第27話 必要だからではなく
王暦六一三年、夏。
レオンハルトに誘われて、ただの「私」として雪道を並んで歩いたあの日から、季節は静かに、けれど力強く巡った。
王宮からの不当な帰還命令も、関税の嫌がらせも跳ね除け、私たちの『ヴァルグレン=リース北ルート共同事業』は正式認可のもとで大きく花開いた。厳しい第一冬を乗り越え、移住者たちと地元民が完全に融和した北の地は、かつてないほどの豊かな夏を迎えていた。
「随分と人が出ているな。去年の秋祭りよりも活気がある」
色とりどりの提灯が飾られた街道を歩きながら、私服姿のレオンハルトが目を細めた。
今日は、リース伯領とヴァルグレン辺境伯領が合同で開催する、大規模な夏祭りの夜だった。私たちは護衛の兵も側近たちも遠ざけ、完全に二人きりで祭りの喧騒の中を歩いていた。
「ええ。街道が整備されて、南からの行商人も多く立ち寄るようになりましたから。これもすべて、閣下の護衛網と道路管理のおかげですわ」
「また仕事の話か?」
彼が呆れたように片眉を上げると、私は「あ」と小さく声を漏らし、苦笑した。
「ごめんなさい。つい、口をついて出てしまって」
「まあいい。君のそういうところにも、ずいぶんと慣れた」
レオンハルトは微かに口元を和ませ、私の歩幅に合わせてゆっくりと歩を進める。
屋台からは香ばしい焼き串の匂いや、冷やした果実水の甘い香りが漂い、広場の中央では楽しげな楽団の演奏が響いている。すれ違う領民たちは私たちに気づくと笑顔で会釈をしていくが、誰も仕事の相談で足を止めさせようとはしなかった。
本当に、穏やかで満たされた時間だった。
けれど、ただの「ヴィクトリア」として彼の隣を歩く時間が長くなればなるほど、私の胸の奥に沈んでいた小さな棘が、時折チクリと顔を覗かせるようになっていた。
「……レオンハルト様」
喧騒から少し離れた、静かな湖畔へと続く小道に差し掛かった時。
私は立ち止まり、彼の背中に声をかけた。
「どうした? 歩き疲れたか」
「いいえ。……少し、聞いていただきたいことがあるのです」
振り返った彼の真っ直ぐな視線に、私は逃げずに向き合った。
今夜、この言葉を口にしなければ、私はいつまでも過去の呪縛から逃れられない気がしたからだ。
「私は……怖いのです」
静かな夜の闇に、私の震える声が吸い込まれていく。
「王宮での私は、有能な調整官として、誰も損をしない完璧な計画を立てることでしか、誰かの隣にいる資格を得られないと思って生きてきました。役に立たなくなれば、切り捨てられると」
「……」
「今、この領地は素晴らしいチームのおかげで、私がいなくても回るようになりました。それは喜ばしいことです。でも……こうして何の役にも立たない、ただの女としてあなたの隣を歩いていると、ふと恐ろしくなるのです。いつか、何も生み出さない私に、あなたが失望してしまうのではないかと」
言葉にすれば、ひどく惨めで身勝手な不安だった。
有能な人間として振る舞いながら、その実、私は見捨てられることを誰よりも恐れる弱い人間なのだ。
だが、私の告白を聞いたレオンハルトは、呆れもせず、同情するような顔もしなかった。
彼は静かに私の前まで歩み寄ると、私の両肩を、その大きな手でそっと包み込んだ。
「ヴィクトリア」
低く、ひどく優しい声だった。
「私が君に惹かれたのは、君が完璧な商務代表だったからではない。君がどれほど有能であっても、どれほど不器用で頑固であっても……ただ、君という人間そのものに、隣にいてほしいと思ったからだ」
「レオンハルト様……」
「君が役に立たなくても構わない。仕事がなくても、何の手柄を立てなくても、ただこうして私と同じ景色を見て、同じものを食べて、笑ってくれればそれでいい」
彼の言葉が、私の心に刺さっていた棘を、氷を溶かすようにゆっくりと抜き去っていく。
「私のためにも、領地のためにも、もう無理をして価値を証明しようとしなくていい。……私はただ、君と共に生きていきたいんだ」
それは、飾らない、彼らしい真っ直ぐな求愛だった。
「役に立つから必要とされる」のではない。ただ、私自身が望まれている。その事実が、どれほど私の魂を救済してくれたか、彼には一生分からないかもしれない。
私の目から、止めどなく涙が溢れ出した。
「……私も、です」
私は涙を拭うことも忘れ、彼を見上げて応えた。
「私も、あなたと共に生きていきたい。どんな困難があっても、役に立たない日があっても……あなたの隣で、同じ明日を選びたい」
「……ああ」
レオンハルトは小さく息を吐き出すと、私の頬を伝う涙を親指でそっと拭い、そのまま私の顔を優しく引き寄せた。
夜空に、祭りの花火が大きな音を立てて咲いた。
その光の下で、私たちは静かに、初めて唇を重ねた。
温かく、少しだけ不器用なキスだった。六年間、王宮の冷たい石造りの部屋で凍え続けていた私の心が、完全に溶け去り、真実の愛で満たされた瞬間だった。
唇を離すと、湖面に花火の光がほどけていた。
レオンハルトは私の手を取り直した。帰り道を急がせる声はない。
今夜は、この約束を交わした私たちの時間だった。




