高き娘よ。お前の選んだ道は、正しかったな」と小さく呟き、私の腕を引いた。
参列席には、私がこの北の地で信じ、共に歩んできた大切な人たちの顔が並んでいる。
エレナ、トーマス。仕事着から真新しい礼服に着替えたマルク親方。何度もハンカチで目元を拭っているオズワルド。そして、すべてを完璧に取り仕切ってくれたクララ様。
最前列には、エドガー国王陛下からの代理使者が座り、恭しく頭を下げている。さらにその後ろの席には、慈善現場での活動を通じて本来の穏やかな表情を取り戻したロザリー・ベルナールが、一人の友人として温かい拍手を送ってくれていた。
そして。
バージンロードの先、野外祭壇の前で私を待っていたのは、深い漆黒の軍服に、辺境伯としての正装の意匠を纏ったレオンハルトだった。
彼のもとへ歩み寄り、父から彼へと私の手が渡される。
レオンハルトの大きな手が、私の冷たい指先を包み込んだ瞬間、緊張は嘘のように消え去った。
「とても、綺麗だ」
彼が低く掠れた声で囁き、私は「あなたも、素敵ですわ」と頬を染めて返した。
老司祭の前に並び立ち、私たちは永遠の誓いを立てる。
だが、その文言は、王国の貴族たちが交わす伝統的な「夫の家に従い、妻を外敵から守る」というものではなかった。
これは私たちが、あの分厚い婚姻契約書の作成を通じて、一字一句自分たちで練り上げた言葉だ。
『私、ヴィクトリア・エルデンは』
『私、レオンハルト・ヴァルグレンは』
私たちは互いの目を見つめ合い、はっきりとした声で誓った。
『互いの選択と決断を、生涯にわたって尊重します』
『互いの領域を侵さず、それぞれの仕事を分かち合います』
『そして、いかなる困難があろうとも、決して相手を所有せず、対等な伴侶として共に並び立つことを、ここに誓います』
風が吹き抜け、木々が祝福するようにざわめいた。
「それでは、誓いの口づけを」という司祭の言葉と共に、レオンハルトが私のヴェールを静かにめくり上げる。
彼の黒い瞳に宿る、隠しきれないほどの深い愛情と熱情。
役に立つからではない。機能として必要だからでもない。ただ、私という一人の人間を愛し、隣にいることを望んでくれた人。
彼の顔が近づき、私たちは春の光の中で、優しく、そして深く唇を重ねた。
「わぁっ……!」
「おめでとう! 領主様、辺境伯閣下!」
参列席から、割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こる。
私たちは唇を離し、満座の拍手に向かって笑顔で手を振った。
*
式が終わると、そのまま広場は巨大な宴の会場へと姿を変えた。
身分や出身地など関係ない。王都からの移住者も、地元の職人も、国境軍の兵士たちも入り交じり、北境の豊かな春の食材と、樽いっぱいの酒を酌み交わしている。
「女伯様――いや、今日は奥様とお呼びしてもいいんですかね。閣下、こっちの肉も食べてくだせぇ!」
マルク親方が耳を赤くすると、私は笑って頷いた。「仕事の時は、これまでどおりでお願いしますね」
マルク親方が大声で笑い、オズワルドが「飲みすぎだ馬鹿者!」と窘めながらも自分も杯を煽っている。
その光景を見渡しながら、私はレオンハルトから手渡された果実水のグラスを握りしめた。
「……信じられませんわ」
「何がだ?」
「一年半ほど前の夜会で、私が王宮から歩み去った時。……私の人生に、これほど温かくて、誰もが笑い合える場所が待っているだなんて、想像もしていませんでしたから」
私の言葉に、レオンハルトはグラスを軽く私のグラスに当てて、澄んだ音を鳴らした。
「それは、君自身が逃げずに戦い、自分の手で選び取った結果だ。君が彼らを集め、私が君の道を作った。……この光景は、私たちの誇りだ」
「ええ。本当に」
やがて、陽が西の山脈へ沈みかけ、空が美しい茜色に染まり始めた頃。
私たちは騒がしい宴をエレナやオズワルドたちに任せ、こっそりと広場を抜け出して、待機させていた馬車に乗り込んだ。
向かう先は、二つの領地の境界に位置する旧迎賓館。内部の改修が終わり、今日から私たちの帰る場所となる『共同邸』だ。
揺れる馬車の中で、私は自然とレオンハルトの肩に頭を預けていた。
彼もまた、私の肩を抱き寄せ、その大きな手で私の指を優しく絡め取ってくれる。
「……これからは、職務が終わればここを、あなたと一緒に帰る家と呼べるのですね」
私が微睡むように微笑むと、レオンハルトの低い笑い声が胸に響いた。
「ああ。そして明日の朝は、仕事の報告からではなく……」




