第32話 数字は嘘をつかない、人はつく
十月三十一日の朝(監査D6)。
王宮の地下監査室の空気は、これまでになく張り詰めていた。
机の上には、昨夜ロザリー・ベルナール嬢が持ち込んだ内部資料の束と、私が三省の基礎帳簿から拾い上げた数字の矛盾点、そしてベルク宰相の息がかかった『数字の修正指示』のメモが並べられていた。ロザリーの写しにある受付番号を頼りに、エミールが原本を保全した。宰相府の発送簿と担当者の証言も揃い、写しだけに頼らず指示の経路を追えるようになっていた。
「……信じられない。これほど大規模な数字の操作が、たった数ヶ月の間に、誰にも気づかれずに行われていたというのか」
すべてを照らし合わせたエミール次官補が、血の気を失った顔で呟いた。
「魔法で食糧が消えたわけではありませんわ、エミール」
私は冷めた紅茶を一口飲み、手元の資料を指先で叩いた。
「数字は嘘をつきません。嘘をつくのは、いつだって人間です。……今回の六百三十トンもの備蓄不足は、誰か一人の悪党が引き起こしたものではありません。小さな思惑と怠慢が重なり合った、完全な『複合事故』よ」
「複合事故……」
「ええ。まず第一の原因は、アルベルト王太子殿下の指示による『秋口の備蓄放出』です」
私がアルベルト殿下の名前を口にすると、エミールがビクッと肩を揺らした。レオンハルトは壁に背を預けたまま、静かに目を閉じている。
「殿下は民衆の支持を得るため、安易に備蓄の一部を市場へ流しました。この時点では、冬までに補充すれば問題ないと踏んでいたのでしょう。そして第二の原因は、私の後任となった新しい調整役の『需要予測の甘さ』です。彼は会議を波風立てずに回すことを優先し、各省庁が自己保身のために出してきた過小な消費予測を、専門的な照合もせずにそのまま合算してしまいました」
「会議が成立したことと、必要な量が揃ったことを、私たちは混同していたのですね」
エミールの指が、予測表の端で止まった。私は次の支出簿を開いた。
「そして第三の原因。ベルク宰相は、放出された備蓄を補充するための予算を、自身の派閥工作のために他へ流用して先送りにしました。……ここからは、予測の誤りではありません」
「……それは、単なる怠慢では済みません」
エミールが言った。私は、ロザリーの写しと照合済みの『修正指示』の原本を示した。
「ですが、第四の原因は明確な悪意です。ベルク宰相は、現物の不足が王太子殿下や議会に露見するのを防ぐため、帳簿上の『表示単位』を変更させました。例えば、軽い袋も旧来の重い規格で換算するよう各倉庫の管理者に命じ、見かけの数字だけを『四十五日分』に膨らませたのです。……だから、帳簿と現物が物理的に合わなくなった」
「だ、だが、ヴィクトリア様!」
エミールが反論するように声を上げた。
「各省が提出した決算書には、責任者の『誓約印』が押されていました。私は、本人が責任を引き受けて署名した以上、換算の確認も済ませているはずだと……」
「印が保証するのは、誰が、いつ署名したかです。数字の正しさまでは保証しません」
私は原本の印影を指した。
「だから今、この印を使って指示した人物まで辿れた。記録は責任を追うために必要です。でも、現物を数える仕事の代わりにはならないのです」
便利な魔法の道具に頼り切り、自らの目で数字を疑い、足を使って現物を確かめるという労力を惜しんだ。それが、王宮という巨大な組織が陥った罠だった。
エミールは完全に打ちのめされたように項垂れ、両手で顔を覆った。
「……私の、責任です。会議の場に書類が揃ったことで満足し、その先の隙間を見ようとしなかった」
「いいえ。あなたが各省との窓口になってくれたおかげで、私は七日という短期間でここまで辿り着けた。自分を責めるのは後になさい。今は、明日のために報告書を仕上げるのが先です」
私は立ち上がり、最後のまとめ作業に取り掛かった。
*
翌、十一月一日(監査D7)。
王宮の鐘が、夕刻の六時――『十八時』を告げる重厚な音を響かせた。
私は監査室の机に、分厚い羊皮紙の束を揃えて置き、エミールへ向かって静かに宣言した。
「十八時です。……以上をもって、リース女伯ヴィクトリア・エルデンに委託された、王太子府運営に関する外部監査の全業務を終了いたします」
エミールが、緊張した面持ちでその報告書を受け取った。
「ヴィクトリア様。この報告書には……不足規模、複合原因、そして各人の責任線の特定に関する事実のみが記載されていますが」
「ええ。おかしなところがありますか?」
「その……不足する六百三十トンを補うための、調達先の推薦や、輸送手段の提案が一切記載されておりません。ヴィクトリア様の北ルートの伝手を使えば、ハルヴァルトからの調達も……」
「それは、私の権限ではありませんわ」
私はきっぱりと言い切り、エミールの言葉を遮った。
「私は外部監査人です。ここで特定の調達先や輸送業者を推薦すれば、のちに『自領の事業へ国費を流すために監査結果を誘導した』と、ベルク宰相の残党から必ず攻撃されます。……この報告書をもって、私は王都の行政に対する一切の決裁権を手放します。明日の調達は、救恤局であるあなたがた自身で、複数の事前資格業者から相見積もりを取って、正当に選定してください」
監査と調達の法的な切り離し。
私が最後まで自分の線を守り抜いたことで、この報告書は、証拠と判断の過程を第三者が検証できる形になったのだ。
「……立派なものだ」
ずっと壁際で黙って作業を見守っていたレオンハルトが、静かに歩み寄ってきた。彼は私の机の上にあったインク壺に蓋をし、ペンを片付けてくれる。
「君の仕事は終わった。もう、この王宮で君を縛るものは何一つない」
「ええ。……さあ、北へ帰りましょう、レオンハルト」
私は彼に向かって、憑き物が落ちたような晴れやかな笑みを向けた。
エミールに深く一礼し、私たちは足早に監査室を後にした。
地下から階段を上り、一階の長く美しい回廊へ出る。窓の外はすでに暗く、冷たい冬の風がガラスを叩いていた。
「ヴィクトリア」
回廊を抜けようとした時、不意に、暗がりから声がした。
足を止めて視線を向けると、そこには護衛も連れず、単身で柱の陰に立っている人物がいた。
「……アルベルト殿下」
私の元婚約者であり、今回の報告書によって、その致命的な政策判断の甘さが白日の下に晒されようとしている王太子だった。
アルベルト殿下はひどく憔悴した顔で私に歩み寄り、そしてレオンハルトを一瞥してから言った。
「すまないが……少しだけ、君と私的に話がしたい。二人きりで」
彼は、かつて私が王宮を去った夜会で見せたような傲慢さはなく、ただすがるような目で私を見つめていた。




