第40話 結婚は職務ではない
その夜、私は自室のベッドの中で、幾度となく寝返りを打っていた。
目を閉じても、バルコニーで聞いたレオンハルトの低く穏やかな声が、耳の奥で鮮明に蘇ってくる。
『私と、結婚してくれないか』
その言葉を思い返すたび、胸の奥が甘く締め付けられ、熱を帯びる。彼と家族になり、この北の地で共に生きていく。その未来を想像するだけで、私の中に満ち足りた喜びが広がっていく。
なのに、どうしても最後の最後で、目に見えない鎖が私の足を引っ張るのだ。
「……結婚」
暗闇の中で、小さく呟く。
私にとって、王宮で過ごした六年間の「婚約」は、国政を回し、派閥の均衡を保ち、問題を起こさないための「職務」だった。アルベルト殿下の婚約者という『役割』を完璧にこなすことでしか、私は自分の居場所を維持できなかった。
有能でなければ、見捨てられる。役に立たなければ、切り捨てられる。
その価値観は、大げさな心の傷というよりは、あまりにも長く私の中に居座り続けた「思考の癖」のようなものだった。
辺境伯の妻。
それは、ただ愛されていればいいという座ではない。領内の貴族たちとの社交、国境軍を支える家政の采配、そして王都との複雑な政治的折衝。間違いなく、新たな、そして極めて重い『役割』だ。
もし私がその役割を完璧にこなせなかったら。
もし私が倒れ、誰の役にも立たない無力な存在になってしまったら。
彼は、本当に私を見捨てないと言い切れるのだろうか。彼自身がそうは思っていなくても、周囲の環境が彼に私を切り捨てることを強要する日が来るのではないか。
……馬鹿げている。私は頭を振った。
彼はアルベルト殿下とは違う。そんなことは、これまでの彼自身の行動が十分に証明してくれているはずなのに。
私は自分の臆病さにため息をつきながら、白み始めた窓の外を見つめ、静かに夜明けを待った。
*
翌朝。
私は身支度を整え、冷たい廊下を歩いてレオンハルトの執務室の前に立った。
小さく深呼吸をしてから、扉をノックする。
「入れ」
落ち着いた声に促されて中に入ると、彼はすでに軍服を着込み、卓上の書類に目を通していた。私が入室したことに気づくと、すぐにペンを置いて立ち上がり、迎え入れてくれる。
「おはよう、ヴィクトリア。……あまり眠れなかったようだな」
「お見苦しい顔をお見せして、申し訳ありません」
彼が引いてくれた椅子に座りながら、私は苦笑した。
隠そうとしても、目の下の微かな影や、強張った表情で気付かれてしまう。彼からすれば、愛の告白への返事を一晩も引き延ばされた挙句、こんな顔で現れた私をどう思うだろうか。
だが、彼は私を急かさなかった。使用人に温かい茶を用意させ、私の前にカップを置くと、自分も向かいに腰を下ろした。
「それで。……君を縛っている不安について、聞かせてもらえるか」
彼には、最初からすべてお見通しだった。
私はカップの縁を両手で包み込み、その温もりに勇気をもらうようにして、ぽつりと言葉を紡ぎ出した。
「私は……怖いのです、レオンハルト様」
「何がだ?」
「辺境伯夫人という『新たな役割』を背負うことが、です」
私は彼から目を逸らさず、自分の内側にある醜い恐れをすべて曝け出した。
「私は王宮で、有能な調整官として振る舞うことでしか、自分の価値を証明できませんでした。あなたはこの北で、私を商務代表として対等に扱い、共に事業を作り上げてくれました。……でも、もし私たちが結婚し、私が『妻』という役割において、あなたが望むような働きができなかったら」
声が微かに震える。
「領地のため、軍のため、あるいは政治のために、私が役立たずな妻になってしまったら。その時、私はまた……あの王宮の夜会のように、切り捨てられるのではないかという恐怖が、どうしても拭えないのです」
言い終えて、私は唇を強く噛んだ。
彼への信頼が足りないと言われても仕方がない。彼がこれほどまでに私を尊重してくれているのに、私はまだ過去の亡霊に怯えているのだから。
だが、レオンハルトは怒ることも、呆れることもなかった。
彼は深く息を吐き出すと、立ち上がり、私の隣に跪いた。そして、私の両手を彼の手でしっかりと包み込んだ。
「ヴィクトリア」
彼の黒い瞳が、私を真っ直ぐに射抜く。
「私が欲しいのは、有能な辺境伯夫人ではない。優秀な商務代表でも、完璧な政策調整官でもない」
「……」
「もし君が、今日すべての仕事を辞めたとしても。何かの間違いでリース女伯の爵位を失い、財産をすべて手放すことになったとしても。……私が、君という一人の女性の隣で同じ時間を過ごしたいという選択は、絶対に変わらない」
その言葉は、どんな甘い愛の囁きよりも力強く、私の心臓を激しく打った。
役に立つから、隣にいるわけではない。
有能だから、選ばれたわけではない。
「君は、君のままでいい。役に立たない日も、弱音を吐く日も、私が君の手を引こう。だから……もう、過去の『役割』に怯える必要はない」
彼の真っ直ぐな言葉が、私の胸の奥まで届いた。
王宮で染み付いた「役に立たなければ見捨てられる」という思い癖が、今夜だけで消えるわけではない。それでも、怖くなった時に彼へ話していいと、ようやく思えた。
「……レオンハルト」
私は自然と、彼の手を握り返していた。
彼が与えてくれた安心感が、私に本来の自分を取り戻させてくれる。
ただ庇護されるだけの、か弱い令嬢でいるつもりはない。私は、私の足で彼の隣に立ちたいのだ。
「私、あなたと結婚したいです。……いいえ、結婚させていただきますわ」
私が涙を浮かべながらも、はっきりとした笑みと共にそう告げると、レオンハルトの瞳が大きく見開かれ、やがて心底嬉しそうな、少年のように柔らかな笑みがその顔に広がった。
「ああ。……ありがとう、ヴィクトリア」
「ただし、一つだけ条件があります」
私が少しだけ悪戯っぽく告げると、彼は不思議そうに首を傾げた。
「私が役に立たなくてもいいと言ってくださるのは嬉しいですが、私は仕事を取り上げられて、お城の奥でただ守られているだけの生活は御免です。……ですから、私から仕事を奪わず、互いの自由を失わないための条件を、一緒に作っていただきたいのです」
束縛し合うための契約ではなく、互いが自由に選び続けるための契約。
私のその申し出に、レオンハルトは喉の奥で低く笑い声を上げた。
「なるほど、君らしい条件だ。……いいだろう。君が望むなら、どんな強固な契約書でも、共に作り上げよう」
彼は私の手の甲に、誓うように深く口づけた。
こうして、ただ愛し合うだけではない、私たちだけの前代未聞の『婚姻契約』へ向けた協議が、幕を開けることとなった。




