第24話 第二王子はまず資料を読んだ
公開審理での劇的な勝利から、一夜が明けた王都アレシア。
私は王宮からの召喚を受け、かつて六年間通い詰めた見慣れた廊下を歩き、重厚な扉の奥にある御前会議室へと足を踏み入れた。
室内には、重苦しい沈黙が満ちていた。
長机の片側には、顔色を失ったアルベルト殿下と、苦渋の色を隠しきれないベルク宰相が座っている。そして上座には、長きにわたる外遊と療養から予定を切り上げて急遽帰還された、アルディア王国国王、エドガー陛下の姿があった。
陛下の斜め後ろには、静かな佇まいの若い青年が控えている。王位継承権第二位、二十歳になるセドリック第二王子殿下だ。
「……よく来てくれた、リース女伯ヴィクトリア」
エドガー国王が、威厳と疲労の混じった低い声で口を開いた。私は深く、完璧な淑女の礼をとった。
「此度の秋季物流の深刻な混乱、ならびに有能な官僚たちの王宮からの流出。余が王都を長く空け、王太子の国政への関与を急ぎすぎた結果の、監督の遅れである。王都の民に不安を与えたこと、国王として遺憾に思う」
国王は自身の非を率直に認めた上で、鋭い眼光をアルベルト殿下へと向けた。
「アルベルト。お前は『権限の分散』という言葉を耳触り良く解釈し、その間に存在していた見えない労力を軽視した。結果、各省の連携は麻痺し、昨日の中堅官僚たちの公開審理での証言が示す通り、人心を完全に失っている。……当面の間、お前の行政に対する直接の裁量権を大幅に縮小する」
「……はい、父上」
アルベルト殿下は反論することもできず、ただ深く頭を下げるしかなかった。ベルク宰相も、痛いところを突かれたように唇を噛み締めて沈黙している。
「これより、王太子府の運営状況について徹底した内部調査を行う。その補佐として、セドリック、お前に権限を与える」
国王の言葉に、控えていたセドリック殿下が一歩前へ進み出た。
彼はアルベルト殿下のような華やかさこそないが、その瞳には深く知的な光が宿っていた。
「承知いたしました、陛下」
セドリック殿下は一礼した後、私の方へと向き直った。
「リース女伯。此度の一連の混乱について、私はまだ十分な知識を持ち合わせておりません」
透き通るような、しかしよく通る声だった。彼は自らの立場を飾ることなく、淡々と語る。
「私はこれまで、第二王子として外交や軍事、法理に関する教育は受けてまいりました。しかし、アルベルト兄上との不要な二重権力状態を避けるため、二十歳になる今日まで、省庁を横断するような実務の指揮権は一切持たされてきませんでした。ゆえに、私には王太子府の複雑な調整業務に対する『現場の感覚』が欠如しております」
彼は、自らの弱点と経験不足を、大勢の貴族の前で堂々と認めたのだ。
アルベルト殿下のように「自分ならできる」と思い込むこともなく、ベルク宰相のように「自分の思想こそが正しい」と押し付けることもない。
「ですので、私は無責任な意見や推測を申し上げるつもりはありません。……まずは、あなたが残された王太子府の『横断調整に関する過去の現場記録』、各省庁間の『権限と責任の境界を示した表』、そして、現在リース伯領で動いている『北ルートの輸送実績に関する詳細な数字』。それらの資料をすべて、私の手元に提示していただきたい。物事の判断を下すのは、それらを熟読してからです」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥深くに、温かい安堵の波が広がっていくのを感じた。
――この国の中枢は、まだ完全に腐りきってはいなかった。
事実を見ず、理想や体面だけで国を動かそうとした者たちの失敗。それを正すために、次代の権力者はまず「正確な資料と数字」を求めたのだ。彼ならば、私が書き残した書類の隙間に落ちている意味を、正しく読み取ってくれるだろう。
「かしこまりました、セドリック殿下。当領の物流実績については、随時正確な数字をご提出いたしますわ」
私が微笑んで頭を下げると、国王は小さく息を吐いた。
「ヴィクトリア。お前の手腕には余も舌を巻いている。だが、お前に王宮への復職命令は出さぬ。忠誠や有能さは、権力で命じて縛り付けるものではないと、昨日の法廷で痛感させられたからな」
「……寛大なご配慮に、心より感謝申し上げます」
「ただし」
国王は、ベルク宰相の方をチラリと見てから告げた。
「商務省にて不当に保留とされていた『ヴァルグレン=リース北ルート共同事業』の恒久認可についてだが。これについても、余の鶴の一声で即時認可とはしない。特権を与えすぎれば、また別の歪みを生む。提出された実績の数字と法規に照らし合わせ、商務省にて公平な『再審査』に回すこととする」
即時認可とはならなかったが、ベルク宰相の悪意ある握りつぶしは排除された。
私は十分に満足し、深く一礼して御前会議の場を後にしたのだった。
*
王都での一連の用件を終え、数日間の旅路を経て、私たちは雪深きリース伯領へと帰還した。
私たちが不在の間も、権限を預けた留守役の管理官たちのおかげで領の行政と配車は滞りなく回っていた。王都の政治闘争から離れ、ようやく静かな領地経営に専念できる。
そう思って執務室の机に向かった、帰還から数日後のことだった。
「ヴィクトリア様……。申し訳ありません、至急ご報告しなければならないことが」
昼下がり。財務官のトーマスが、ひどく青ざめた顔で執務室に入ってきた。
彼の手には、数通の金融組合からの書状が握られている。
「どうしたの、トーマス。そんな顔をして」
「……王都の御前会議で下された、共同事業の認可に関する『再審査』の件です。あの決定が、市場に悪い影響を及ぼしています」
トーマスは苦しげに書類を机の上に広げた。
「法廷での勝利で不当な扱いは消えましたが、『再審査に回る』ということは、正式な認可が下りるまでの保留期間が、想定よりも数週間から一ヶ月ほど延びることを意味します」
「ええ、それは覚悟の上よ。実績を提出して正当に待てばいいだけでしょう?」
「問題は、民間の金融組合の動きです。彼らは認可の不確実性を嫌います。事業の法的根拠が長期間宙に浮いたままであることをリスクとみなし……当共同事業に対する『短期信用枠』を、大幅に縮小するという通達を出してきました」
私は息を呑んだ。
短期信用枠。それは、手元に現金が届くまでの間、商人を動かし、荷馬車を雇い、資材を確保するための「前払い保証金」の源泉だ。
「信用枠が縮小されれば……明日の配車のための、御者たちへの前払い金がショートするということ?」
「……はい。すでに手元の流動資金だけでは、明日の運用を回し切れません」
トーマスの報告は、最悪のタイミングでもたらされた。
そして翌朝。リース伯領の倉庫前では、懸念していた事態が現実のものとなる。
厳しい冷え込みの中、荷を積むはずだった地元の御者二人が、腕を組んで抗議の声を上げていた。
「悪いが女伯様、前払いの保証金が出ねぇんじゃ、この荷は運べねぇ!」
「そうだ! 雪道で馬に食わせる飼葉代だって馬鹿にならねぇんだ。約束の金が出ないなら、俺たちは今日でこの仕事を降りさせてもらうぜ!」
私は、自分の手足が急速に冷えていくのを感じながら、彼らの前に立ち尽くしていた。




