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婚約破棄ですか。では、明日からの決裁はお任せします~北の領地で辺境伯と交易を始めたら、王宮から戻れと言われました~  作者: 他力本願寺


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第36話 王都にパンが戻る日

十二月五日。六日間の移動を終えて着いた王都アレシアの空は、分厚い冬の雲に覆われていたが、街の空気は数日前までの絶望的なそれとは全く違っていた。


 王都の大広場に設けられた中央集積所では、息も凍るような寒さの中、次々と到着する大型の荷馬車から麻袋が降ろされ、救恤局の職員たちの手によって配給所へと運び込まれていた。


「ヴィクトリア様……! 第一便から第十便までの百八十トン、確かに荷受けいたしました!」


 集積所の管理用天幕で、エミール・ローデン次官補が興奮に上ずった声で報告書を掲げた。


「残る二十便、三百六十トンについても、十一月中に冬季低地回廊へ投入された旨の通信を確認済みです。固定の十一日行程を算出し、すべての便の到着予定を、沿道の通過報告で再確認できました! 全三十便の到着完了は、十二月十日の予定です!」


 エミールの顔には深い疲労が刻まれていたが、その瞳は希望に満ちていた。


 市場は現金よりも先に『確実な情報』で動く。五百四十トンのうち百八十トンが実際に届き、残りの便も沿道を進んでいるという情報が王都中に公表されたことで、暴騰していた市中の穀物価格は急落し、買い急ぐ列は落ち着きを取り戻し始めた。


 私は王宮の行政権限を持たない、ただの『北ルート共同事業代表』として、契約書通りの品が王都へ届いたという納品実績の確認だけを行っていた。


「……よかった。これで、次の入荷まで繋げられますわね」


 私が安堵の息を吐くと、エミールは深く、本当に深く頭を下げた。


 だが、私の手元にある革張りの書類鞄の中には、まだ一枚の重い羊皮紙が眠っている。


 十一月二十三日に、私自身が誓約印を押した『王都集積所別・配送順位表』だ。


 あの日、橋の損傷による物理的な輸送限界を前に、私は中央と西の病院向け貨物を優先する決断を下した。


 その結果。十二月二日と三日の二日間、南東集積所への救恤配送は、計画通り完全に「ゼロ」となった。昨日、十二月四日からようやく全六箇所への配送が再開されたが、失われた二日間の事実は決して消えない。


 エミールは配給簿を開いた。十一月二十日から十二月一日までは全六所へ一日四十五トン。十二月二日と三日は、南東を除く五所、十五万人へ一日三十六トン。一人あたり約〇・二四キログラムだった。四日から九日までは全十八万人へ五十四トン、〇・三〇キログラムに戻す。十日には通常の六十三トンとなる。


 二日から五日の入荷も配給も、合計百八十トン。今夜の時点で、国の倉庫に余りはない。明日以降の四便ずつの到着を、まだ一日も疎かにはできなかった。


「――ヴィクトリア様」


 天幕の入り口から、静かな声がした。


 そこに立っていたのは、厚手の質素な外套を羽織ったロザリー・ベルナールだった。慈善監督官として、南東集積所の管轄下にある『聖ミレーヌ慈善院』の支援にあたっていた彼女の顔は、一ヶ月前の王宮で見た装いの華やかさはなく、冷たい風に晒されたひどく現実的な色をしていた。


「ロザリー様……」


「今朝、うちの院にもようやく十分な小麦と薪が届きました。……ありがとうございます」


 彼女は小さく頭を下げた。だが、その声には微かな震えが混じっていた。


「ロザリー様。私は……」


「謝らないでください。あなたが誰かを恨んで配給を遅らせたわけではないことくらい、私にも分かっています。橋を壊さず運ぶには限界があったのだと。ただ、備蓄をここまで減らした責任まで、雪のせいにしてほしくはありません」


 ロザリーは私を見据え、その目を逸らさずに言った。


「だから、私はあなたを責めません。でも、あなたのその決断の正しさを、無理に庇うこともしません」


 彼女の目には、現場で理不尽な痛みに直面した者だけが持つ、深く暗い光があった。


「あの日、パンが届かなかった二日間で、うちの院で何が起きたか。子どもたちの食事の回数をどうやって減らしたか。軽症だったお年寄りが、寒さと栄養不足でどうなってしまったか……。いつか、すべてが終わったら、私から聞いてください」


「……はい」


 私は、逃げることなく真っ直ぐに彼女の目を見て頷いた。


「必ず、すべて聞かせていただきます。私が自分の手で選んだ結果の重さを、私は一生背負う覚悟です」


 ロザリーは何も言わず、もう一度だけ深く一礼すると、冷たい風の吹く広場へと戻っていった。


 残された私は、書類鞄の取っ手をきつく握りしめ、自分の中に広がる鈍い痛みをただ噛み締めていた。


「……全員を救う魔法は、やはり存在しなかったな」


 天幕の奥から歩み出てきたレオンハルトが、ぽつりとこぼした。彼もまた、安全責任者として極限の橋で采配を振るい、同じ重さを背負ってきた男だ。


「私の見込みが甘かったせいで、あの慈善院には辛い思いをさせました。……私が決裁の印を押したのです。私があの人たちを切り捨てたのです」


 声が震えないよう、必死に喉を締めて言った。


 レオンハルトは無言で私の傍に立ち、冷え切った私の手を、彼自身の大きな手でそっと包み込んだ。


「自分が救えなかったものの重さから、目を逸らさないのは君の強さだ。だが……全員を救えなかったことだけを見るな。君の決断が救ったものも、そこにある」


 彼は天幕の入り口から、王都の街並みを顎でしゃくった。


 広場の向こう、どんよりとした冬空の下に広がる家々の煙突から、温かな白い煙が一斉に立ち上っている。それは、配給された小麦と薪で、人々が命を繋ぐための火を熾している証だった。


「君があの極限の状況で優先順位を決め、泥を被ってくれたからこそ、医療区の重症患者たちはあの二日間を生き延びた。そして今、こうして王都全域に煙が戻った。……君は、立派に役目を果たしたんだ」


 彼の手の温もりが、私の冷え切った魂の奥底まで染み渡っていく。


 私は彼にもたれかかるようにして、小さく息を吐き出した。


「……あなたがそう言ってくれるなら、私はこの痛みを抱えたまま、前を向いて歩けますわ」


「ああ。今はまだ、すべてが終わったわけではない。だが、この冬の危機が完全に明けたら……君と同じ人生を考えたい。リース伯領で、共に」


 それは正式な求婚というにはあまりにもささやかで、静かな言葉だった。


 だが、どんな甘い言葉よりも深く、私の心に確かな未来の約束として刻み込まれた。


「ええ。楽しみにしていますわ」


 私たちが互いの温もりを確かめ合っていた、その時だった。


「ヴィ、ヴィクトリア様! 辺境伯閣下!」


 王宮へ報告に向かっていたはずのエミールが、信じられないほど青ざめた顔で天幕に駆け戻ってきた。


「どうしました、エミール。何か問題でも?」


「問題どころではありません! 明日、臨時の『王位継承会議』が開かれることになりました!」


 王位継承会議。それは王族の重大な処遇を決定するための、最高位の国政会議だ。


 エミールは息を切らしながら、握りしめていた議会の速報紙を机に広げた。


「そして……ベルク宰相の息のかかった議員たちから、恐ろしい弾劾案が提出されました。あの男たちは、『外部監査人であったリース女伯が、六百三十トンの不足に対して八百二十八トンの買付を行い、自領の事業へ国費を流すために過大調達を仕組んだ』と、利益相反の罪でヴィクトリア様を告発したのです!」


 危機が去った途端に、自らの保身と政敵の排除に動く。


 あまりにも浅ましく、腐りきった王宮の論理だった。


 だが、私は恐れなかった。手元の書類鞄の中には、私を、そして私たちが築き上げた北の事業を守るための『記録』が、すべて揃っているのだから。

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