第2話 出立の朝、最初に止まったもの
まだ夜も明けきらぬ、エルデン公爵家の王都邸。
私は自室の机に向かい、王宮で書き上げて封をした引継ぎ書の宛名を確かめていた。
六年分の業務記録ではない。現在進行形で動いている三十あまりの案件の進捗状況と、それらが各省庁のどの窓口の、誰の管轄であるかを示した一覧表だ。
未解決の論点と期限、後任の決裁が必要な箇所を明記した。これから誰が決めるかは、新しい体制に委ねるしかない。「権限を各省へ戻す」というアルベルト殿下たちの決定に従い、事実だけを記した書類束は、公爵家の使者が始業前に王太子府の私の空き机へ届ける。それが済めば、王都での私の役割は完全に終わる。
「ヴィクトリア。本当に行くつもりなのか」
静かな書斎に、くぐもった声が響いた。
振り返ると、父であるヘクトル・エルデン公爵と、家督を継ぐ予定の兄ジュリアンが立っていた。父の顔には、隠しきれない怒りと疲労が滲んでいる。
昨夜の夜会での出来事は、すでに関係者を通じて公爵家にも知らされていた。
「あのような理不尽な婚約破棄、到底看過できるものではない。王家に対して即刻抗議の使者を送るつもりだ。お前がここまで王太子府に尽くしてきたというのに……!」
「お待ちください、お父様」
私は立ち上がり、父の言葉を遮った。
「抗議は不要です。これは単なる政治的契約の終了として処理すべき案件です。感情の問題ではありません」
「しかし、それではお前が不当に傷つけられたままだ」
「私が不当な扱いを受けたかどうかも、もはや重要ではありません。殿下と宰相閣下は、私の存在が国家運営を歪めていると判断されました。私が公爵家の力を使って抗議すれば、彼らの『エルデン公爵家による政策支配』という疑念を証明してしまうことになります」
父は奥歯を噛み締め、悔しげに視線を落とした。兄のジュリアンも沈痛な面持ちで私を見つめている。
「お前は、悔しくはないのか?」
「……契約通りに職務を終えただけですから。それに、立つ鳥跡を濁さず、と言いますし」
私は微かに微笑んでみせた。
強がりが全くないと言えば嘘になる。だが、六年間の労力を惜しむ気持ち以上に、今は奇妙なほどの身軽さを感じていた。
「王家の文書や予算はもちろん、これまで実務で使わせていただいていた公爵家の私有倉庫の権利や、金融組合の信用保証枠も、すべて清算して家へお返しする手はずを整えました。私は王家の物も、公爵家の物も、一つも持ち出しません」
「ヴィクトリア……」
「ご心配には及びません。私には、母様から独立して引き継いだリース伯爵としての地位と領地がありますから。王都の喧騒から離れて、少し北の空気を吸ってきます」
それ以上、父も兄も私を引き留めることはしなかった。
夜明けの光が東の空を白く染め始める頃、私は最小限の私物だけを積んだ馬車に乗り込んだ。
車輪が石畳を叩く音と共に、公爵邸の門が遠ざかっていく。
王都の城門を抜けると、街道の両側には朝霧に煙る平原が広がっていた。六年間、常に頭の片隅で「あの予算はどうするか」「あの会議の根回しは済んだか」と考え続けていた窮屈な思考の檻が、静かな朝の空気の中に溶けていくようだった。
◆
同刻、王都アレシア。王太子府の第一会議室。
エミール・ローデンは、昨夜ヴィクトリアが返した印章を思い出していた。
「港湾倉庫は輸入品の検疫に使います。国内救恤の荷を入れる余地はありません」
「ならば別の倉庫の借り上げ費を認めていただきたい」
「追加予算は認められません。各省の枠内でお願いします」
外務、内務、財務。三人の代表の主張を、新しい進行役が書き留めていく。
誰も間違った規則は口にしていない。だからこそ、誰も譲らなかった。
「検疫の日程をずらす代わりに、内務省から輸送車を出してはどうでしょう」
エミールが言うと、進行役が顔を上げた。
「他省の運用を変える決裁は、私の権限にはありません。双方でお持ち帰りください」
その双方が決められないから、今ここに集まっている。
昼の鐘が鳴る頃、議事録だけが完成した。倉庫の予約も、明日の護衛も、白紙のままだった。
廊下で報告を受けたベルク宰相は、紙を一瞥して返した。
「一人に頼りすぎた反動だ。各省が慣れれば回る」
エミールは窓へ目を向けた。中庭には、許可証を待つ御者たちが座っている。
会議を開いたという記録は残った。荷が動いたという記録は、今日も残せない。
*
王都を出て五日目。
私の乗る馬車は、順調に北へ向かう街道を進んでいた。
秋の気配が色濃くなり始めた風が、開け放した車窓から入り込んでくる。
このまま何事もなく、自分の領地であるリース伯領に到着すれば、これからは領民の生活を豊かにするための仕事に専念できる。
そう穏やかな未来を思い描いていた時だった。
「女伯様、後方から早馬が来ます」
御者台からの声に、私は窓から身を乗り出して後ろを振り返った。
もう王宮から追手が来たのかと一瞬身構えたが、土煙を上げて迫ってくる一騎の騎影が掲げているのは、王家の紋章ではない。
見覚えのない、黒地に銀の狼をあしらった旗。
それは、北西国境を護る軍事の要、ヴァルグレン辺境伯家の紋章だった。
追いついた騎兵は前方の道で荷車が立ち往生していると告げ、通行する馬車へ注意を促して回っていた。ほどなく、その黒い旗が連なる車列が見えてきた。




