第22話 戻る人、残る人
王都から『帰還命令』という強権的な圧力が届いて数日後。
リース伯領の執務室の扉を、ひどく重い手つきでノックする者があった。
「……お入りなさい」
声をかけると、入ってきたのは元・内務省救恤局倉庫会計のアデル・モランだった。
王都から父親を連れて移住してきた彼女は、この数週間、リースの中継倉庫における複雑な在庫管理を完璧に回してくれていた。私にとっては絶対に手放したくない有能な人材の一人だ。
だが、私の前に立った彼女の顔色は青白く、その両手は前で固く握りしめられていた。
「ヴィクトリア様……申し訳ありません」
アデルは深く、絞り出すように頭を下げた。
「私は、王都へ戻ることに決めました」
「……」
私はペンを置き、静かに彼女を見つめた。
怒りも、失望もなかった。こうなる可能性は、王都からの手紙を見た瞬間から予想していた。
「お父様のご病気の件ね?」
「はい……」
アデルは顔を上げ、苦しげに唇を噛んだ。
「父の慢性心疾患は、北の診療所のおかげで今は安定しています。ですが……やはり月例の精密検査と細かな投薬調整は、王都の大学病院でなければできません。もし冬に急変した時、ここから王都の病院までは遠すぎます」
彼女の目に、悔し涙が滲んでいた。
「それに、あの帰還命令です。王都へ戻れば、停止していた王国勤続加算が再開されます。父に十分な医療を受けさせ、将来の生活を守るためには……私には、その恩給を捨てる覚悟が持てませんでした。こんなに良くしていただいたのに、途中で投げ出すような真似をして、本当に申し訳ありません……!」
今にも泣き崩れそうなアデルに、私はゆっくりと近づき、その震える肩に手を置いた。
「謝る必要はどこにもありませんわ、アデル。あなたは家族を守るための、最も正しくて勇気ある選択をしたのです」
「ヴィクトリア様……?」
「私は最初にお伝えしたはずです。残るのも戻るのも、あなたの自由だと。王都の恩給は、あなたが長年真面目に働いて得た正当な権利です。それを家族のために使うことを、誰が責められましょうか」
私は自席に戻り、引き出しから数枚の書類を取り出した。
「さあ、そうと決まったら急いで手続きを進めましょう。王都の救恤局への復籍願と、こちらでの退職証明書。それから、用意していた家族住宅の解約手続きも私が代行しておきます。あなたは、お父様のお体を冷やさないように、帰り支度に専念なさい」
「あ……そんな、手続きまで」
「王都での職務上知り得た機密の守秘義務については、あなたなら十分に理解しているはずですから省きます。……短い間でしたが、あなたの倉庫管理には本当に助けられました。王都へ戻っても、どうかお元気で」
私が微笑んで書類を差し出すと、アデルは両手で顔を覆い、静かに泣き出した。
それは罪悪感の涙ではなく、安堵の涙だった。
これで、領内にいた移住者は、就業者三十二名、扶養家族三十八名の計七十名から、アデルと父親の二名が減り、六十八名となった。数字上はわずかな痛手かもしれない。
だが、彼女を笑顔で送り出したことこそが、「人は所有できない」という私の――いや、この北の地が掲げる真実の証明だった。
*
アデルの馬車が王都へ向けて出発したその日の午後。
執務室には、エレナ、トーマス、そして職人のマルクの三人が集まっていた。彼らの手には、王都の法廷からの『公開審理の召喚状』が握られている。
「アデルさんは、ご家族のために王都へ戻られました」
私は三人の顔を見渡し、静かに告げた。
「彼女は自由な意思で戻ることを選びました。そして、王都の法廷では、あなたたちにもその選択が問われます。特権と恩給を捨ててまで、なぜこんな辺境に残るのかと」
「そんなの、決まっています」
真っ先に口を開いたのは、エレナだった。
「私は、ただ言われた通りにペンを動かすだけの歯車には戻りたくありません。あの徹夜の夜、ヴィクトリア様が私の名前で提出させてくれた書類……あの時に感じた自分の仕事への誇りを、もう一度捨てろと言われる方がよほど苦痛です」
「ええ。私も同感です」
トーマスが眼鏡の位置を直し、淡々とした声で続けた。
「私の弾き出した数字を、身分や派閥というフィルターを通さずに、ただ正確な数字として読んでくれる場所はここだけです。正論を握りつぶされる王宮に戻るくらいなら、この北で泥にまみれながら原価計算をしている方が、私の精神衛生上よほど健全です」
「あっしも同じでさぁ」
職人のマルクが、日に焼けた腕を組んで豪快に笑った。
「俺の名前が刻まれた橇が、今日も街道を走ってる。それに、先日弟子入りしてきた地元の坊主を、中途半端なところで放り出すわけにはいきませんからね。王都の大きな商会で名前を消されて働くより、この北で『マルク親方』と呼ばれる方が、性に合ってます」
三人の目には、王都の権力に対する恐れなど微塵もなかった。
彼らがこの北に残る理由は、私という個人への狂信的な忠誠ではない。彼ら自身がこの場所で得た「人生の一日が変わった記憶」であり、自分自身の働き方に対する誇りなのだ。
「……皆さんの覚悟、確かに受け取りました」
私が深く一礼した、その時だった。
「お待ちくだされ。私も、その法廷とやらに同行しますぞ」
執務室の扉が開き、代官のオズワルドが歩み出てきた。
王宮との直接対決となる法廷に、地元の代官がしゃしゃり出るのは異例のことだ。
「オズワルド? これは元官僚の移住に関する問題です。あなたが矢面に立つ必要は……」
「女伯様、勘違いなさるな。私は、女伯様のやることすべてに無条件で賛成しているわけではありません」
オズワルドは厳しい顔つきで、しかしはっきりとした声で言った。
「ですが、退職してどこに住み、誰の下で働くかを選ぶ自由は、王都の人間だろうが地元の人間だろうが同じはずです。それを、現場の生活も知らぬ王宮の連中が、権力と都合だけで縛り付けようとする。……そのやり方は、この地を預かる代官として、到底看過できるものではありません。この北の地がどういう場所かを、私が法廷で証言してやりましょう」
オズワルドの言葉に、エレナやトーマスたちも力強く頷いた。
彼らは決して「私を守る」ために戦うのではない。彼ら自身が選んだ「自由」と、この「生活の場」を守るために、自らの意思で立ち上がったのだ。
アデルという一人の人材を王都へ帰したことで、「残る」という彼らの選択は、より一層本物の輝きを帯びていた。
「……ありがとう、皆」
私は彼らの顔を一人一人見つめ、胸の奥から湧き上がる熱を抑えながら言った。
「では、準備を。私たちが自分の意思でこの場所を選んだという事実を、王都の法廷で、あのベルク宰相に証明してやりましょう」
そして数日後。
証人たちを乗せた数台の馬車は、鉛色の雪雲が垂れ込める北の空を背に、因縁の地である王都アレシアへ向けて出発した。




