第3話 署名を覚えている北境伯
王都アレシアを出発して五日目。風景はなだらかな平原から、険しい山々を遠くに望む丘陵地帯へと変わりつつあった。
私の領地であるリース伯領までは、もうそれほど遠くない。馬車の揺れに身を任せ、静かな思考の時間を楽しんでいた時だった。
「――おっと! どうーどう!」
唐突に御者が馬を止め、馬車が大きく揺れた。
何事かと思い窓の外を見ると、前方の街道が完全な渋滞を起こしていた。黒地に銀の狼の紋章を掲げた軍用馬車と、一般の商人の荷馬車が狭い道で鉢合わせになり、前にも後ろにも進めなくなっている。
「申し訳ありません、女伯様。どうやら前方が詰まっているようでして」
「怪我はない? 少し、様子を見てくるわ」
私は日除けの外套を羽織り、馬車を降りた。
渋滞の先頭付近では、怒声に近い声が飛び交っていた。ぬかるみに車輪を取られた大型の荷馬車が道を斜めに塞いでおり、その横をすり抜けようとした別の馬車が絡まって、見事な知恵の輪状態になっているのだ。
その混乱の中心で、通る声で指示を出している長身の男がいた。
漆黒の軍服に身を包んだ、精悍な顔つきの青年だ。彼が北西国境を束ねる若き主、レオンハルト・ヴァルグレン辺境伯であることは、その出で立ちと周囲の兵士たちの態度からすぐに分かった。二十八歳で国境軍を束ねる当主だと、王都で聞いたことがある。
「三番と五番の馬を外せ! まずは軽い荷車を後ろへ下げて道幅を開けるんだ。無理に引っ張れば車軸が折れるぞ!」
彼の指示は的確だった。だが、兵士たちが力任せに動かそうとしている馬車は、どれも荷台が深く沈み込んでいる。
「……お待ちください」
私は泥を跳ね上げないよう慎重に歩み寄りながら、声を上げた。
兵士たちが訝しげに私を振り返り、レオンハルト辺境伯も鋭い視線をこちらへ向けた。
「あの青い幌の馬車は鉄鉱石、隣の麻袋は麦ですね。重量があるものをぬかるみから引き抜こうとしても、足場が沈むだけです。右側の古い木材用の側道に、重量の軽い軍の空馬車を三台、完全に退避させてください。そうすれば中央の道幅が広がり、鉄鉱石の馬車を道の中央へ斜めに引き出す動線が確保できます」
私は彼らの作業を否定せず、積荷の目印から重量を推測し、物理的な順序だけを提案した。自分の身分を名乗ることも、「通しなさい」と高圧的に命じることもしない。
辺境伯は私の顔と、馬車の積荷、そして右側の側道を一瞥した。
普通なら、素性の知れない女の口出しなどと一蹴される場面だろう。だが彼は、わずか数秒で私の提案の合理性を理解したらしい。
「よし、今の案を採用する。空馬車を右へ退避! 急げ!」
彼の号令で兵士たちが一斉に動いた。
指示通りに空間が確保されると、知恵の輪が解けるように鉄鉱石の馬車が引き抜かれ、嘘のように道が開けた。
滞っていた荷列が、ゆっくりと再び動き始める。
私はほっと息をつき、自分の馬車へと踵を返そうとした。
「待ってくれ」
背後から呼び止められ、振り返る。
レオンハルト辺境伯が、私の前まで歩み寄ってきていた。近くで見ると、北の厳しい風雪に鍛えられた体躯の厚みがより際立って見えた。
「的確な指示だった。私はレオンハルト・ヴァルグレン。あのまま力押しをしていれば、車軸を折って半日は足止めを食うところだった。助かった」
「とんでもありません。皆様の動きが迅速だったからですわ。私はヴィクトリア・エルデンと申します。北の自領へ向かう途中でした」
エルデン、と名乗った瞬間。
辺境伯の表情が、微かに、だが確かな驚きをもって変化した。
「……エルデン。王太子府の、政策調整官の?」
「今はもう、元・政策調整官ですが」
私は少し自嘲気味に微笑んだ。
おそらく、王都から届いた婚約破棄の噂でも思い出したのだろう。厄介な事情を知られてしまったなと内心で息を吐いた私に対し、彼は信じられないものを見るような真摯な目を向けた。
「……顔は存じ上げなかった。だが、その名前はよく知っている」
彼は居住まいを正し、少しだけ声を潜めた。
「二年前の十一月だ。我々国境軍からの冬季兵站要請が、王都の財務省、内務省、軍務省の三つの壁に阻まれ、完全にたらい回しにされて止まっていた時期があった。記録的な寒波が迫り、最前線の兵士たちはあと数日で物資が尽きるという極限状態だった」
その時期のことは、私にも記憶があった。
各省が予算の拠出を渋り、互いに責任を押し付け合っていた案件だ。私は各省の法規の隙間を縫い、特例予算と国防規定を紐付けて、強引に最終決裁を通したのだった。
「期限ぎりぎりで、突如として三省の壁が開き、補給部隊が国境へ到着した。あの物資がなければ、私の部下たちは凍傷で手足を失うか、あるいは命を落としていた。……その時に届いた、決裁を通した一枚の横断調整書。その末尾にあった署名が『V. Elden』だった」
「それは……ただの、私の仕事です。書類の調整をしたに過ぎません」
「王都ではただの書類かもしれない。だが、北の辺境では兵士の命そのものだった。あの署名を書いた人物に、いつか直接礼を言いたいと思っていた」
辺境伯は、王宮の貴族が見せるような建前の賞賛ではなく、血の通った一人の指揮官として深く頭を下げた。
胸の奥が、熱くなった。
王宮で私が六年間やってきたことは、アルベルト殿下にとっては「本来の行政を歪める無用な介入」に過ぎなかった。問題が起きないように書類の束と格闘した日々は、誰からも評価されず、ただ「そういうもの」として消費されてきた。
けれど、私の引いた一行のインクの線が、遠く離れた雪深い国境で、誰かの凍える手足を温め、命を繋いでいたのだ。
「……その言葉だけで、六年間のすべてが報われた気がします。ありがとうございます、辺境伯閣下」
私は扇を持たない手で、心からの淑女の礼を返した。
互いに敬意を交わし、私たちはそれぞれの馬車へ戻った。彼らに道を譲られながら、私の馬車は再び街道を進み始める。
胸の中に、小さく、けれど確かな温かい火が灯っていた。北へ向かうこの道を選んでよかったと、素直に思えた。
だが、その温かな余韻は、数時間後にあっさりと途切れることになる。
私の領地であるリース伯領の入り口付近に差し掛かった時、馬車が再び停車したのだ。
「女伯様……」
小窓から覗き込んできた御者の顔は、先ほどの渋滞の時よりも遥かに困惑していた。
「前方の橋の前に、荷馬車が二十七台も停まっています。商人の様子からして、どうやら三日は足止めを食らっているようでして……」




