第33話 黙って直せ
十一月一日の夜。
十八時をもってすべての外部監査業務を終え、報告書を提出した私は、レオンハルトと共に王宮の回廊を歩いていた。
その足取りは、一年前の夜会から逃げるように去った時とは違い、驚くほど軽く、確かなものだった。
「ヴィクトリア」
冷たい風が吹き込む回廊の先で、その声に呼び止められた。
暗がりから姿を現したのは、護衛の騎士すら連れていないアルベルト王太子殿下だった。金糸のように美しかった彼の髪は乱れ、目元には深い疲労と焦燥の色が濃く刻まれている。
私が提出した監査報告書の内容は、すでに国王陛下の手に渡っているはずだ。そこに記された数字の嘘と、彼自身の致命的な監督不全の事実を知り、居ても立ってもいられなくなったのだろう。
「すまないが……少しだけ、君と私的に話がしたい。二人きりで」
彼はすがるような瞳で私を見つめ、そして私の隣に立つレオンハルトを警戒するように一瞥した。
レオンハルトは表情を変えなかった。彼は私を一瞬だけ見つめ、静かに頷いた。
「私は公開待合室で待っている。……行っておいで」
彼は私を無理に引き留めたり、アルベルト殿下を怒鳴りつけたりはしなかった。私の決断を信じ、自ら身を引いてくれたのだ。その背中を見送り、私はアルベルト殿下に向き直った。
「近衛の控え室が空いていますわ。そちらで伺いましょう」
扉を閉め、飾り気のない控え室で、私はかつての婚約者と向かい合った。
「……何の、ご用件でしょうか」
「ヴィクトリア。君の提出した監査報告書を読んだ。……六百三十トンもの備蓄が不足しているというのは、本当なのか」
「ええ。各省の自己申告を盲信し、誰も現場の現物を確認しなかった結果です」
私の冷たい返答に、彼は痛みに耐えるように顔を歪めた。
「頼む、ヴィクトリア。民を冬の飢餓から救うために、君の知恵を貸してくれないか。君の北の事業の伝手を使えば、なんとか物資をかき集められるはずだ。君になら、この絶望的な状況をひっくり返せる」
それは、彼なりの誠実な哀願だったのかもしれない。
だが、彼は致命的な言葉を付け加えた。
「その上で……父上へ上げる最終的な責任の追及は、どうか穏便に済ませるよう取り計らってくれないだろうか。私やベルク宰相に悪意があったわけではないんだ。ただ、少しの予測の甘さが重なっただけで……」
「……」
私は、ただ深い徒労感と共に彼を見つめた。
ああ、この人は本当に、何も分かっていなかったのだ。
彼は以前手紙で寄越したように、「婚約者としての愛情は失っていても、機能(優秀な調整官)としては国のために動いてくれるはずだ」という甘い考えを捨てきれていない。
民を救うための調達という『行政の義務』と、自らの失敗を隠蔽してほしいという『政治の保身』。それを平気で混ぜ合わせようとする。
「アルベルト殿下。……監査は、本日の十八時をもって終了いたしました」
私は鞄の留め金を、指先で押さえた。
「私が報告書に記載したのは、不足の規模と、その原因となった責任の所在のみです。私はすでに外部監査人としての任を解かれており、報告書の内容を後から覆すような権限は持ち合わせておりません」
「だ、だが、君が父上に一言添えてくれれば……」
「できませんわ。それに、私は明日の調達において、特定の事業者を推薦することもいたしません。もしここで私が北の事業を売り込めば、それこそ私自身が利益誘導の罪に問われます」
私は一歩、彼から距離を取った。
それは、物理的な距離であると同時に、彼との間にある絶対的な価値観の断絶だった。
「殿下。問題が起きたのなら、隠すのではなく、ただ黙って直すべきです。民を救うことと、自らの過ちから逃げることを、同じ天秤に乗せないでください」
「ヴィクトリア……君は、私を……」
アルベルト殿下は、呆然と私を見つめた。
彼はようやく理解したのだ。私が「愛情」だけでなく、彼にとって都合の良い「機能」としても、二度と彼の手の届く場所には戻らないという事実を。
怒鳴り合いはなかった。ただ、冷たく決定的な決裂だけが、控え室の空気を満たしていた。
「……失礼いたします。私を待つ人がおりますので」
私は完璧な淑女の礼を取り、彼を残して控え室の扉を開けた。
*
王宮の公開待合室に戻ると、レオンハルトは壁際の長椅子に腰掛け、手元の分厚い本を開いていた。
静かに待っていてくれた彼に感謝しようと声をかけかけた私は、ふと足を止めた。
彼の視線は確かに本のページに向けられている。だが、その指先は、全く同じ行を何度も何度もなぞり続け、私が歩み寄る間にも、ページは一度もめくられなかったのだ。
私と元婚約者が密室で二人きりになっている間。彼は、私の選択を信じて行動の束縛はしなかった。だが、彼の内側では「彼女の心がまたあの男へ向かってしまったら」という、コントロールの効かない焦燥と嫉妬が荒れ狂っていたのだ。
なんて不器用で、愛おしい人だろう。
「……レオンハルト」
私が柔らかく名前を呼ぶと、彼は弾かれたように顔を上げ、本をバタンと閉じた。
「……終わったか」
「ええ。もう二度と、あの方とお話しすることはありませんわ」
私がきっぱりと告げると、彼の強張っていた肩の力が、ふっと抜けるのが分かった。
彼は面会の内容を何一つ詮索せず、ただ立ち上がって私のもとへ歩み寄り、私の手から鞄を受け取ってくれた。
「帰ろう、ヴィクトリア。私たちの領地へ」
「……はい」
私は彼の隣に並び、王宮の冷たい石畳を歩き出した。
互いの手が触れ合うほどの距離。もう、誰に遠慮する必要もない、対等な二人の歩幅だった。
*
翌朝、十一月二日。
王宮は、冬の飢餓という未曾有の危機を前に、蜂の巣をつついたような騒ぎとなっていた。
エミール・ローデン次官補が実質的な責任者として取り仕切る内務省救恤局は、直ちに大口調達のための行動を開始した。前日から進めていた国内大商会との緊急買付契約を、計百八十トンで取りまとめる。これは十一月十二日までに分割で納入される予定であり、通常配給なら約二・九日分の時間を稼げる。
だが、根本的に不足している六百三十トンの大穴を埋めるためには、まったく足りない。
『――これより、冬期救恤備蓄の緊急大口調達に関する、三者事前見積もりを開始する』
エミールが血走った目で宣言し、集められた三つの組織の代表者に書類が配られる。
一つは、国内の有力大商会の連合。
一つは、南方の温暖な地域から船で物資を運ぶ西方海路組合。
ハルヴァルト商会連合の契約代理人も王都に常駐していた。国境出張所には留保在庫の範囲で数量を保証する権限があり、代理人はその保証と事前に定めた最低売価をもとに、売買条件を提示できる。内陸への急使は、その契約を履行するために各倉庫の割当と集荷順を確定する役目だった。
そして最後の一つ。
私は国家の監査人という立場を完全に手放し、今度は『北ルート共同事業の商務代表』として、一人の供給事業者の立場でその机の前に座っていた。




