第25話 許可を取らなかった夜
「悪いが女伯様。前払いの保証金が出ねぇんじゃ、この荷は運べねぇ!」
吐く息も凍るような、リース伯領の中継倉庫前。
二人の地元の御者が、私に向かって腕を組み、強い口調で訴えかけていた。彼らの傍らには、冬毛に生え変わりつつある荷馬が寒そうに鼻を鳴らしている。
「そうだ! 雪道で馬に食わせる飼葉代だって馬鹿にならねぇんだ。大商会ならともかく、俺たちみたいな小さな運送屋は、毎回の前払いがなきゃ明日の生活も回らねぇ。約束の金が出ないなら、俺たちは今日でこの仕事を降りさせてもらうぜ!」
彼らの怒りは、もっともだった。
王都での御前会議において、私たちの『北ルート共同事業』の恒久認可は、商務省での「再審査」に回された。法廷での勝利により不当な嫌がらせは消えたが、正式な認可が下りるまでの期間が数週間から一ヶ月ほど延びてしまったのだ。
その結果、事態を不安視した王都の金融組合が、当事業に対する「短期信用枠」を大幅に縮小した。手元に現金が回らなくなり、末端で働く彼らへの保証金がショートしてしまったのである。
「……申し訳ありません。ですが、あと数週間、いえ、十日だけ待っていただけませんか。必ず資金は回します。ですから、どうかこの便だけは……」
「女伯様が俺たちのために頑張ってくれてるのは知ってまさぁ。でもね、気持ちだけじゃ、馬の腹は膨れねぇんですよ」
御者の男が、すまなさそうに、けれどはっきりとした拒絶の言葉を口にした。
その瞬間。
私の脳裏に、かつてこの領地で仕事を失い、店を畳むことになった運送職人ハンスの顔がフラッシュバックした。
――『女伯様が悪いわけじゃねえんです。ただ、俺たちのやり方じゃもう、あの速さには追いつけなくなったってだけでさぁ』
あの時、彼は怒りもせず、寂しそうに笑って私を許した。私が全体最適の数字ばかりを追い求め、彼らのような小さな存在をシステムから弾き出してしまったにもかかわらず。
また、繰り返すのか。
私の王都での根回しが足りなかったせいで。私の用意した事業の受け皿が、まだ完璧ではなかったせいで。また彼らから、誇りある仕事を奪うというのか。
「……待ってください」
私は、踵を返そうとした御者たちを強い声で引き留めた。
「金融組合の信用枠が戻るまでの間、不足する前払い資金は、私の『私産』を担保に短期で借り入れます」
「女伯様!?」
背後に控えていたトーマスが、血相を変えて声を上げた。
「なりません! リース伯爵家としての公金ならまだしも、あなた個人の財産を事業の担保に組み込むなど……万が一のことがあれば、あなたが破産します!」
「構いません。公金を動かせば議会の承認が必要になり、時間がかかります。これはあくまで、王都からの正式認可が下りるまでの『一時保証』よ。……私はもう二度と、私の計算違いで誰かの仕事を奪うわけにはいかないの」
私はトーマスの制止を振り切り、御者たちに向き直った。
「午後には、新しい条件での契約書と、保証金の手形をご用意いたしますわ。ですから、馬の引き具は外さないで」
私個人の資産を担保に入れたと聞き、御者たちは驚きながらも、「そこまで言うなら」と仕事に戻っていった。
だが、それは終わりの始まりだった。
私産を一時保証に組み込んだことで、当座の物流に関わる数十件もの契約書を、事業名義を保ったまま、私個人の保証範囲を追記する必要が生じた。
さらに、「もう誰一人として枠からこぼれ落とさない」という強迫観念に駆られた私は、本来オズワルドやトーマスに任せるべき配車の割り当てや、移住者向けの冬期住宅の審査まで、一件ずつ自分自身で確認しなければ気が済まなくなってしまった。
『ヴィクトリア様、ここは私が確認しますから……』
『いいえ、エレナ。この条項は王都の規定と違うから、私がチェックするわ』
彼らが手を差し伸べようとしても、私はそれをやんわりと拒絶し、ひたすらにペンを動かし続けた。他人の決裁でまた失敗が起きるのが、怖かったのだ。
一日、二日、三日。
睡眠時間は極限まで削られ、食事も立ったままパンを齧るだけ。
そして四日目の夜。
冷え切った執務室で、最後の契約書にサインをしようとペンを握った瞬間――不意に、目の前の景色がぐらりと傾いた。
床が顔に迫ってくる感覚の後、私の意識は暗い底へと沈んでいった。
*
ふわりとした、柔らかい沈み込み。
次に目を覚ました時、私はぼやけた天井を見つめていた。そこがリース領主邸にある自分の寝室のベッドであると理解するまでに、数秒の時間を要した。
「……気がついたか」
ベッドの傍らから、ひどく重い声が降ってきた。
視線を向けると、丸椅子に深々と腰掛けたレオンハルトが、組んだ両手の上に顎を乗せ、射抜くような目で私を見下ろしていた。その目の下には、彼らしからぬ疲労の影が濃く落ちている。
「レオンハルト、様……。私、どれくらい眠って……」
「丸一日だ。君が執務室で倒れた音を聞いて、護衛の兵が飛び込んだ。医者によれば、極度の過労と睡眠不足だそうだ」
丸一日。
その事実を認識した瞬間、私は弾かれたように上半身を起こした。
「いけません、まだ契約書の差し替えが数件残っています! それに、明日の配車の承認も……!」
「寝ていろ」
彼の手が、私の肩を乱暴ではないが、絶対に逆らえない力でベッドへと押し戻した。
「契約書も、配車の承認も、すべて終わっている。君がやることは何もない」
「終わっている? そんなはずはありませんわ、あの書類の決裁権を持っているのは、私だけのはず……」
「ああ。だから、私が緊急の代行を指示した。正式な権限の変更には、君の承認が要る」
レオンハルトは淡々と、恐ろしいことを口にした。
「君が倒れた後、私は『北ルート共同事業・安全責任者』としての緊急権限を拡大解釈し、君が抱え込んでいた決裁権限を、トーマス、エレナ、そしてオズワルドの三名に分割して委譲する書類にサインをした。君の私産を新たに担保へ入れることは止めた。君がすでに承認した金額と条件の内側で、彼らが事務処理を進めている」
「なっ……!」
私は目を見開いた。
「なぜ、私の許可なくそのようなことを……! 安全責任者の権限で、商務代表である私の決裁を勝手に動かすなど、明確な越権行為です! 私たちは、互いの専門領域を侵さないと約束したはずですわ!」
彼が軍用路の開放を決めた時、私は彼を信じて口を出さなかった。それなのに、彼は私の領域に土足で踏み込み、私が必死に守ろうとしていた境界線を無断で破壊したのだ。
「ああ、私の越権だ。……すまなかった」
彼はいっさいの言い訳をせず、真っ直ぐに私を見て深く頭を下げた。
その素直な謝罪に、私は言葉を失った。
「私は君を対等な相棒だと言った。君のやり方に口は出さないと。だが……」
レオンハルトは顔を上げ、ベッドの縁を強く握りしめた。その手は、かすかに震えているように見えた。
「ハンスの廃業を招いたあの失敗……地元の職人を一人救えなかった過去に君が囚われ、私産まで投げ打って、自分の身を削って倒れ続けるのを……私はもう、見ていられなかったんだ」
彼の声には、いつもの冷静な軍司令官としての響きはなかった。
ただ、大切なものを失うかもしれないという、不器用で、ひどく生々しい焦りと熱が孕んでいた。
「君は、自分一人ですべての責任を抱え込む必要なんてない。君が信じて集めた人間たちは、君が倒れた時に立ち上がれないほど弱くはない。……君は少し、周りを頼るべきだ」
正しすぎない、ただの感情に任せた彼の越境。
私を怒らせ、恨まれるかもしれないというリスクを冒してまで、彼は私を書類の山から引き剥がしてくれたのだ。
私は彼を責める言葉を完全に失い、ただ毛布を強く握りしめることしかできなかった。
*
翌朝。
幾分か体力を回復した私は、それでも自分の目で現場を確かめずにはいられず、身支度を整えて執務室へと急いだ。
「エレナ! トーマス!」
扉を開けると、そこには、いつもと変わらない活気に満ちた執務室の風景があった。
机の上に、私が抱え込んでいた未決裁の書類の山は一つもない。
「あ、ヴィクトリア様! もう起きられて大丈夫なのですか!?」
「ええ……あの、配車と契約の件は……」
私が尋ねると、エレナは胸を張って笑顔を見せた。
「ご心配には及びません。ヴィクトリア様が作ってくださった『判断基準のマニュアル』に従い、トーマス様とオズワルド様と協力して、すべて滞りなく処理いたしました。本日の物流は完全に正常に回っております」
「それに……これも届いておりますよ」
トーマスが、恭しく一枚の羊皮紙を差し出してきた。
そこには、商務省の重々しい印章が押されている。
『ヴァルグレン=リース北ルート共同事業について、再審査の結果、その公益性と実績を認め、恒久的な事業体として正式に認可する』
「……正式認可の通知……」
「はい。これにより、金融組合の信用枠も先ほど全額回復いたしました。女伯様の私産を担保とした一時保証の契約は、すべて保証解除と事業の信用枠への切替を済ませております」
トーマスの報告に、私は膝の力が抜けるのを感じた。
私がいなくても、業務は回る。
私が一人ですべてを抱え込み、犠牲にならなくとも、彼らは自らの足で立ち、問題を解決し、この領地を前へ進めてくれたのだ。
ただし、無断の代行を前例にしてはいけない。私は処理済みの一覧を受け取り、医師の許した短い時間で事後承認の範囲を確認した。今後の緊急代行は期間と金額に上限を設け、私の私産を動かす権限は含めない。レオンハルトも、その一条に署名した。




