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婚約破棄ですか。では、明日からの決裁はお任せします~北の領地で辺境伯と交易を始めたら、王宮から戻れと言われました~  作者: 他力本願寺


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第30話 細い交易路を太くする

王都アレシアの地下監査室は、インクの匂いと張り詰めた静寂に支配されていた。


 外部監査が始まって二日目、そして三日目にあたる十月二十七日から二十八日。私とレオンハルト、そして王都側の窓口として付きっきりになっているエミール・ローデン次官補は、交代で休みながら三省の帳簿と現場の報告書を突き合わせていた。


「……計算が、終わりました」


 私がペンを置き、最終的な集計用紙を机の中央に滑らせると、エミールが血走った目でそれを覗き込んだ。


「王都の救恤用主食の通常消費量は、一日あたり六十三トン。宰相府が公開していた帳簿上の備蓄は四十五日分、二千八百三十五トン。……対して、十月二十日朝の実在庫は三十五日分の二千二百五トン」


 私は乾いた声で、事実だけを読み上げた。


「不足規模は十日分。実に『六百三十トン』の食糧が、王都の冬の計画から完全に欠落しています」


「六百三十トン……!」


 エミールは絶望的な声を出して頭を抱えた。


「無理だ。これほどの大口を、今から国内で調達することなど不可能です。秋の収穫はすでに商会を通じて各地へ分配されており、王都の市場にもそんな余剰はありません。冬を越す前に、王都の民は飢えます」


「エミール。調達の準備は、監査と並行して救恤局で進めてください。ただし、私たちとは担当を分けて」


 エミールは顔を上げ、手元の調達台帳を開いた。


「国内の商会にはすでに照会しています。百八十トン前後なら、かき集められそうです。残りは西方海路組合と、ハルヴァルト穀物商会連合へ照会します」


「その照会条件は、各候補へ同じものを出してください。私たちも供給者になり得ます。北だけに、未公開の情報を渡すことはできません」


 私はレオンハルトと共に、調達台帳の前から離れた。


 ハルヴァルトは今年、豊作と南方との関税紛争が重なり、内陸に売り先を求める穀物を抱えている。だが、北が選ばれるかは価格と到着日次第だ。私が監査人の席から決めていいことではない。


「明日、十月二十九日に、在庫、価格、出荷可能日を照会します。正式発注までの仮押さえを受けてもらえるかも、私の責任で確認します」


 エミールが文面を整える。私は不足規模の検算へ戻った。


 王都から国境交易都市までの塔電は二日以内。三十日に出張所へ届けば、そこから先はハルヴァルトの急使が引き継ぐ。国内に塔電網のない彼らが内陸の穀倉へ到達するのは十一月一日になる。


 急使は荷車の三分の一ほどの日数で走れるが、穀物そのものを速く運べるわけではない。今、この照会を出さなければ、契約後の集荷に間に合わなかった。


 二十九日、救恤局は不足量の暫定値と必要な納入時期を公表し、各候補へ同じ調達照会を送った。北ルートの回答は、監査に参加していないトーマスとオズワルドへ委ねる。私たちは選定資料の作成にも審査にも加わらない。


 *


「ヴィクトリア」


 監査室の机に突っ伏して仮眠を取ろうとしていた私は、レオンハルトの静かな声で目を覚ました。


 彼は一枚の紙片を私の手に握らせた。


「リースからの塔電だ。エレナとオズワルドから、『受入準備、および既存百八トンの出荷準備完了』とのことだ」


 私はその短い文面を見て、ふっと目元を緩ませた。


「……本当に、優秀な人たちですね。受け取った照会だけで、必要な準備を整えてくれる」


「ああ。君が任せた者たちは、自分で動いている」


 レオンハルトもまた、誇らしげに微笑んでいた。


 十月三十日までに、不足規模の裏づけは揃った。供給候補の調査も、救恤局の手で動き始めていた。


 だが、監査を完了させるためには、もう一つ越えなければならない壁があった。


「問題は、この六百三十トンもの不足を、誰が、何の権限で隠蔽し、帳簿の表示単位を書き換えさせたのか……その根本原因を証明する、決定的な内部文書がないことですわ」


 私は各省の書類の山を睨みつけた。


 状況証拠から、ベルク宰相の指示であることは明白だ。だが、彼は狡猾だ。自分の署名を避け、宰相府名義の指示を部下に出させているらしい。これでは、責任の所在を報告書に明記することができない。


「どこかに、宰相府の介入を示す指示書が残っていればいいのだがな……」


 レオンハルトが腕を組んで思案していると、監査室の重い扉が控えめにノックされた。


 時刻は深夜に近い。エミールは仮眠のために別室へ下がっており、ここにいるのは私たち二人だけだ。


「誰かしら。どうぞ」


 私が声をかけると、扉がゆっくりと開き、公開待合室から一人の女性が姿を現した。


 上質な、だがどこか乱れたドレス。青ざめた顔に、思い詰めたような瞳。


 彼女の腕の中には、分厚い書類の束がしっかりと抱えられていた。


「……夜分遅くに、申し訳ありません」


 震える声でそう言ったのは、アルベルト王太子の恋人であり、王太子府付慈善監督官に据えられていた、ロザリー・ベルナール男爵令嬢だった。

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