第41話 自由を守る婚約契約
リース領主邸の会議室には、分厚い羊皮紙の束と、インクの瓶、そして何人もの実務官たちがひしめき合っていた。
上座には私とレオンハルトが並んで座り、その向かいには財務官のトーマス、書記官のエレナ、そしてリース伯領代官のオズワルドが、真剣な面持ちで書類に目を通している。
「……以上が、お二人の婚姻に伴う『領地権限および財産分割に関する特例条項』の草案です」
トーマスが、眼鏡を指で押し上げながら確認の声を上げた。
「ヴィクトリア様は婚姻後もリース女伯としての爵位、および私有財産を完全に保持し、北ルート共同事業の商務代表としての職務を継続する。ヴァルグレン辺境伯領とリース伯領の会計は完全に分離し、互いの領地行政に対する不当な干渉を行わない。……控えめに言っても、王国の貴族社会における婚姻の常識から大きく外れた、異端の契約書ですね」
彼の言葉に、私は小さく微笑んだ。
通常の貴族の結婚は、家と家の統合であり、妻の財産や権利は夫やその家に吸収されるのが普通だ。だが、私たちが作ろうとしているのは、互いの「所有」を目的とした契約ではない。
「ええ。だからこそ、この契約が必要なのですわ」
私は、手元にある条文の一つを指でなぞった。
「互いが独立した個人として働き続けるための『境界線』。そして、第四項の『別居および婚姻解消条項』。どちらかが望めば、この婚姻関係を解消し、元の独立した領主に戻ることができる権利。……これを明記してはじめて、私は安心して彼の妻になることができます」
それは、愛を疑っているからではない。
私が王宮で六年間縛られていた「逃げられない役割」という呪縛を、法的な権利として完全に断ち切るためのものだ。契約とは、人を縛るための鎖ではなく、人が自由に選び続ける権利を守るための盾なのだ。
「俺としては、一生使われない条項だと思っているがね」
隣に座るレオンハルトが、微かに口元を緩めて言った。
「だが、君が明日も私の隣にいることを『自分で選んだ』と実感できるのなら、どんな条項でも喜んでサインしよう。……それに、この契約内容は、政治的な意味でも極めて有効だ」
レオンハルトが言う通り、私たちの結婚には大きな政治的懸念が存在していた。
精強な国境軍を持つヴァルグレン辺境伯領と、北の物流と中継倉庫を握るリース伯領。この二つが婚姻によって完全に統合されれば、国家のバランスを脅かす強大な独立経済圏が誕生してしまう。王宮がそれを警戒しないはずがない。
「継承する子が一人だった場合は、どうなりますか」
オズワルドが尋ねると、エレナは別紙を開いた。
「一人へ両爵位をまとめることはせず、他方は各家の継承順位に従う候補を審査する手順です。子がいない場合も同じです。どちらかの領地が、婚姻だけで吸収されることはありません」
エレナが、手元の別紙を読み上げた。
「『複数爵位の無制限統合を避け、両領地を別会計とする。将来誕生する子には、それぞれの爵位を分割して継承させる』……この条項を含めた草案を王都へ送ったところ、後見役となってくださったヘクトル・エルデン公爵様、そしてエドガー国王陛下からも、正式な承認と祝福の親書が届いております」
私の父であるエルデン公爵は、私が王都を去る時は不満げだったが、今では私の独立した領主としての意思を尊重し、公爵家とリース伯領の政治的切り離しに協力してくれた。国王陛下も、私たちが国家への反逆の意思を持たず、あくまで対等な分担を望んでいることを、この契約書から正しく読み取ってくださったのだ。
「これで、法的な障害はすべてクリアされたことになりますな」
オズワルドが、満足げに髭を撫でた。
「では、実務的な協議はここまでとしましょう。残る生活の細事については、お二人でごゆっくり」
実務官たちが一礼して退出し、会議室の重い扉が閉まる。
静けさが戻った部屋で、私は凝り固まった肩を回しながら、長く息を吐き出した。
「……疲れましたわ。国の条約を結ぶよりも、自分たちの婚姻契約を作る方がよほど骨が折れます」
「違いない」
レオンハルトは低く笑い、自分の椅子を引いて私のすぐ隣へと移動してきた。
私と彼の距離が近づき、彼の体温と、微かな革の匂いが伝わってくる。初キスの時のような初々しい熱ではなく、いくつもの危機を共に乗り越え、互いの人生の重さを知り尽くした者同士の、深く穏やかな親密さがあった。
「さて、ヴィクトリア。政治的な取り決めは終わった。あとは、私たちの『生活』の話だ」
レオンハルトは、机の端に置かれた領地の地図を引き寄せた。
「二つの領地の行政を分ける以上、私たちは領都での職務がある日は、それぞれの土地に滞在することになる。だが、毎日別々に寝起きするつもりはない」
彼の指先が、地図の上、ヴァルグレン辺境伯領とリース伯領のちょうど境界線上にある一点を指し示した。
「二つの領地の境にある、旧迎賓館。あそこを改修して、私たちの『共同邸』とする。……領都間は荷車で三日かかる。毎日往復はできない。日常の共同事業は迎賓館近くの中継庁舎で執り、領都への出張は互いに日を合わせよう。軍の緊急出動を除けば、週のうち何日を一緒に過ごすか先に決める。生活の基点は、あくまで二人で過ごす家だ。それでどうだろうか」
「……ええ」
私は彼の指先に自分の指を重ね、心からの笑みを浮かべた。
「素晴らしい提案ですわ。住居と執務の棟を分ければ、食卓まで書類を運ばずに済みますものね。夕食の時間を先に予定に入れて、一緒に帰る家。……私たちが欲しかったのは、そういう生活ですわ」
「ああ。君がまた仕事に逃げ込まないよう、クララにも口うるさく監視してもらうとしよう」
「もう、あんな過労で倒れるような真似はいたしませんわよ」
冗談めかして笑い合いながら、私たちは完成した分厚い契約書の最後のページを開いた。
そこには、私たち二人の署名欄がある。
私はペンを手に取り、迷いなく『ヴィクトリア・エルデン』と署名し、リース女伯の誓約印を押した。
レオンハルトもまた、力強い筆跡で名を記し、辺境伯の印を押す。
二つの印が並んだ瞬間。それは、私たちが互いを縛るためではなく、互いの自由を守りながら共に生きることを選んだという、何よりも確かな証明となった。
「……これで、君は正式に私の婚約者だ」
レオンハルトはペンを置き、私の頬にそっと手を添えた。
「よろしくお願いいたしますわ、私の相棒」
私は彼の手に自分の手を重ね、静かに目を閉じて、その温かい唇を受け入れた。
季節は、長く厳しかった冬から、雪解けの気配を感じる早春へと向かっていた。
王都でのすべての因縁を清算し、完全な自由と独立を手にした私たち。
いよいよ、私たちが自分の足で選んだこの北の地で、私たちを支え、共に歩んでくれた人々に囲まれて、温かな結婚式を挙げるための準備が始まろうとしていた。




