第1話 印章を置いて出ていきます
王暦六一二年、九月。
弦楽の調べが唐突に止み、シャンデリアの眩い光に照らされた夜会の広間が、水を打ったように静まり返った。
数百人の貴族たちが作る人の波が左右に割れ、その中心で、この国の次期国王たるアルベルト王太子が冷ややかな視線を下ろしている。
「ヴィクトリア・エルデン。君との婚約を、本日付で解消する」
よく通るアルベルトの声が、大理石の床に反響した。
ひそひそとした囁き声が、さざ波のように広間を駆け巡る。好奇、嘲笑、あるいは純粋な驚き。無数の視線が、王太子の対面に立つ私――ヴィクトリア・エルデンに一斉に突き刺さった。
私は扇を閉じ、背筋を伸ばしたままアルベルト殿下を見つめ返した。悲鳴を上げることも、膝から崩れ落ちることもない。ただ、胸の奥底に小さな、けれど確かな痛みが走ったのを感じていた。
――最後に名前を呼ばれたのは、いつだったかしら。
ふと、そんな場違いな思いが脳裏を過る。
私とアルベルト殿下の婚約は、六年前、私が十八歳の時に結ばれた政治契約だった。エルデン公爵家と王家の結びつきを強化するためのものであり、そこに燃え上がるような恋情があったわけではない。
それでも、私は私なりに、次期王太子妃としての役割を果たしてきたつもりだった。
婚約と同年に王太子府の政策調整官補佐に任用され、二十一歳からは正式な政策調整官として、省庁間の利害対立を調整し、予算を削り出し、期限内に事業を通すための泥臭い実務を担い続けてきた。
数ヶ月前の、私の二十四歳の誕生日。あの日も私は、彼と食事を共にすることはなかった。殿下が夜会に出席している間、私は王太子府の執務室に残り、財務省と内務省で揉めに揉めていた冬季救恤予算の折衝案を、夜半までかかって書き直していた。
愛されてはいなかったかもしれない。けれど、役に立つことで、私は彼の隣に立つ権利を得ているのだと思っていた。
「……理由を、お伺いしても?」
抑揚のない、平坦な声が出た。
アルベルト殿下は僅かに顎を上げ、淀みなく答えた。
「君の存在が、我が国の正常な行政運営を歪めているからだ」
「私が、ですか」
「そうだ。本来、各省庁が独立して担うべき判断を、王太子府の一介の調整官に過ぎない君が牛耳っている。エルデン公爵家による政策支配の再来と言わざるを得ない。これは古い体制を打破し、権限を本来あるべき場所へ戻すための不可欠な改革だ」
淀みないその言葉は、彼自身の底から出たものではないとすぐに分かった。
殿下の斜め後ろに控える初老の男――宰相ベルク侯爵が、静かに頷くのが見えたからだ。
「殿下のおっしゃる通りです」
ベルク宰相は、広間の貴族たちにも聞こえるよう、よく響く声で同調した。
「特定の家門、特定の個人への過剰な権限集中は避けるべきです。ヴィクトリア嬢の働きを否定するものではありませんが、権限は各省へ戻すべきだ。それが近代的な国家運営というものでしょう」
なるほど、と私は内心で納得した。
ベルク宰相は以前から、横断的な調整機関である王太子府の存在を疎ましく思っていた。「誰にでも回せる制度」を作りたい宰相にとって、属人的な調整で各省の壁を越えてしまう私の存在は、目障りな異物だったのだろう。
そしてアルベルト殿下は、ベルク宰相の分散統治論を「新しい時代の改革」だと無邪気に信じ込んでいる。
殿下に見えているのは「何も問題が起きていない日常」だけだ。その日常を維持するために、どれほどの書類が書き直され、どれほどの根回しが行われ、どれほどの人間が泥を被っているか、彼は一度も想像したことがない。
「……なるほど。よく分かりました」
私は息を吐き、扇を胸の前に当てて、完璧な淑女の礼をとった。
勝ち誇るつもりも、ここで己の功績を並べ立てて彼らを論破するつもりもなかった。不要だと言われたのなら、去るだけだ。私は道具ではないし、人に縋り付いてまで残りたいと思えるほど、この場所は温かくはなかった。
「アルベルト殿下からの婚約解消の件、確かに承知いたしました。エルデン公爵家を通じた正式な手続きは、追って進めさせていただきます」
「ああ。分かってくれればいい」
アルベルト殿下が、ほっとしたように、あるいは少し拍子抜けしたように表情を緩めた。すがりつかれるとでも思っていたのだろうか。
私は顔を上げ、言葉を続けた。
「つきましては――婚約解消に伴い、王太子府政策調整官の職務も、本日、ただいまをもちまして終了とさせていただきます」
「……なんだと?」
殿下が怪訝そうに眉をひそめた。
「私の政策調整官としての任用根拠は、次期王太子妃という立場と、王家との婚約契約に紐づくものです。任用条項には、王太子殿下が婚約解消を宣言した時点で職務権限を停止するとあります。両家の清算を待つ間も、私が国家の重要書類に決裁を下すことはできません」
私は首から提げていた細い銀のチェーンを外し、その先についていた小さな印章を手のひらに乗せた。王太子府の実務決裁権を示す、政策調整官の印章だ。
私はそれを、近くにあったワインテーブルの上へ、ことりと音を立てて置いた。
「印章は返還いたします。国家の文書、予算案、その他一切の公的な資料を私が持ち出すことはありません」
広間の空気が、微かに変わった。
ただの貴族の恋愛沙汰、悲劇の令嬢の追放劇。そう思って好奇の目を向けていた者たちの中で、実務に関わる官僚たちの顔色が変わる気配がした。
「待て。急に辞めるというのか? それでは引き継ぎが――」
「明朝の業務開始時間までに、現在動いている案件の進捗一覧と、各省庁の担当者名簿を私の執務机に残しておきます。それが最低限の引き継ぎです。そもそも、殿下とベルク宰相閣下が『権限を各省へ戻す』と判断されたのです。私がいなくなれば、あるべき正常な姿に戻るのでしょう?」
告げると、アルベルト殿下は言葉に詰まった。
ベルク宰相も眉をピクリと動かしたが、すぐに平然とした顔を取り繕った。
「結構です、ヴィクトリア嬢。あなたの賢明な判断に感謝します。殿下、ご心配には及びません。我が国の官僚は優秀です。明朝から、本来の手順通りに各省で処理させれば済むことですから」
「……そうだな。各省の優秀な官僚たちで回せるはずだ」
アルベルト殿下は気を取り直したように頷いた。
「お待ちください、殿下!」
不意に、広間の後方から悲痛な叫び声が上がった。
人混みを掻き分けて前に飛び出してきたのは、内務省救恤局で次官補を務めるエミール・ローデンだった。普段は温厚で冷静な三十代半ばの実務官が、今は血の気を失った真っ青な顔でアルベルト殿下を見上げている。
「エミール次官補? どうした、夜会の席だぞ」
「そ、それどころではありません! ヴィクトリア様が今夜付で職務を離れられるなど……明朝には、財務省と外務省を交えた三省合同会議が控えているのですよ!」
エミールの声は微かに震えていた。
彼のような現場の中堅実務官は知っているのだ。各省の要求が真正面からぶつかり合う会議において、誰もが責任を回避しようとする境界線上で、誰が泥を被って最終的な判断を引き受けていたのかを。
「会議なら予定通り開けばいいだろう。各省の代表が集まるのだから、そこで話し合って決めればいい」
「話し合いで決まらないから、王太子府の調整が必要なのです! 倉庫の予約権、護衛の優先順位、緊急時の責任者の変更……省庁をまたぐ問題は、各省の規定だけでは絶対に決着しません!」
「大袈裟な。ヴィクトリアが一人いなくなっただけで国が止まるわけがなかろう」
アルベルト殿下は煩わしそうに手を振った。
エミールは絶望的な表情で私を振り返った。その目には「嘘だと言ってくれ」という懇願の色が浮かんでいたが、私は首を横に振った。
もう、私の仕事ではない。
「それでは殿下、皆様。私はこれで失礼いたします。六年間、お世話になりました」
私は深く一礼し、踵を返した。
背筋を伸ばし、一定の歩幅で広間の扉へ向かって歩く。私を避けるように、貴族たちの波がまた左右に割れて道を作った。
広間を出る直前、背後からエミール次官補のひび割れたような声が聞こえた。
「……明朝、誰が省庁間の最終判断を引き受けるのですか」
その問いに答える声は、誰からも上がらなかった。




