第28話 消えた冬の備蓄
王暦六一三年、十月十八日。
夏祭りでの静かな誓いから数ヶ月。木々の葉はすっかり落ち、リース伯領には間もなく二度目の長い冬が訪れようとしていた。
『ヴァルグレン=リース北ルート共同事業』は順調に商流を拡大し、領地の倉庫群は冬越えの物資で満たされていた。私は領主邸の執務室で、暖炉の火にあたりながら来春の計画書に目を通していた。
「ヴィクトリア様……! 至急、ご確認いただきたい数字が!」
その穏やかな空気を引き裂くように、財務官のトーマスが執務室に飛び込んできた。
常に冷静沈着な彼が、血の気を失った真っ青な顔をしている。手には、王都から取り寄せた分厚い官報と、我々共同事業の『実輸送記録』の帳簿が握られていた。
「どうしたの、トーマス。そんなに慌てて」
「王都が先日発表した『冬季備蓄計画』の公開統計です。……我々が春から照会を続けてきた各省の実績が、今回の官報でようやく出揃いました。国境経由で王都へ送り込んだ穀物の納品量と、王都の発表している備蓄量、そして例年の消費量の計算が、まったく合いません」
彼は荒い息を吐きながら、私の机の上に二つの帳簿を並べた。
「公開統計上は、王都の救恤用備蓄は『四十五日分』確保されていることになっています。ですが、我々の輸送記録と、各省庁の予算執行状況から逆算すると……実際の王庫の現物は、推計では三十五日分前後。つまり、約十日分を裏づける入庫が見当たらないのです」
「十日分……? 王都の人口一八万人の、十日分の主食が?」
私は目を見開いた。
それは、計算ミスや書類の紛失で済まされる規模ではない。
私はトーマスからペンを奪い取り、二つの帳簿の数字を猛烈な勢いで突き合わせ始めた。
なぜ、こんな巨大な誤差が生じたのか。数字を追ううちに、かつて王宮で私が担っていた「横断調整」の空白が、恐ろしい化け物へと成長していたプロセスが浮き彫りになってきた。
「……なるほど、そういうことね」
私はペンの尻で、公開統計の不自然な項目をトン、と叩いた。
「一年前、アルベルト殿下が私の後任として立てた若手の調整役。彼は、各省庁の顔を立てて『会議を波風立てずに回すこと』には見事に成功したわ。エミールも、彼が会議を成立させたことは認めていた」
「はい。ですが、それがどう繋がるのですか?」
「会議は回っても、誰かが『備蓄と物流の数字を横断的に専門照合する』という、嫌われ役の作業をやらなければならなかったのよ。でも彼はそれを避け、各部署の自己申告の数字をそのまま鵜呑みにして合算しただけだった」
そこへ、複合的な要因が重なったのだ。
アルベルト殿下が民衆からの支持を得るために行った、備蓄の一部放出という人気政策。新調整役による、楽観的すぎる冬の需要見積もり。
そして何より、ベルク宰相の介入だ。
「補充予算の執行が遅れている。それなのに、公表された重量だけが増えているわ。途中で換算基準が変わった疑いがある。誰が何のために変えたかは、原本を見なければ断定できないけれど」
一年前、王都で「会議が回るようになった」と聞いた。
それが、誰も全体を監視しなくなった油断を生み、一年という時間をかけて、国家の心臓部に空洞を作り出していたのだ。
「……このまま本格的な冬に突入すれば、一ヶ月後には王都の救恤備蓄が底をつき、配給が止まります。暴動が起きかねません」
トーマスの声が震えていた。
私は即座に立ち上がった。
「すぐに王都へ照会をかけます。書簡では五日もかかるわ。公用の塔電網を使って」
「ですがヴィクトリア様、塔電で送れるのは公用定型短文のみです。これほど複雑な数字の不一致の詳細を、短い文章で伝えることは不可能です」
「詳細は送らなくていい。ただ、現場の実務官に『現物を見ろ』とだけ伝えれば十分よ」
私は白紙のメモ帳を引き寄せ、王都の内務省救恤局にいるエミール・ローデン宛てに、送電用の短い文章を書き殴った。
『ビチクトウケイ ニ ジュウダイナ ギギ アリ。シキュウ ゲンブツ ヲ カクニン サレタシ』
私たちが打ったこの短い塔電が王都へ届いたのは、その日の夕刻だった。
*
翌、十月十九日。
エミールからの返電で、各省の抵抗を押し切って倉庫の実地確認を行ったと知った。
帳簿と現物の乖離が露見し、宰相府が公表した統計にも疑いが及んだのだ。報告には、備蓄量の見直しと緊急対応の協議が始まったとあった。
そして、その日の夕方。国王名義の公用塔電が届いた。内容は外部監査の打診と登城要請。正式な委任状と契約条件は王都で手渡されるという。
「……国王陛下からの、直命ですわ」
執務室に集まったレオンハルト、トーマス、オズワルドの前で、私は塔電の受信票を広げ、その内容を読み上げた。
「宰相府自身が疑義の対象となったため、内務省や財務省の内部監査では、もはや誰もその結果を信用しない。ゆえに、王宮外の独立した立場にあり、かつ商流の数字に明るい私に対し……『七日間限定の外部監査』を依頼したい、と」
「七日間、ですか」
トーマスが眉をひそめた。
「短すぎます。三省にまたがる帳簿を洗い出し、不足の正確な規模と原因を特定するには、あまりにも時間が足りません」
「それでも、七日で終わらせなければならないのよ。王都ではパニックを防ぐため、明日、十月二十日から救恤備蓄の放出を開始すると決定したそうですから」
放出が始まれば、現物の数字は毎日変動し、正確な在庫の把握はより困難になる。
到着後に原本を受け取り、七日以内に不足を確定する。調達と輸送の日数を残すには、監査を長引かせる余裕はなかった。放出分は日々の記録から差し戻し、開始前の在庫と照合しなければならない。
「……受けるのか、ヴィクトリア」
壁際に寄りかかっていたレオンハルトが、静かに問うた。
「監査を引き受けるということは、君を切り捨てたあの王宮へ、再び足を踏み入れるということだぞ。彼らの尻拭いのために、君が泥を被る義務はない」
「義務はありませんわ」
私は受信票を机に置き、真っ直ぐに彼を見た。
「ですが、王都の民には罪はありません。あのまま放置すれば、罪のない人々が冬の寒さと飢えで命を落とします。それに……私自身の誇りのためにも、彼らが逃げ出した数字のケリは、私がつけたいのです」
私の決意に揺らぎがないことを見て取ると、レオンハルトは壁から背を離し、ゆっくりと私のもとへ歩み寄ってきた。
そして、傍らにいたトーマスやオズワルドの目も気にせず、私の肩を力強く抱き寄せた。
「……分かった。ならば、私も輸送技術の専門家として、監査の協力者という名目で同行しよう」
「レオンハルト様……? でも、領地の軍務が」
「副官に任せてある。私とて、君を一人であの魔窟に送り出すほど、聞き分けの良い男ではないのでね」
彼の低い声が、耳元で温かく響いた。
私は小さく笑い、彼の手の上に自分の手を重ねた。
一年前。
婚約を破棄され、婚約と職を失い、一人で歩き去った王宮の広間。
だが今度は違う。私の隣には、私の価値を正しく理解し、対等に背負ってくれる彼がいるのだ。
私たちは、恋人として初めて、同じ王宮へと戻る決意を固めたのだった。




