第31話 完璧だったあなたが憎かった
王宮の地下に設けられた監査室の隣には、外部からの来客や使者を待たせるための公開待合室が併設されている。
十月三十日、監査の五日目(D5)の深夜。
その待合室に、不釣り合いなほど上質な、しかしどこか乱れたドレス姿の女性が立っていた。アルベルト王太子殿下の恋人であり、王太子府付慈善監督官を務める男爵令嬢、ロザリー・ベルナールだった。
「……夜分遅くに、申し訳ありません。どうしても、ヴィクトリア様にお渡ししたいものがあって」
ロザリーは青ざめた顔で、腕に抱え込んだ分厚い革張りの書類鞄をきつく抱きしめていた。その瞳には、王太子の庇護を頼みにするような余裕はない。ただ、何かに追い詰められ、ギリギリのところで立っているような危うさがあった。
私はペンを置き、立ち上がった。
「分かりました。隣の応接室でお話を伺いますわ」
私が歩み出ると、傍らで資料の束と睨み合っていたレオンハルトが、無言で立ち上がった。
だが彼は、私についてこようとはしなかった。
「私は輸送技術の協力者としてここにいる。王太子府の内部告発や、その内情に関わる権限はない。……ここで待つ」
レオンハルトはそう言って、再び丸椅子に腰を下ろした。
彼はいつだって、私の領域を侵さない。彼なりの厳格な線引きと、私への信頼に、私は小さく頷いて応えた。
応接室の扉を閉め、二人きりになる。
私はロザリーに長椅子を勧め、向かい側に座った。王宮の警備兵の足音すら遠く感じる、密室の静寂だった。
「それで、私に渡したいものとは?」
「……これです」
ロザリーは書類鞄を開き、いくつかの羊皮紙の束を取り出して、テーブルの上に置いた。
それは、財務省と内務省の印章が複雑に押された、救恤備蓄に関する内部稟議書や、配給計画の草案だった。
「私は一年前、ベルク宰相の強い推挙で、慈善監督官という名誉職に就きました。孤児院や炊き出しの現場の支援ができるならと、喜んでお引き受けしたのです」
ロザリーは、自分の膝の上で両手をきつく握りしめ、震える声で語り始めた。
「ですが、実際に私のもとに持ち込まれたのは、意味も分からない複雑な数字が並んだ書類の束ばかりでした。官僚たちは『慈善団体との連携に問題がないか、確認の署名をしてほしい』と言い、ろくな説明もせずに私の印章を求めてきました」
「……でしょうね。ベルク宰相の狙いは、あなたに実務をさせることではなく、王太子府の決定に対する『責任の受け皿』にすることですから」
私が淡々と事実を告げると、ロザリーはハッとしたように顔を上げ、やがて自嘲するように唇を歪めた。
「ええ、最近になってようやく私も気づきましたわ。彼らが欲しいのは私ではなく、私の役職が持つ署名だけなのだと。私がいくら『現場の孤児院にはいつパンが届くのか』と尋ねても、彼らは冷たい目で私を見るだけでした。そして……」
ロザリーの目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
「そして、何かにつけてこう言うのです。『ヴィクトリア様はこんな数字、一読しただけですぐに署名されましたよ』『前の調整官はもっと優秀だった』と」
「……」
「毎日、毎日、毎日! 分からない書類を突きつけられては、あなたの名前を出されて! ……ヴィクトリア様。私、あなたが憎かった。あなたが完璧だったせいで、私が何もできない愚か者みたいに扱われるのが、本当に、本当に悔しくてたまらなかった!」
それは、飾ることのない、等身大の女性としての痛切な叫びだった。
彼女は悪女ではない。ただの、少し夢見がちで恋に恋する貴族の娘だったのだ。それが、政治という名の冷酷な機械に巻き込まれ、自分の許容量を超える重圧に押し潰されそうになっていた。
「ええ。比較され、できない自分を責められる苦しさは、私にも理解できます」
私は、彼女を『自業自得だ』と正論で叩き切ることはしなかった。だが、可哀想にと安易な同情をかけることもしない。
ただ、彼女の痛みを一つの事実として受け止めた。
「でも、ロザリー様。私を憎んだところで、あなたの仕事ができるようになるわけではありませんわ。……そしてあなたも、それが分かっているからこそ、今夜ここへ来たのではありませんか?」
私の静かな問いかけに、ロザリーは袖口で乱暴に涙を拭い、真っ赤な目で私を睨み据えた。
「分かっていますわよ、そんなこと。……自分が政治も実務も知らないまま、アルベルト殿下の傍にいたいという軽率な思いだけで、分不相応な座に座ってしまったことは」
彼女のその言葉には、かつてのような甘えはなかった。自分の無知が招いた結果を、彼女は彼女なりに引き受けようとしていた。
「先日、彼らは私に『冬の備蓄には問題がない』とする配給計画の最終確認書に署名させようとしました。私は、それを拒否しました」
「拒否を?」
「はい。内容が理解できない以上、私の権限を越えて責任を負うような虚偽の書類に、署名などできません。……そして、彼らが私から隠そうとしていたこれらの内部資料を、職務上の閲覧権限を使って書き写し、持ち出してきましたわ」
ロザリーは、テーブルの上の書類を私の方へ押しやった。
「ヴィクトリア様。私はあなたのように国を動かすことはできません。でも、せめて私が慰問に行った孤児院の子供たちや、炊き出しに並ぶ貧しい人たちを、これ以上騙すような真似の片棒を担ぐのは嫌なのです。……どうか、この数字を正しく読んでください」
「……確かに、受け取りましたわ」
私はその書類の束に手を置き、彼女に深く一礼した。
「勇気ある決断に、敬意を表します。この資料は、必ず王都の民を救うために役立てます」
ロザリーは私の言葉を聞くと、憑き物が落ちたように深く息を吐き出し、「……それだけですわ。失礼します」と短く告げて、足早に応接室を出ていった。
*
応接室の扉を開け、私が公開待合室へと戻ると。
壁際の丸椅子に腰掛けたレオンハルトが、監査室から移ってきて、私を待っていた。
「……終わったか」
「はい。お待たせいたしましたわ」
私が歩み寄ると、彼はゆっくりと立ち上がり、机の上に置いてあったマグカップの一つを無言で私に差し出した。
受け取ると、陶器越しにじんわりとした熱が伝わってくる。中には、王宮の夜勤用務員に頼んで淹れてもらったのだろう、たっぷりと蜂蜜の入った温かいお茶が湯気を立てていた。
「ロザリー嬢は、ずいぶんと泣きはらした顔で帰っていったが。……君が泣かせたのか?」
「人聞きの悪いことをおっしゃらないでください。私はただ、彼女の話を聞いていただけですわ」
私が苦笑しながらお茶をすすると、甘く温かい液体が、冷え切っていた胃の腑に染み渡っていく。
「そうか」
レオンハルトはそれ以上、面会の内容を詮索したり、無理に事情を聞き出そうとはしなかった。彼が権限の線を引いた以上、彼から野暮な質問をすることはない。
ただ、少し疲れた様子の私の顔を見て、微かに眉を下げただけだ。
「少し休め、ヴィクトリア。温かいものを飲んで、少しでも目を閉じるんだ。……明日も、君のその頭脳に頼らなければならないからな」
彼の手が、カップを持つ私の冷えた手の上に、そっと重ねられた。
ごつごつとした、剣だこのある大きな手。その手から伝わる確かな体温が、私のささくれ立っていた神経を、ゆっくりと解きほぐしていく。
「……ありがとう、レオンハルト」
私は彼の手の温もりを感じながら、ロザリーが置いていった分厚い資料の束に目を落とした。
休むのは、この資料の全容を把握してからだ。
私はカップを机に置き、内部資料のページをめくり始めた。
そして数分後。私はその中の一枚の書類――宰相府の印章が押された、古びた覚書の写しを見て、ハッと息を呑んだ。
「……見つけましたわ」
そこに書かれていたのは、探して求めていた決定的なもの。
各省の自己申告の数字をどのように『見栄え良く』合算するか、そして、備蓄の単位をどのように操作して報告を上げるかという、ベルク宰相の息がかかった『数字の修正指示』の痕跡だった。




