第34話 誰を先に運ぶか
十一月二日。
王都の内務省救恤局の会議室には、昨日までの監査室とは違う、実務的な熱気が満ちていた。
私は王宮の行政に対する決裁権をすべて手放し、今度は『北ルート共同事業の商務代表』という、一人の供給事業者の立場で長机の端に座っていた。
上座では、救恤局次官補のエミール・ローデンが、事前資格を満たした三つの事業体からの緊急見積もり書を比較検討している。
「西方海路組合の案ですが……」
エミールは重々しい口調で書類を読み上げた。
「価格は最も安価ですが、これから本格化する冬嵐と、河口の結氷リスクにより、第一便の王都への初着が十二月半ば以降にずれ込む可能性が高い。これでは間に合いません。次に、国内大商会の連合案。こちらは昨日と本日の二日間で、国内に残っていた流通在庫百八十トンを緊急買付として供出していただいたばかりで、これ以上の大口数量を期日までに揃えるのは不可能とのことです」
彼は二つの書類を傍らに避け、最後に私の提出した見積もり書を手に取った。
「残るは、北ルート共同事業の案。ハルヴァルト国境からの陸路輸送です。国内百八十トンとリースの既存在庫百八トンに加え、新たに五百四十トン(三十便)を調達する案です。期日も十二月二日から十日までの分散納入を予定しています。……穀物売買の代金と輸送費を別審査とし、時間、数量、総費用の観点から、この大口調達の委託先を『北ルート共同事業』に決定いたします」
会議室に同席していた財務省の役人たちからも、異論は出なかった。
翌十一月三日。買主を王国救恤局、売主をハルヴァルト穀物商会連合、そして輸送受託者を北ルート共同事業とする、大口契約が締結された。穀価は国境での引渡しまでを含み、そこから王都までの運賃は別に定める。数量を保証した売主が集荷の不足を負担する条件も明記された。契約成立の塔電は即日国境へ打たれ、そこから急使が走ってハルヴァルトの内陸穀倉へと向かっているはずだ。
「ヴィクトリア様」
すべての手続きを終え、王都を発つ準備をしていた私に、エミールが声をかけてきた。
「王都での配給行政は、私が責任を持って執り仕切ります。既存在庫と国内買付百八十トン、それに北の先行分百八トンを合わせ、十一月二十日から段階配給へ切り替えて十二月一日まで繋ぎます。ですから……どうか、約束の荷を届けてください」
「ええ、必ず」
私は深く頷き、レオンハルトと共に王都を後にした。
そこからは、息をつく暇もない怒涛の日々だった。
十一月七日、リース伯領へ帰り着いた私は、売主が保有していたハルヴァルト産穀物百八トンを確認した。救恤局が十一月三日に別口で買い付けた先行分で、一便十八トン、六便に分けて運ぶ。エレナたちは照会を受けた時点で棚卸しを済ませ、マルクの工房も荷箱と換装具を整えてくれていた。
八日に検収を終え、九日に六便を発送。出発日を含む五日行程で、十三日には王都へ届く。この百八トンも国内買付分も、救恤在庫に一度だけ計上する。
私とレオンハルトは八日にリースを出て、十日にヴァルグレンへ入った。高地のレヴィン峠は十月十六日から閉鎖されている。冬に使えるのは、川沿いの宿駅と除雪隊、橇への換装を頼りに進む低地回廊だけだ。
十一日、ヴァルグレンの中継拠点でマティアスと会った。彼は国境交易都市を七日に出て九日に到着し、現場の準備を見ていたという。
「契約の知らせは内陸へ七日までに届きました。予備の在庫確認は済ませてあります。十四日に集荷を終えて出します。重荷ですから、国境までは八日を見てくだされ」
価格と数量を変えず、出荷手順だけを最終確認する。私たちも十二日に国境側の投入拠点へ移り、三日間の行程を終えて十四日に到着した。
そして、十一月二十一日。
ハルヴァルト内陸から八日間をかけて運ばれてきた大口便・全三十便分が、ついに国境の検収を通過し、低地回廊の入口である中継拠点へと集結した。
いよいよ、王都へ向けての連続投入が始まる。
そう誰もが気を引き締めた、翌二十二日の早朝のことだった。
「辺境伯閣下! 先行していた除雪隊からの急報です!」
中継拠点の指揮所で配車表の最終確認をしていた私たちの耳に、悲痛な叫び声が飛び込んできた。
「昨夜の猛吹雪による倒木で、回廊内の第四吊り橋の主柱が損傷しました! 現在、工兵部隊が応急修理にあたっておりますが、完全な復旧には数日かかります!」
「なんだと……!」
レオンハルトが、広げられた地図の上の第四吊り橋の地点を強く叩いた。
「橋の耐荷重はどれくらい落ちている」
「通常の半分以下と見積もられます! 重い荷馬車を連続で通せば、橋そのものが崩落する危険があります!」
レオンハルトの瞳に、極限の重圧下での冷徹な軍司令官の光が宿った。彼は一瞬の迷いもなく決断を下した。
「応急修理が終わるまでの四十八時間、回廊へ投入する安全便数を、一日の上限である四便から『二便』へ半減させる。橋では一台ずつ荷重を確認し、前の橇が渡り切ってから次を通せ。検査と補強に時間を割く」
その指示に、私は息を呑んだ。
私たちの輸送部隊は、橇十二台で一便を構成しており、一便あたりの積載量はおよそ十八トンだ。当初の計画では一日四便、七十二トンを王都へ向けて連続投入するはずだった。それが二便、三十六トンへ半減する。
「ヴィクトリア」
レオンハルトが、ひどく厳しい顔で私へ向き直った。
「安全便数の決定は、現場責任者である私の権限だ。これ以上は絶対に譲れない。……すまないが、君の配送計画を根本から組み直してくれ」
「……」
私は、手元の『王都集積所別・配送順位表』に目を落とした。
王都への配給は、エミールが六つの集積所(中央、西、北西、南、南東、東)を拠点に行う。住民に直接パンを配るのはエミールの権限だが、『どの集積所へ、何便目で何を届けるか』を決めるのは、輸送契約の代表である私の責任だ。
私が指定した箱が届かなければ、エミールは配ることができない。
便数が半減したことで、六集積所に予定していた全量を届けることはできなくなった。中央と西には重症患者を抱える施設が集中している。エミールから預かった施設別の残量表では、南東は比較的自家用の根菜や共同炊事の燃料が残るが、それも二日が限度とされていた。
「……誰かを、後回しにしなければなりませんわね」
私は震える手でペンを握った。
王宮時代の私なら、各省庁に頭を下げ、調整を重ねて『誰も損をしない完璧な解』を捻り出そうとしただろう。だが、大自然の暴力と物理的な重量の壁の前では、調整など何の意味も持たない。
決断しなければならない。私の手で、誰に飢えを我慢させるかを。
「……中央と西の病院向けの主食を優先します。その上で北西、南、東にも振り分け、五所へ一日三十六トン。救恤局が示した緊急時の優先基準に従って、積み荷を組み直します」
「南東集積所はどうする。あそこには、大きな慈善院があったはずだが」
レオンハルトの問いに、私の脳裏にロザリー・ベルナール嬢の顔がよぎった。聖ミレーヌ慈善院。あそこには多くの孤児や老人たちが身を寄せている。
だが。
「……南東集積所への第一大口便の到着を、四十八時間遅らせます」
私は、自らの声が氷のように冷たく響くのを聞いた。
まず二十二日の便を暫定表で送り出し、その日のうちに減便量と配分案を公用塔電で王都へ通知した。翌朝、エミールから、住民への配給変更を引き受けるという返電が届いた。
「慈善院の子供たちには、辛い思いをさせることになります。ですが、病院の患者たちの命のタイムリミットの方が先です。……配送順位を決めた責任は、私が負います。現場に残る食べ物と燃料をどう分けるかは、救恤局と施設の担当者に確認してもらいます」
十一月二十三日。
私は、南東集積所への配送を四十八時間遅らせるという残酷な配送表に、リース女伯としての誓約印を、万感の思いを込めて力強く押し当てた。
全員を救う魔法などない。だからこそ、私はこの痛みを一生背負って生きていくのだ。
翌、十一月二十四日。
橋の応急修理が完了し、便数の上限が一日三便へと引き上げられた。
厳しい冷え込みと猛吹雪が視界を白く染め上げる中、初冬最後の大口輸送隊が、王都の命運を乗せて、険しい冬季低地回廊の闇の中へと進み入っていった。




