第39話 次の王太子はまず聞いた
王都での謁見からしばらく後。
空を覆っていた重い雪雲がわずかに晴れ間を見せ始めた頃、リース伯領とヴァルグレン辺境伯領に、王族の馬車が到着した。
王位継承順位第一位に繰り上がり、次期王太子としての準備を進めるセドリック殿下だ。名目は『王太子継承に伴う行政引継ぎ制度の公式視察』。王宮の機能不全を正すため、私たちが北で構築した自走する物流と権限の仕組みを学びに来たのだ。
「遠路はるばるのご訪問、歓迎いたしますわ、セドリック殿下」
私が領主邸のエントランスで臣下の礼をとると、彼は護衛を控えさせ、気さくに微笑んだ。
「堅苦しい挨拶は不要です、リース女伯。私は教えを請いに来た学生のようなものですから。……さっそくですが、現場を案内していただけますか。書類の上の数字ではなく、実際に荷が動いている場所を見たいのです」
彼は王都の貴族が好むような長時間の歓迎の宴や、豪華な視察用の御膳をすべて固辞し、到着するなりすぐに中継倉庫へと足を向けた。
冷たい風が吹き込む倉庫前。
セドリック殿下は、案内役である私に制度の解説を求めることはしなかった。彼は私を数歩後ろに下がらせると、荷の積替え作業を指揮していたエレナやオズワルド、そして休憩中の御者や倉庫番たちに直接歩み寄り、気負いのない声で問いかけた。
「皆に聞きたい。……もし今、リース女伯が病気や怪我で倒れ、数日間指示が出せなくなったとしたら、何が止まると一番困るだろうか」
それは、為政者にとって最も核心を突く問いだった。
王宮の官僚であれば、お追従で「ヴィクトリア様がいなければすべてが止まってしまいます」と答えたかもしれない。だが、この北の地で働く彼らは違った。
油だらけの手袋を外した年配の御者が、首を傾げて答える。
「さあて。女伯様がいねぇと寂しくはありますが、仕事自体は止まらねぇです。この荷をどこへ運ぶかっていう『判断の基準』さえあれば、俺たちで回せますんで」
「ほう。判断の基準、とは?」
セドリック殿下が興味深そうに尋ねると、今度は代官のオズワルドが一歩前に出た。
「誰がどこまで決めていいのかという『権限の境界線』と、優先順位を定めたマニュアルのことですな。女伯様はそれを事前に我々に共有し、任せてくださっている。ですから、もし女伯様が不在でも、マニュアルに沿って私やエレナ殿が決裁を下せば、荷馬車は予定通りに動くのです」
オズワルドの言葉に、エレナも誇らしげに頷いた。
「ええ。それに、もしマニュアルにない想定外の事態が起きても、現場で相談して決める権利が私たちには与えられていますから」
セドリック殿下は彼らの言葉を一つ一つ反芻するように聞き入り、深く頷いた。
「……なるほど。優秀な一人がすべてを抱え込むのではなく、判断の基準と権限を分け与え、現場が自ら動けるようにする。それが『人が機能する』ということなのですね」
彼は私を振り返り、敬意に満ちた瞳で微笑んだ。
「王都でも、あなたが提案してくれた『横断調整室』の設計が進んでいます。責任者であるエミール・ローデン次官補のもとに各省から若手が集められ、激しい議論が交わされている。……お父上の治療のために王都へ戻られたというアデル・モラン殿も、現場の倉庫管理の経験を買われてその調整室に加わりました」
アデルの名前を聞いて、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
私が彼女を引き留めず、自ら選んで戻った王都で、彼女はまた新しい居場所と役割を見つけてくれたのだ。
そして、変化は王都だけではない。
視察の後半、ヴァルグレンの国境軍の拠点を訪れた際、レオンハルトもまた、軍の指揮系統に変更を加えていた。彼は副官に与える権限を大幅に拡大し、万が一自分が最前線に出て連絡が途絶えても、後方の補給や安全判断が絶対に滞らないよう、強固な体制を構築していたのだ。
もう、私一人が不在でも、日々の仕事は進む。
王都はまだ制度を作り始めたばかりだが、この北で積んだ経験が、その助けになろうとしている。それは、政策調整官として私が最も望んでいた、完璧な安心感だった。
*
セドリック殿下の公式視察の全日程が無事に終了し、彼が王都への帰路についた日の夜。
領主邸は深い静寂に包まれていた。
私は自室のバルコニーに出て、雪明かりに照らされた領地の街並みを見下ろしていた。煙突から立ち上る生活の煙が、冷たい空気の中で白く揺れている。
「風邪を引くぞ、ヴィクトリア」
背後から、温かい軍用外套が私の肩にかけられた。
振り返ると、巡回を終えたばかりのレオンハルトが立っていた。彼はバルコニーの手すりに寄りかかり、私と同じように領地の景色を見つめた。
「セドリック殿下の視察も終わり、王都の冬の危機も完全に去った。……あの時の約束を果たす時が来たな」
「約束……」
十二月五日、王都の集積所で、彼が私にかけてくれた言葉。
『この冬の危機が完全に明けたら……君と同じ人生を考えたい』。
レオンハルトは私の正面に立ち、真剣な、それでいてどこか不器用なほどに真っ直ぐな瞳で私を見下ろした。
彼はゆっくりと私の右手を取り、少しだけひんやりとしたその指先に触れた。
「ヴィクトリア。私は、君の優秀な頭脳や、領地を治める能力を評価して隣にいてほしいわけではない。君が役に立たない日も、失敗して立ち止まる日も、すべてをひっくるめて……君という女性と、これからの日々を歩んでいきたい」
彼の低い声が、静かな夜の空気に溶け込んでいく。
「私と、結婚してくれないか」
それは、飾り気のない、だがこの世の何よりも重く確かな求婚だった。
私の胸の奥から、言葉にならない歓喜が込み上げてくる。彼と家族になり、共にこの北の地で生きていく。それ以上の幸せが、私の人生に存在するだろうか。
『はい』。
そう答えようとして、口を開きかけた瞬間。
――私の脳裏に、氷のような冷たい記憶がフラッシュバックした。
『君は有能な政策調整官だ。婚約者として、今後も国のために尽くしてくれ』
『愛はない。だが、機能としては君が必要だ』
王宮で六年間縛り付けられていた、「婚約」という名の呪縛。
私の息が、一瞬だけ詰まった。
頭では分かっている。レオンハルトはアルベルト殿下とは違う。彼は私を機能として求めているのではないと、何度も言葉と行動で示してくれた。
だが、私の中の奥底に染み付いた『妻という役割』への恐怖が、無意識に私の喉を締め付けた。妻になれば、また「役割」として完璧であることを求められるのではないか。有能な妻でなければ、いつか見捨てられるのではないか。
「……っ」
私が微かに肩を震わせ、言葉を飲み込んだのを、レオンハルトは見逃さなかった。
彼は私を急かすことも、無理に返事を聞き出そうとすることもしなかった。ただ、繋いだ私の手を少しだけ強く握り直した。
「……ごめんなさい、レオンハルト様」
私は嬉しさと、自分自身の拭いきれない恐れへの不甲斐なさで、泣きそうな顔で彼を見上げた。
「私は、とても嬉しいのです。あなたと共に生きていきたいと、心から思っています。……でも、どうしても、無意識に『役割』について考えてしまって……」
「ヴィクトリア」
「ごめんなさい。……お返事を、一晩だけ待っていただけませんか」
それは、彼からの誠実な想いに対する、あまりにも臆病な先延ばしだった。
だがレオンハルトは、傷ついたような顔一つせず、ただ深く頷いた。
「もちろんだ。君が自分で納得して選ぶまで、私はいつまでも待つと言ったはずだ」
彼は私の額に軽く口づけると、「おやすみ」とだけ残して静かにバルコニーを去っていった。
私は一人、冷たい冬の夜風の中で、自分の内側にある最後の障害と向き合っていた。




