第38話 同じ広間で、今度は私が断る
シャンデリアの眩い光が降り注ぐ王宮の大広間。
エドガー国王陛下からの召喚を受けた私とレオンハルトは、重厚な扉を開け、その絢爛な空間へと足を踏み入れた。
壁際には、国政を担う高位貴族や官僚たちがずらりと整列している。私たちの姿を認めた瞬間、彼らの間に微かな緊張が走り、海が割れるようにさっと中央の道が開けられた。
私は、前を向き、磨き上げられた大理石の床をヒールの音を響かせて歩いた。
壁際の列の端に、アルベルト殿下がいた。王太子の徽章は胸にない。新たな行政体制の説明を聞くための立会人として、他の王族と共に控えていた。
この場所には、見覚えがあった。
一年余り前。この同じ大広間で開かれた夜会の席で、私はアルベルト王太子殿下から「正常な行政運営を歪める」との理由で婚約破棄を言い渡された。周囲の貴族たちは私を冷笑し、嘲り、私は誰の助けも得られないまま、ただ一人で役職の印章を返上してこの広間を歩み去ったのだ。
だが、今は違う。
私に向けられる視線に、嘲りはない。王都を冬の飢餓から救った者への畏敬と、かつて私を不用だと見限ったことに対する後悔だけが、彼らの顔に張り付いていた。
何より、あの夜、一人で背筋を伸ばして歩いていた私の隣には今、漆黒の軍服に身を包んだ北西の覇者、レオンハルト・ヴァルグレンが対等な歩幅で寄り添っている。
「……面を上げよ、リース女伯ヴィクトリア」
大広間の上座に設けられた玉座から、エドガー国王陛下の重々しい声が響いた。
私はレオンハルトと共にその場に跪き、完璧な淑女の礼をとってから顔を上げた。
「此度の働き、見事というほかない」
国王は、玉座の肘掛けに手を置きながら私を見下ろした。
「七日間という過酷な条件の中、ベルクの巧妙な隠蔽工作を暴き出した的確な監査。そして何より、絶望的な日程の中で不足六百三十トンを埋める調達を支え、北から計六百四十八トンの物資を王都へ運び入れ、民を飢えから救い出した北ルート共同事業の輸送力。余は、国を預かる王として、そなたたちに深く感謝する」
「もったいないお言葉でございます、陛下。私は、商務代表としての契約を履行したまでですわ」
私が答えると、国王は深く頷き、そして議場全体に響き渡る声で告げた。
「ヴィクトリア。そなたの持つ類稀な横断調整の能力と、商流を見通す眼力は、今のこの王国にこそ必要不可欠だ。……余の元で、『王室顧問』および『宰相補佐級』の特命官として、国政の再建に力を貸してはくれないか」
広間が、水を打ったように静まり返った。
王室顧問、そして宰相補佐。それは、かつて私が王太子府で担っていた政策調整官という裏方の役職を遥かに凌ぐ、国政の中枢における最高級の権力と評価の提示だった。
王都の誰もが、私がこの申し出を涙を流して受け入れると思っただろう。かつて不当に追い出された王宮に、最高の名誉をもって凱旋するのだから。
だが。
私の隣に立つレオンハルトは、一歩だけスッと後ろに引き、私の回答に一切口を出そうとはしなかった。彼はこちらを見ず、ただ静かに前を見据えている。私がどんな道を選ぼうとも、それが私の意思であるなら黙って受け入れるという、彼なりの不器用で絶対的な信頼だった。
私は彼が引いてくれた空間で、ゆっくりと息を吸い込み、澄み切った声で答えた。
「身に余る光栄なご提案、心より感謝申し上げます。ですが、陛下」
私は、彼が下がった分だけ自分の足で立ち、顔を上げた。
「私はそのお役目をお受けすることはできません。王宮への復帰は、固く辞退させていただきます」
広間に、驚愕のどよめきが走った。
列の端でアルベルト殿下が顔を上げた。私がそちらを見ると、彼は目を逸らした。
私は玉座へ向き直った。
国王も微かに目を見開き、「……理由を聞かせてもらえるか」と問うた。
「私はすでに、自分の意思で帰る場所を選びました。私が生涯を懸けて育てたい交易路があり、私がいなくても自走できる頼もしいチームがあります。私の仕事と居場所は、北のリース伯領にございます」
冷たい仕打ちを受け、一人で捨てられたこの場所。
だが今度は、私が自分の意思でこの場所を選ばない。
国の中枢という巨大な権力よりも、吹雪の中で共に笑い、同じパンを分かち合う北での生活を、私は愛してしまったのだから。
「……そうか。そなたの決意は固いようだな」
国王は長く息を吐き出し、どこか残念そうに、けれど納得したように頷いた。
「では、余はどうすればよい。そなたが去れば、王宮の各省庁を繋ぐ調整機能は再び失われる。アルベルトが犯したような機能不全を、また繰り返すことになるぞ」
「その懸念には及びませんわ、陛下。私は、一人の人間にすべてを依存する属人的な解決策ではなく、恒久的な『制度』を提案いたします」
私は手元に用意していた書類――王都へ向かう馬車の中で書き上げていた構想書を、内官を通じて国王へ提出した。
「王太子府の直轄として『横断調整室』を常設し、十二名の複数担当制にすること。各案件の最終判断者と代行者をあらかじめ指定し、担当者の休職や婚姻関係に左右されない職制にすること。各省庁が共有すべき『厳格な引継ぎ基準と権限分界線』を策定すること。これにより、誰か一人が欠けても国政が滞らない仕組みを構築できます」
「……なるほど。確かに理にかなっている。だが、この新しい組織を誰に任せればよいのだ」
国王の問いに、私は大広間の端で立会人として控えていた一人の官僚へと視線を向けた。
「適任者が、一人おりますわ。……エミール・ローデン次官補」
「っ、私、ですか!?」
突然名前を呼ばれ、エミールが肩を跳ねさせた。
「ええ。あなたは、私が王宮を去った後も北へは来ず、中央に残りました。そして各省の壁に挟まれ、理不尽な泥を被りながらも、決して逃げ出さずにこの国の制度を直そうと戦い続けた。……あなたにしか、この横断調整室の実施設計は任せられません」
「ヴィクトリア様……」
私が深く頭を下げて彼の実績を承認すると、エミールの目から堪えきれない涙が溢れた。彼は震える手で胸を叩き、「……謹んで、お受けいたします」と国王へ向かって深く一礼した。
これで、新しい調整室を動かす責任者が決まった。実際に機能するかは、これからの日々にかかっている。
「素晴らしい提案だ。……ヴィクトリア。改めて、此度の尽力に礼を言う」
国王からの最後の言葉を受け、私とレオンハルトは深い礼をしてから、踵を返した。
今度こそ、本当にこの広間を出て、私たちの北の領地へ帰るために。
その時だった。
「お待ちいただきたい、ヴィクトリア殿」
背後から響いたのは、国王の傍らに控えていたセドリック第二王子殿下の、若くよく通る声だった。
私たちが振り返ると、彼は玉座の階段を数段下り、真剣な眼差しで私を見据えていた。
「アルベルト兄上が王太子位を退き、私が次期王太子の座を継承するための準備が始まりました。ですが、私には圧倒的に現場の経験が足りていません」
セドリック殿下は、国王に向かって一礼してから、私に歩み寄った。
「ヴィクトリア殿。王太子継承に伴う『行政引継ぎ制度の公式視察』という名目で……あなたが作り上げたというその北の仕組みを、私に直接、学ばせに行かせてはくれないだろうか」
次代の王太子からの、思いがけない訪問の申し出。
私は隣のレオンハルトと顔を見合わせ、やがて小さく、けれど歓迎の笑みを浮かべたのだった。




