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婚約破棄ですか。では、明日からの決裁はお任せします~北の領地で辺境伯と交易を始めたら、王宮から戻れと言われました~  作者: 他力本願寺


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第29話 恋人として、あの王宮へ

王暦六一三年、十月二十日。


 王都から届いた国王陛下の公用塔電を受けた私たちは、翌朝すぐさまリース伯領を出発した。


 王都アレシアまでの道程は、通常で五日。


 季節はすでに初冬に足を踏み入れかけており、吹き付ける風は冷たかったが、王宮へ向かう私の馬車の中は不思議なほど温かかった。


「……王都の空気を吸うのは、これで最後にしたかったんだがな」


 向かいの席に座るレオンハルトが、窓の外を流れる枯野の景色を見つめながら、深いため息をついた。


 彼は国境軍の指揮を副官に任せ、「輸送技術協力者」という名目で私の監査に同行してくれている。彼の膝の上には、王都での行動予定や軍用路の運用に関する書類が積まれていた。


「申し訳ありませんわ、レオンハルト。私の個人的なけじめのために、あなたまであの魔窟に巻き込んでしまって」


「謝るな。私は君を一人で行かせたくなかったから、自分の意思でついてきただけだ」


 彼は視線を私に戻し、微かに口元を和ませた。


「それに、私たちはもう単なる仕事の相棒ではないだろう? 恋人を一人で戦場へ送り出すほど、私は冷血な男ではないつもりだ」


「……ええ。本当に、心強いですわ」


 私は彼に向かって、心からの微笑みを返した。


『恋人』。


 その響きが、まだ少しだけ気恥ずかしく、けれどどうしようもなく私の心を温めてくれる。


 一年前、アルベルト殿下から婚約破棄を突きつけられ、一人で王都から北へ向かった時の、あの張り裂けそうに寒々しい馬車の中の空気とは全く違った。私には今、帰るべき場所があり、隣で同じ重さを背負ってくれる人がいる。


 彼と二人でなら、あの王宮にどんな罠が待ち受けていようとも、決して膝を折ることはないという確信があった。


 *


 出発日を一日目として五日目の十月二十四日、私たちは王都へ到着した。


 一晩休み、翌二十五日、正式な委任状と契約を確認するため王宮へ向かった。


 中央階段を上り、大広間へと足を踏み入れた瞬間、幾百もの視線が一斉に私たちに突き刺さった。


 無理もない。一年前に婚約を解消され、その後の公開審理で引き抜きの疑いを退けた女伯が、今度は国王に招かれた監査人として現れたのだ。


 ひそひそと囁き交わされる声には、露骨な好奇心と、かすかな哀れみが混じっていた。


『見ろ、エルデン公爵令嬢だ……』


『今度は宰相府の帳簿を調べるそうだ……』


『それにしても、隣にいるあの恐ろしげな男は……まさか、北のヴァルグレン辺境伯か?』


 悪意に満ちた視線の波。


 かつての私なら、完璧な淑女の仮面を被りながらも、胃の底が冷え切るようなプレッシャーを感じていただろう。


 だが今の私は、彼らの言葉に以前ほど心を乱されなかった。


 私は背筋を伸ばし、堂々と大理石の床を踏みしめる。私のすぐ隣には、漆黒の軍服に身を包んだレオンハルトが、岩のように揺るぎない足取りで並んで歩いていた。彼が放つ圧倒的な威圧感の前に、好奇の視線を向けていた貴族たちは次々と目を逸らし、波が割れるように私たちの進む道を開けていく。


 今は、一人ではない。


 彼と並んで歩くこの瞬間、私は過去の呪縛から完全に解放されたのだと、心から実感していた。


「――よく来てくれました、ヴィクトリア様」


 大広間を抜けた先の応接室で私たちを待っていたのは、内務省救恤局の次官補、エミール・ローデンだった。


 彼は一年前よりもさらにやつれ、目の下には消えない隈が刻み込まれていたが、私の顔を見ると心底ほっとしたように息を吐き出した。


「エミール次官補。ご無沙汰しております。……大変なことになっているようですね」


「はい。トーマス・リード殿からの塔電を受け、私が各省の抵抗を押し切って倉庫の実地調査を行った結果……陛下の御耳に達し、今回の外部監査の打診となりました」


 エミールは、机の上に用意された『監査受託契約書』を私の前に滑らせた。


 私はそれに目を通し、ペンを手に取る前に、彼を真っ直ぐに見据えた。


「エミール。私は国王陛下からのご依頼をお引き受けします。ですが、この契約書に署名する前に、いくつか明確にしておかなければならない『絶対条件』がありますわ」


「絶対条件、ですか」


「ええ。まず第一に、これは『復職』ではありません。私は国家に雇い直されるわけではなく、独立した外部の専門家として、この業務を請け負います」


 エミールがゴクリと喉を鳴らした。


「第二に、監査の期間は明日、十月二十六日から十一月一日までの『七日間限定』とします。王都ではすでに十月二十日から救恤備蓄の放出が始まっていると聞きました。基準日は放出前の十月二十日朝に統一し、それ以後の出納は別に照合します。期限を延ばせば、それだけ調達と輸送に使える日が失われます」


「七日間で、三省庁の帳簿を洗い出すと……!? しかし、それではあまりにも時間が……」


「やります。あなたに王都側の窓口として、資料の取り寄せに全力を尽くしていただけるなら」


 私の決意に満ちた目を見て、エミールは圧倒されたように黙り込み、やがて深く頷いた。


「そして第三に。これが最も重要です」


 私は言葉を区切り、より一層声を響かせた。


「私は現在、リース伯領の領主であり、『ヴァルグレン=リース北ルート共同事業』の商務代表でもあります。この監査を通じて王宮内部の不足情報を知り得る立場にあるため、のちに『外部監査人が、自領の事業へ国費を流すために情報を操作した』という利益相反の疑いをかけられる危険があります」


 王都の政治の恐ろしさは、私が一番よく知っている。今は私を頼っていても、事態が収束すれば、必ず責任を押し付け、泥を塗ろうとする輩が現れる。


「ですから、私は利益相反の可能性をここに公開します。その上で、私が十一月一日に提出する最終的な監査報告書には、不足の規模と原因だけを記載し、不足分を補うための『特定の調達先や輸送事業者の推薦』は一切入れません。調達の選定と発注は、監査終了後、私の権限の及ばないところで、救恤局であるあなたたち自身に行っていただきます。……この条件が呑めないなら、私は今すぐリースへ帰ります」


 私がきっぱりと言い切ると、隣で聞いていたレオンハルトが、かすかに満足げな笑みを浮かべたのが気配で分かった。


 エミールは目を見開き、やがて深々と頭を下げた。


「……承知いたしました。ヴィクトリア様の条件、すべて契約書に特記事項として追記いたします。どうか、我々をお救いください」


「救うのではありません。私は、数字の嘘を暴くだけですわ」


 私は修正された契約書に、リース女伯としての誓約印を押し、自らの名前を署名した。


 *


 翌、十月二十六日。監査初日(D1)。


 王宮の地下に設けられた薄暗い監査室には、内務省、財務省、外務省から強制的に徴収された、膨大な書類の山が運び込まれていた。


「……ひどい有様だな。これが一国の備蓄管理の記録とは」


 レオンハルトが、無造作に積まれた帳簿の束をめくりながら、呆れたように吐き捨てた。


 彼には輸送技術協力者として、物理的な容量計算と、荷馬車の稼働記録の照合を手伝ってもらっている。


「エミール。内務省の第三倉庫の出納帳と、外務省の港湾検疫記録の数字が、三月分からまったくリンクしていませんわ。これでは、いつ、どこからどれだけの穀物が倉庫に入ったのか、追跡すら不可能です」


「申し訳ありません……。調整役が変わってから、各省が『自省の数字は正しい』と主張するばかりで、省をまたいだ原本の照合が一度も行われていなかったのです」


 窓口役として走り回っているエミールが、青ざめた顔で報告してくる。


 私はため息をつきながら、トーマスがリースで不一致を発見した『公開統計』の数字と、エミールが十月十九日に調べ、放出開始前までの出納を照合した『現物』の数字を机の上に並べた。


「公開統計上は、王都の救恤用備蓄は『二千八百三十五トン』。これは王都の救恤用主食の通常基準である一日六十三トンを当てはめれば、ちょうど四十五日分に相当します」


 私はペンを握り、エミールが数えてきた現物の数字に赤線を引いた。


「しかし、十月二十日の放出開始前の実在庫は……『二千二百五トン』。日割りにして三十五日分。差し引き六百三十トン、十日分もの食糧が、どこにも存在していませんわ」


「だからこそ、ヴィクトリア様にお願いしたのです! この消えた十日分が、単なる計算ミスなのか、あるいは誰かが横流しをしたのか。それを突き止めなければ、調達の計画すら立てられません!」


 エミールが悲痛な声を上げる。


 私は、公開統計の数字と各省庁の基礎帳簿を交互に見比べた。


 計算ミスではない。横流しでもない。


 私は、ある一つの『不自然な規則性』に気づき、ペンの動きをピタリと止めた。


「エミール。……これを見てちょうだい」


 私は彼を机に呼び寄せ、財務省の古い予算執行記録と、直近の公開統計の表示を指差した。


「横流しされたわけでも、盗まれたわけでもありませんわ。補充済みとされた分が、そもそも入庫していない可能性が高いわ。……この換算の変更も、説明を求める必要があります」


 帳簿上の四十五日分という数字と、現場の現物。


 その間に横たわる巨大な闇の正体に触れた瞬間、監査室の空気は氷のように冷たく凍りついた。

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