第26話 私がいなくても回る
リース伯領の執務室は、雪に反射する冬の淡い日差しに満ちていた。
私は、信じられないものを見るような目で、自分の執務机の上を見つめていた。
数日前まで、机がたわむほどの高さに積み上げられていた未決裁の書類の山。各商会との一時保証の契約書、配車表の承認願い、移住者の住宅手配の確認書。それらが、一枚残らず綺麗に片付いている。
そして、私の目の前には、誇らしげに胸を張るエレナと、眼鏡の位置を直すトーマス、そして満足そうに顎を撫でる代官のオズワルドが並んで立っていた。
「……信じられませんわ。私が倒れていた丸一日の間に、これらすべての処理を終えたと言うのですか?」
「はい。女伯様が事前に作成されていた『判断基準のマニュアル』と、それぞれの契約の重要度を示す付箋がありましたから」
オズワルドが、机の端に整理されたファイルの束を示した。
「馬車の配分と地元組合への仕事の割り振りは、私が組合長と直接交渉して枠を確定させました。王都から来た若い衆の大型馬車と、地元の季節雇いの馬車。それぞれが得意とする荷を分けることで、女伯様の計算通りの回転率を維持しております」
「金融組合との信用枠の回復および、一時保証の解除手続きは私が」
トーマスが一歩前に出て、数枚の書状を私に見せた。
「商務省から届いた『北ルート共同事業』の恒久認可の通知書を即座に金融組合へ提示し、法的な根拠が確定したことを盾に、縮小された信用枠を全額……いえ、今後の輸送量増大を見越して、以前の一・二倍の枠まで拡大させて再契約を結びました」
「そして、すべての商会に対する保証条件の切替と、それらに付随する書類の清書、および各所への発送手続きは、私が責任を持って完了させました!」
エレナが元気よく、しかし実務官としての誇りを感じさせる声で報告を締めくくった。
私は、三人の顔を交互に見つめた。
完璧だった。ただ私が残した書類の穴埋めをしただけではない。彼らはそれぞれが持つ「地元との交渉力」「財務の専門知識」「正確な文書管理能力」を最大限に発揮し、私の指示を待つことなく、自らの判断で連携して事業の危機を救ってくれたのだ。
「……私がいなくても、この領地は完璧に回るのですね」
ぽつりと、無意識のうちにそんな言葉が口を突いて出た。
王宮で政策調整官をしていた頃、私はその事実を何よりも恐れていた。私がいなくても会議が回り、国が動くということは、私という人間の『存在価値』が消滅することを意味していたからだ。
代わりに決める者がいないと言われるたび、私は仕事を引き受けた。引継ぎの記録は残しても、最終判断まで任せることはできなかった。必要とされなくなる怖さが、その抱え込みをさらに強くしていたのかもしれない。
だが今、彼らが私の手を離れて自走する姿を目の当たりにして、私の心に湧き上がってきたのは、恐怖でも喪失感でもなかった。
まるで冷たい強張りが解けていくような、深い安堵。
私が一人で泥を被るのではなく、彼らが自らの意思で責任を分け合い、共に立ってくれている。私が作りたかったのは、私がいなければ壊れてしまう脆いシステムではなく、誰も理不尽な重圧に潰されることなく、自由に働き続けられる場所だったはずだ。
「ヴィクトリア様……?」
私が無言で俯いたため、エレナが不安そうに覗き込んでくる。
私は顔を上げ、あふれそうになる熱いものを瞬きで誤魔化しながら、彼らに向かって深く、本当に深く頭を下げた。
「素晴らしい仕事ですわ。あなたたちをこのリース伯領に迎えることができて、私は本当に誇りに思います。ありがとう」
「じょ、女伯様! 頭を上げてください、私たちは当然の仕事をしたまでです!」
オズワルドが慌てて私を制止し、トーマスも照れ隠しのように咳払いをし、エレナは嬉しさのあまり目に涙を浮かべていた。
そこへ、少し開いていた執務室の扉から、パンと手を叩く快活な音が響いた。
「はいはい、感動の報告会はそこまでだよ!」
ヴァルグレン軍の家政と領地の救護・教育を取り仕切る、クララ様だった。彼女は大きなエプロン姿のまま、ずかずかと執務室へ入ってきた。
「病み上がりの領主様が、仕事場でうろうろするんじゃないよ。あんたの仕事はもうこの子たちが全部終わらせてくれたんだから、今日のあんたは文字通り『お払い箱』さ。さあ、こっちへ来な!」
「えっ、あの、クララ様!? 引っ張らないでください、せめて昨日の配車記録だけでも確認を……」
「駄目だと言ったら駄目! 数字のことはトーマスに任せておきなさい!」
私はクララ様に腕をがっしりと掴まれ、有無を言わさぬ力で執務室から引きずり出された。
残されたトーマスやエレナたちが、くすくすと笑いながら私たちを見送る声が聞こえた。
*
クララ様に連行された先は、領主邸から少し離れた場所に新設された「学校」だった。
そこは、王都からの移住者の子どもたちと、地元の子どもたちが、身分や生まれの区別なく共に文字や計算を学ぶための場所だ。ちょうど午前中の授業が終わり、食堂にあたる広いホールで昼食の準備が始まっていた。
「ほら、あんたはそこの席に座ってな。今日は『役に立たない客』として、ただご飯を食べていくだけだよ」
クララ様は私を木製の長椅子の端に座らせると、厨房の方へ消えていった。
ホールの中では、数十人の子どもたちが配膳の列を作り、賑やかな声を上げている。
しばらくすると、私の前にも木のお盆に乗った昼食が運ばれてきた。具沢山の野菜スープに、焼きたての丸パン、それに地元で採れた果実だ。
「領主様、これ、私たちが配膳したんだよ!」
「いっぱい食べてね!」
子どもたちが、私の顔を見て嬉しそうに報告してくる。王都の貴族の子供たちが見せるような、大人の顔色を窺うような作り笑いではない。純粋で無邪気な笑顔だ。
「ありがとう。とても美味しそうね」
私が微笑んで礼を言うと、子どもたちは満足そうに自分の席へと戻っていった。
私はスプーンを手に取り、温かいスープを口に運んだ。
――ふと、秋祭りの日のことを思い出した。
あの日、私はクララ様にお菓子作りの手伝いに駆り出されたが、どうしても「役に立たない時間」を過ごすことが苦痛で、無意識に仕事の隙間を探してそわそわしてしまっていた。自分がそこに座っているだけで許されるという感覚に、耐えられなかったのだ。
けれど、今はどうだろう。
私はスープを味わいながら、賑やかな子どもたちの声に耳を傾けている。
明日の配車表のことも、王都の関税のことも、今は頭の片隅に追いやられている。
『私がいなくても、仕事は正しく回る』。
その事実を心から信じられたことで、私の肩に乗っていた目に見えない重しが、嘘のように消え去っていた。
「(……なんて穏やかな時間かしら)」
私は、自分が最後まで立ち上がることなく、パンの最後の一欠片までゆっくりと味わって食べ終えたことに、自分自身で少しだけ驚いていた。
誰かの役に立たなくても、私はここに座っていていいのだ。
それがどれほど幸せなことか、私はこの北の地にきて、初めて知ることができた。
*
昼食を終え、クララ様や子どもたちに礼を言って学校を後にした。
冷たい冬の空気が頬を撫でるが、心の中は不思議なほどぽかぽかと温かかった。
領主邸へと続く石畳の道を歩いていると、前方から見慣れた黒い軍服の姿が近づいてくるのが見えた。
「ヴィクトリア」
国境軍の巡回を終えたらしいレオンハルトだった。彼は私を見つけると、少し歩調を速めて歩み寄ってきた。
彼の視線が、私の顔をじっと観察するように見つめる。
「……顔色が随分と良くなったな。だが、まだ無理はするなと言ったはずだ」
「ご心配をおかけしました。でも、今日はクララ様に強制的に学校で昼食を食べさせられただけで、仕事は一切しておりませんのよ」
私が少し誇らしげに言うと、レオンハルトは驚いたように目を丸くし、やがて噴き出すように低く笑った。
「そうか。あの仕事中毒の君が、大人しく『役に立たない客』になれたのか」
「エレナたちが完璧に実務をこなしてくれましたから。私が手出しをする隙なんて、もうどこにもありませんでしたわ」
私が素直に部下たちを褒め称えると、レオンハルトの表情がふっと和らいだ。
「彼らを信じて任せられるようになったなら、次は無理をする前に休めるといいな」
彼はそう言って、私の隣に並んで歩き始めた。
規則正しい彼のブーツの足音に、私のヒールの音が重なる。
しばらく無言で歩いた後、ふとレオンハルトが立ち止まり、少しだけ真面目な声音で切り出した。
「ヴィクトリア。体調が完全に戻ったのなら……医師が外出を許したら、少し私に付き合ってくれないか」
「療養が明けてからですか? 構いませんが、特に視察や協議の予定は入れていなかったはずですが……何か国境で問題でも?」
「いや、視察でも協議でもない」
彼は少しだけ視線を逸らし、不器用そうに言葉を探すように間を置いた。
「仕事抜きで、ただ君と外出したいんだ。……駄目だろうか」
その言葉に、私の心臓がトクン、と大きく跳ねた。
領地のためでも、事業のためでもない、明確な『公務外』の誘い。
冬の冷たい風の中で、彼の横顔がほんの少しだけ赤みを帯びているように見えた。
◆
同じ冬、王都の救恤局。
エミールは備蓄報告の端数に線を引いた。倉庫ごとに異なる袋数が、集計表では妙に揃った重量へ直されている。
「換算表の原本も取り寄せてくれ。この欄を照合したい」
部下が頷いたところへ、薪の放出枠を巡る再協議の呼出しが届いた。
エミールは照会票を未処理の箱に置き、「続きは来週だ」と立ち上がった。
翌週戻った回答は『各倉庫の所定基準により換算済み』の一行だけだった。原本は添付されていない。彼は再照会を出したが、各省の回答が揃わないまま、集計表は次の月のものに差し替えられた。
赤線を引いた欄だけが、古い綴りの中に残った。




